ここに永い季節が眠る

※未来設定。捏造を含みます。




 思えば、はじめからわたしは、いつかこの日が来ると分かっていた気がする。幼い頃に交わした大切な約束のように、誰でも知っている歌のフレーズのように。変えようのない結末としていつも頭の片隅に、この日を思い描いていた。
 雪がちらつく道を、無言で歩いている。隣を歩いている聖臣も無言だった。今にも凍り付きそうなほどの静かさ。わたしたちの間には、いつの間にかできていた見えない空間がしっかり存在している。
 聖臣はあと数時間後に日本からいなくなる。海外リーグに挑戦すると言い出したときは驚いたけれど、まあ、聖臣ほどのバレー選手ならそう考えるのが普通か、と納得もした。その話を聞かされたときには「あ、そうなんだ」くらいしか反応をしなかったけれど、今思えばあの反応はちょっと可愛げがなかった。今になって反省している。
 ついてきてほしいとも、どうしたいかとも聞かれなかった。淡々と一人で日本を出る準備をし、諸々の手続きをし、聖臣はきっちり一人きりで何もかもを終えた。その様子を見ているわたしも特に口を挟むことはなく、淡々と結末を迎える準備だけをしていた。
 わたしからすると、予想に反して恐ろしく長い期間一緒にいたと思う。どうせすぐに不満を持ってわたしを捨てるだろうと思っていたのに、聖臣は一向にそんな素振りを見せてこなかったし不満を言ってくることもあまりなかった。聖臣のくせに。変なの。そんなふうに思いつつ、気付けば五年も一緒にいた。

「…………お前の会社の上司」
「え?」
「クソパワハラ野郎だから、逐一録音しとけよ」
「……あー、うん。そうする」

 会社の愚痴をたまに聖臣に話すことがあった。でも、基本的に聖臣はそういうのに興味がなくて。彼女だからって特別扱いしてくることもなかったから、次第に愚痴は話さなくなった。つまらなさそうに話を聞いてもらうのも申し訳なかったし、特に反応もなかった。愚痴は友達に話せばいいか、ともう一年は確実に聖臣に話していなかったのに。なんだかんだで一応聞いてくれてたのね。ぼんやりそう思う。ネットショップのほしいものリストにずっと入れっぱなしになっている録音機、帰ったら買おうかな。そんなことを考えていたら少しだけ雪が強まったように見えた。

「あとお前、嘘つくとき髪触る癖がある」
「え、そうなの?」
「すぐ分かる。直せよ」

 聖臣の髪についた雪が一瞬で溶けて消える。雪は溶けて消えるものだ。別におかしなことじゃない。そうなのに、妙にそれを残念に思う自分がいた。
 正直なところ、もし聖臣に「ついてきてほしい」と言われたとして、わたしはきっと即答できなかったと思う。聖臣のことは嫌いじゃない。でも、今の生活をすべて捨てて家族とも簡単には会えない海外へ行く、という未来を、ただの一度も描いたことがなかった。きっと聖臣はそれを分かっていたのだろう。だから、わたしに未来のことを聞いてこなかった。聞いたとて、わたしが考えを変えることはないし、聖臣もまた同じ。わたしが行きたくないからと海外行きをやめる聖臣はこの世のどこにもいない。聖臣に何もかもを捨ててついてこいと言われて大人しく頷くわたしもこの世のどこにもいない。この世のどこにもいないのだから、どうしようもない。お互いがそれをよく分かっていた。きっと遠距離で一旦様子を見たとしても、結果は同じだっただろうと思う。
 考え事をしていたせいで凍り付いた路面に気付かなかった。ずる、と足が滑って思わず聖臣のコートを掴んでしまった。聖臣が当たり前のようにわたしの腕を力強く掴んで「前見て歩け」と言って、転ばないようにしっかり支えてくれる。
 そっと手が離れる。聖臣はスマホで時間を確認してからまた前を向いた。前しか見ていない人。昔からずっとそう思っていた。それが好きだったところでもあり、憎らしいところでもあり、嫌いなところでもある。好きなのに嫌い、嫌いなのに好き。そういう訳が分からない感情を抱えた五年間だった。

「…………たまに着てた黒いスカートあるだろ」
「え? あー……この前試合観に行ったときのやつのこと?」
「たぶんそれ」
「それが何?」
「お前、ああいうの似合う」

 今日はやけに喋る。これが最後だと分かっているからなのだろうか。そう思うと、普段なら素っ気なく返しがちだけれど、素直に反応できた。「本当?」と聖臣の顔を覗き込んでみると「うん」とこちらも素直な返答。そんなの五年間で一度でも言われたことあったかな。「なんだその服」って怪訝な顔をされた記憶はあるけれど。どうして最後になってそんなことを言うかな。そうちょっと悔しい気持ちになった。
 強く吹いた風に雪が舞い上がる。あまりに強い風だったからちょっと顔を背けてしまった。聖臣も同じだったようで二人で少し立ち止まる。今なら引き返せる。そう誰かが言ったように思えた。でも、わたしは引き返すつもりはないよ。きっと聖臣も。わたしたちはこれでよかったのだ。なんとなくそう思える。不思議な感覚だけれど。
 自己管理がしっかりしている人だから、体は大事にね、なんて言わなくても大丈夫だろう。こういうとき、なんて言葉をかけるのが正解なのかが分からない。そんなことをぼんやり考えているわたしに、聖臣はさっきから五年間のわたしの研究成果かのようにいろんなことを話している。アドバイスからクレームまで、いろんなこと。聖臣って意外とわたしのことをちゃんと見ていてくれたのだなあ。何事にも興味なさげだったから好かれているのかさえも分からなかったのに。
 聖臣が立ち止まった。わたしも立ち止まると、聖臣がこちらに顔を向ける。それから静かに「ここでいい」と言う。もうここから先は別の道。わたしはもう立ち入ることができないのだ。まっすぐにわたしを見てくる瞳に曖昧な視線を返すしかできない。まだ、言葉さえも浮かんでいないというのに。

「本当は」

 雪が聖臣の頬についた。でも、やっぱり一瞬で溶けて消えてしまう。色がつくことも、形が残ることもなく。はじめからなかったように。

「連れていきたかった」

 そのたった一言で呼吸を奪われたように、何もかもが言うことを聞かなくなった。きっとわたしたちは、足りないものが多すぎた。覚悟とか、言葉とか、思考とか。お互いがそういうものを後回しにして、ただ好きだって単純な気持ちだけでここまで来てしまったのだ。聖臣でさえそうだったのだ。わたしもきっとそうに違いない。だって、そうじゃなきゃ、聖臣の一言で、こんなにも、心臓が震えない。きっとわたしは心のどこかでその一言を待っていたのだろう。言ってほしいとも、どうしたいのかとも聖臣には言わないままに。

「体壊すなよ、

 たぶん聖臣にとっての最上級の愛情だった。体調管理は基本中の基本、と言う人だから。体調を崩さないことが当たり前の人だから。当たり前のことすらできないわたしを呆れていたのだろうと思っていた。でも、今日はただ心配してくれた。わたしにしか分からない愛情表現だった。
 聖臣と過ごした五年間は、一つの季節だったと思えるほど穏やかな日々だった。もちろん喧嘩をしたこともあればどうしようもなく悲しかったこともある。でも、全部ひっくるめて聖臣と過ごした季節の彩りでしかなかった。
 聖臣が一歩、足を進めた。そのまままっすぐ一歩一歩踏みしめていく。わたしだけを残して。もうわたしが追いかけることのできない場所へ行ってしまう。大きな背中に抱きつくことも、大きな手に触れることももう二度とない。もう、きっと、ない。

「聖臣」

 名前を呼ぶのが好きだった。きれいな名前だから。何の無駄もない彼にとても似合う名前だから。呼ぶだけで嬉しかった。呼ぶだけで好きだと思った。もうきっと、それも、いつか雪のようにきれいになくなってしまうことなのだ。

「ありがとう」

 結局大したことは言えなかった。わたしはいつかこの日を後悔するのだろう。どうしてわたしはあのとき何も言えなかったのだろう、と。その後悔こそが聖臣が最後に残してくれるものになる。ここでわたしたちの季節が終わったという証明として、永遠に残る。確信に近いそれは、わたしの心臓に突き刺さって、勝手に涙となって溢れた。