変わりたい夜の魔物たち

※未来捏造




 はっ、と意識がはっきりしたときにまず覚えたのは、違和感。なんかもぞもぞする。辺りを見渡すとどうやら外。駅のホームにあるベンチに座って寝てしまっていたのだろうか。情けなく思いつつ慌てて自分の持ち物を確認する。
 同窓会で懐かしい顔を見たらテンションが上がってしまって。関東以外に引っ越していった子たちもいたから余計に羽目を外してしまった。気付けば同窓会はお開きになっていたし、わたしの記憶が正しければ、誰かがわたしに肩を貸してくれていた覚えがある。はて、誰だったか。そんなふうにとんと覚えていない。まあ、今駅のホームに一人でいるということはその人にも捨てられてしまったのだろう。どんだけ酔っ払ったんだよ。そんなふうにがっくり項垂れてしまう。
 少し視線を落として違和感の正体に気が付いた。コートが自分のものじゃない。わたしが今日着ていたのはブラウンのダッフルコート。今着ているのは黒のチェスターコート。しかもどうやらかなりサイズの大きい男物。全く身に覚えがないけれど、もしかしてかっぱらってきちゃった? 若干苦笑いをこぼしつつそうっと立ち上がろうとしたら、少し離れたところから「ちょっとちょっと、危ないでしょうよ」と半笑いの声が聞こえた。

「やっと醒めた?」
「……これ、黒尾の?」
「そうです。絶対汚さないでください」

 けらけら笑いながら、ピ、と自販機のボタンを押した。背中を丸めてペットボトルを手に取ってこちらに戻ってくる。そうして「はい、どうぞ」とそのペットボトルをわたしに渡してきた。もらっちゃっていいのだろうか。少し悩んでいると「いや、受け取れよ」と無理やり握らされてしまう。
 よりによってなんで黒尾。内心そうぽつりと呟いてしまう。絶対クラスメイトの差し金だ。そうに違いない。からかうつもりで黒尾を嗾けたのだろう。黒尾も黒尾で根が良いやつだから、白羽の矢を立てられると断れなかったのだ。そういうやつだから。昔から。
 黒尾とは高校三年間、一応付き合っていた。所謂元カレというやつだ。最終的にわたしが一方的に「別れたい」と言って別れたからちょっと気まずい。理由もろくに言わず、黒尾の話もろくに聞かないまま。あまりに一方的だったそれに黒尾はちょっと愚痴をこぼすこともあったとかなかったとか。
 受け取ったものは仕方がない。ペットボトルのふたを開けて一口飲むと、喉を冷たい水が通っていく感覚がした。

「わたしのコートは?」
「誰かさんが思いっきり焼酎をこぼしたのでビニール袋で厳重に保管していますが、何か?」

 言われてみればわたしの横にビニール袋が置かれている。くそ、なんか情けないな。にこにこと不自然に笑顔な黒尾に「申し訳ありません」と言ったら「仕方ないやつだな」と頭をくしゃくしゃと撫でられた。

「というか、黒尾薄着じゃん。いいよ、返す返す」
「いいから。女の子にコートを貸さないような冷たい男じゃないんで」

 隣に腰を下ろした。黒尾は発車標に目を向けつつ「あー」と少し考える素振りを見せた。しばらく電車が来ないのだろうか。そう思ってわたしも発車標を見上げたら、びっくりした。もうあと一本しか来ない。つまり、次が終電なのだ。

「え、同窓会何時に終わったっけ?」
「今から一時間半くらい前だな」
「……一時間半何してたの?」
「俺を責めるなよ。いろいろ考えた結果がこれなんだからな、一応」

 責めてはいないけれど。タクシー代をわたしに出させて、というのでもよかったんじゃないの。そんなふうに言ったら黒尾が苦笑いをこぼして「今どこに住んでるか知らないし、勝手に連れて帰るのもあれだろ」と言った。まあ、確かに。財布の中もちょっと見たらしいのだけど身分証はすべて実家の住所のままだ。実家暮らしじゃない可能性もあるし、どれもこれも手がかりにならなかったと笑われた。
 黒尾が「ま、というわけで次が終電なので」とあくびをこぼした。ただ、とても言いづらいことに。

「わたし、もう終電終わってるわ」
「…………え、なんで?」
「反対なんだよね、終電」
「……マジ?」
「マジ。今東京じゃないんだよね。すぐ隣だから諸々実家の住所のままだけど」

 東京と埼玉の狭間で揺れる冬の夜。黒尾はまた「マジで?」と聞いてきた。何度聞かれてもマジなもんはマジだ。練馬にある実家から電車で一時間ほどの埼玉県で一人暮らしをしている。会社から徒歩五分のところにあるマンションだ。まあ、そんなことを黒尾が知っているわけもない。

「わたしタクシーで帰るからいいよ。迷惑かけてごめんね。ありがと」

 コートを脱ごうと立ち上がろうとしたら、黒尾がわたしの左手首を掴んできた。なんでしょうか。そういう視線を向けていると「タクシー代もったいなくない?」と笑われる。いや、もったいないけど仕方ないじゃん。そう言うしかできない。酔っ払ってしまったわたしが悪いし、別にそれくらいの出費でぶーぶー言うほどひもじいわけでもない。
 しっかり働いている社会人なのでご心配なく。そう笑うわたしを黒尾がじっと見つめる。笑っているんだか真顔なんだかよく分からない曖昧な顔。それ、ちょっと苦手だった。昔から。
 黒尾がその表情のまま口を開いた。「正直に白状すると」と言ってから、ふ、と笑う。掴んだわたしの左手首に指を這わせて、しばらくの沈黙。白状するって、何を? 思わず笑ってそう聞いてしまう。あと手、変な触り方しないで。そんなふうに黒尾の手から逃げ出した。けれど、視線からは逃れられない。ほんの少しドキッとしてしまった瞬間、黒尾が口を開いた。

「このままお持ち帰りできないかな、と期待してたりしてなかったり?」
「……最低なんだけど」
「人聞き悪いこと言うなよ。誰でもいいって言うなら最低だと俺も思うけど」

 逃げ出した手がまた掴まれる。「無理やりでもないし、事前申告してるし、良心的な送り狼だろ?」とにっこりした顔を向けられる。いや、良心的な送り狼なんてものはこの世に存在しない。冷静にツッコんだら「まあ確かに」とけらけら笑われてしまった。一体何のつもりなのか。少し呆れてしまう。わたしの知っている黒尾はこんなことを言う人じゃなかったのに。冬という季節は人恋しくなるというけれど、それにしても効果抜群すぎなのではないだろうか。ため息をこぼした瞬間、黒尾が「ちなみに」と言ってパッと手を離した。

「今度はもう離すつもりないから、そのつもりでお答えをどうぞ」

 離した手をそのまま差し出してくる。ダンスに誘うみたいな色っぽい手つきだった。それは優美な舞踏会への招待などではない。二度と抜け出せなくなる迷宮へのお誘い。それでしかなかった。
 ずっ、と鼻をすする音。黒尾は苦笑いをこぼしつつ「できれば早めに決めてくれると嬉しいです」と言った。やっぱ寒いんじゃん。返すって言っているのに。コートを脱ごうとしたけれどやっぱり止められる。よく見ると小刻みに震えていることに気が付いた。そりゃそうだ。真冬の夜にコートも着ずに出歩く馬鹿など滅多にいるものではない。
 あんたのそういうところが嫌いだったよ、鉄朗。そんなふうに内心で呟く。自分を犠牲にしてでも優しくしてくれるところ。そんなふうに優しくされなくたって、あんたのこと好きだっつーの、わたしは。そんなふうに思っていた高校時代を思い出す。酔っ払いが自分のコートに焼酎をこぼしただけなんだから放っておけばいいのに。あんたが寒さに震える必要なんかないじゃん。しかも、彼女でもなんでもない、ただの元カノだというのに。
 冬の夜には魔物が棲んでいる。忘れようとしていたものを思い出させるし、馬鹿な誘いに乗りそうになる。寒さで血の気が引けた白い手を見つめて呼吸をすることに努めている。わたしたち以外誰もいないように静かなホームに、無機質なアナウンスが流れた。まもなく終電がホームに滑り込んでくる。わたしを連れ去ろうとする電車が、この手が、ぴくりとも体が動かなくなるほど逃してはくれない。そう感じているわたしはすでに、魔物に取り込まれてしまったのだろう。そう思った。