もうすぐで冬が終わる。まだまだ寒いけれど、ほんの少しだけ寒さが和らいだ気がして、嬉しいようなどこか寂しいような。いや、嬉しいに決まってるでしょ。冬なんていいことないし。寒いし。寒すぎて痛いし。
 そんなことを、雪が少しだけ溶けて顔を出している若草を見て考えている。白色の中にぽつんと現れた緑色。かわいい。そんなふうに飽きもせずじっと眺めてしまう。まだ幼い緑色はきらきらと朝焼けを反射して、元気いっぱいだ。今にもきゃっきゃと騒がしいことが聞こえてきそう。そんなふうに思った。
 春合宿とは名ばかりの雪深い合宿所での一週間。三年の先輩が卒業してしまって、わたしたち一年生と二年生の先輩だけが参加している。騒がしい先輩たちがいないのは寂しいし、どこか心細さを感じてしまう。けれど、もうすぐにわたしたちにも後輩ができる。いつまでも寂しいとか不安だとか言っていられない。そんな逸る気持ちが出たのか、ずいぶん早く目が覚めてしまった。
 部屋の中でじっとしていられなくて外に出てきてしまった。まだまだ起床時間は先。空にはようやく太陽が昇ってきて、暗かった空がじわじわと温かい色に染まってきている。朝焼けを見るとどうにも感傷的になる。何かが終わってしまって、真っ新な一日がはじまる。そんな、不思議。ぽつりと独り言を呟く。

「何してんの、まだ早朝なんだけど」

 いつの間にか開いていた合宿所の窓。そこから外を見ていたのは同輩の国見だった。眠たそうな顔をしてわたしを見ている。珍しい。いつも一番起きるのが遅いと言っても過言ではないのに。そう言ったら「トイレ」とだけ返事があった。

「風邪引くよ。中戻りなって」

 気怠そうな声。もう聞き慣れたものだけれど、感傷的な気分のわたしには、とても安心感をくれるものだった。何も終わっていない。全部まだここにある。そんな思いにさせてくれるというか。
 足下の若草。春の訪れを感じさせてくれる小さな息吹。冬の中でもしっかり春の芽生えはこうして生きている。やっぱりきれいな色だ。新しいはじまりだけれど、ゼロからはじまったものじゃない。わたしたちもそう。これまでの全部が終わってしまうわけではないんだな。寂しかった気持ちがほんの少しだけ晴れた気がした。
 足下を見つめているわたしに国見が「何?」と不思議そうに聞いてくる。窓から顔を出してわたしの足下を覗き込む。そうして不思議そうに「何もないじゃん」と言った。

「というか、ねえ、寒いんだけど。早く戻ってきなって。あと二時間は寝れるじゃん」
「うーん、もうちょっとだけ。国見は気にせずトイレ行きなって」
「そうは言われても。大事なマネージャーに風邪引かれたら困るし」
「あらやだ嬉しい」

 笑ってやる。何よ、大事なって。そんなこと言うタイプじゃないじゃん。国見はあくびをこぼしつつ「大事なもんは大事なの」と気怠げに呟いて手招きしてくる。「ほら早く戻って」とぼんやりした声で言われる。
 足下の若草を見下ろす。瑞々しい緑色が少しずつ空を暖めていく光にきらきらしている。もうすぐ春だね。国見にそう呟くと「いや、まだ雪も溶けてないんだけど」と笑われた。そうは言っても。春がここから顔を出そうとしているのだから仕方ない。わたしも笑いながらそう返して、仕方なく国見がいるほうへ近寄っていく。

「あーもうほら鼻真っ赤じゃん」

 窓から手を伸ばして国見がわたしの鼻を軽くつまんだ。国見、手あったかい。「痛いよ」と笑いつつ国見の手首を掴む。わたしの手の冷たさにびっくりしたのか、国見がびくっと震えたのが伝わってきた。鼻をつまんでいた手を離して、そのままその手でわたしの手を掴む。「冷たすぎなんだけど」と呆れたように呟かれる。
 ちょっと寂しいな、と思ってたの。そんなふうに呟く。国見はそれに「なんで」と首を傾げた。まあ、国見はそういうふうに思うタイプじゃないか。苦笑いをこぼしてから「静かだから」と言ったら、余計に首を傾げられてしまう。「朝だからね」と怪訝そうにされると、笑ってしまった。
 風が吹いた。冷たい風だ。それにびっくりした小鳥が飛び立って、木々から雪が少し落ちる。冬の匂い。鼻の奥がツンと痛くなるような、新雪の香りのような。痛いけどどこか懐かしくて健やかな匂い。それを感じながら息を吐くと、国見も同じように息を吐いた。二人の息が白くなって、すぐに消えていく。冬に溶けて消えてしまった。そんなふうに思った。

「本当に寒い。もう何でもいいから中入って。俺ジャージしか羽織ってきてないんだけど」
「だからわたしのことはいいって言ったのに。はいはい、戻りまーす」

 だから、手を離してもらえないでしょうか。そんなふうに国見が手を離してくれるのを待ってみる。じっとわたしの顔を見つめて、国見が一つ瞬きをした。
 ぐいっと手が引っ張られた。突然のことだったので引っ張られた方向にそのまま移動してしまうと、国見の空いているほうの手が、わたしの頬に添えられた。あったかい、けど、何? びっくりして瞬きをしている間に、ちゅ、と軽くおでこに何かが当たった感触があった。離れていく国見の顔と手。スローモーションのように見えたそれに固まりつつも、思わずおでこに手を当ててしまう。え、今、何された? そんなふうに。
 ぼと、とどこかでまた雪が落ちた音がする。その音にハッとして「ちょっと、何すんの」と若干照れながら抗議をしておく。国見は窓枠に頬杖をついて余裕綽々、といった様子だ。ムカつく。そんな国見を睨んでいると、また風が吹いた。いい加減わたしも寒い。もうちょっと外を見ていたい気持ちもあるけれど、本当に体調を崩しかねないから観念したほうが良さそうだ。一旦国見から視線を外して合宿所の中に入る。つっかけをきれいに揃えてから、そうっと国見がいるほうに顔を向ける。国見はもうしっかり窓を閉めて、こっちを見ていた。

「早起きは三文の徳」
「何、突然」
「分かってるくせに」

 けらけらと笑いながら国見が歩いて行く。ああ、そういえばお手洗いに行きたいんだったね。我慢させてごめんなさいね。そう一応謝っておく。国見は「いーえ」と軽く笑いながらひらひら手を振り、お手洗いがあるほうへ消えていった。
 無理やり雪をかき分けられたような気分だ。ずっと奥で眠っていた、それこそ若草を見つけられてしまったような。爽やかなようで、ちょっと野暮というか。そのうち春が来て雪が溶ければ自分から姿を出せるのに。
 おでこに残る柔らかい感触。それが面映ゆくて、国見にまた鉢合わせてしまわないように、こそこそと廊下を歩いて行く。部屋に戻ったとしてもこれ、眠れるかな。どきどきして眠れないかもしれない。国見、なんであんなことしたの。好きな子にしかああいうの、しちゃだめだよ。そう少し、期待してしまう自分がいる。


雪解けの唇
緑色 × 国見英

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