恋びとたちの幕開け

 悴んでいる手は冬の寒さからなのか極度の緊張からなのか。どちらか分からないけれど、とにかく冷たくて仕方がなかった。温めようと息を吐いて手をすり合わせていると、それを横でじっと影山が見ていることに気が付く。余計に緊張するからやめて、とは言えるわけもなく。知らんふりをするので精一杯だった。
 フラれるつもり満々だったわたしにとって、とんでもない誤算だった。黙っておくのがつらいしどうせ叶わない。そう思ってさっさと玉砕して忘れようと思っていたのに。放課後は部活があるから迷惑だろうとお昼休みに呼び出して、「好きですもちろん付き合えるなんて思ってないから言いたかっただけですそれでは」と一息に告げてダッシュで逃げた。
 言ってしまった。これでこの恋はおしまい。そんなふうに一人で完結させたのに。さすが運動部。簡単にわたしに追いついて腕を掴んできた。びっくりして振り返ったわたしに、クラスメイトの影山飛雄が、びっくりした顔のまま「なんで逃げるんだよ」と言ってきた。それが約一ヶ月前の出来事である。
 結果、所謂恋人というものになってしまった。正直大混乱している。断られに行ったのに、なんでこうなった? そんなふうにぎこちなく、部活が休みだという影山の隣を歩いている。いつもなら休みでも体育館にいるのにいいのかな。そんなふうに思っていたら、どうやら今日は体育館が使用禁止なのだという。家に帰ってから諸々のトレーニングをする予定だとさっき本人から聞いた。
 無言。あまりにも痛すぎる無言だ。わたしも影山も率先して自分から話すタイプじゃないし、そもそもあまり二人で話したこともない。そりゃあ会話なんてあるわけがなく。どうしよう。一応告白した側なのだし何か会話をしたほうがいいかな。そんなふうに悩んでいると、じっとわたしを見ていた影山が突然マフラーを外した。

「つけろ」
「え」
「寒いんだろ」

 びっくりした。影山ってそういうの、なんていうか、鈍いタイプだと思っていたから。まさか貸してほしんなんて夢にも思わなかった。慌てて「影山が風邪引いたら大変だから、いいよ」と断る。断っているのに影山はわたしの手にマフラーを握らせると「寒くないからいい」とだけ言って前を向いてしまった。
 寒くないって、嘘に決まってるじゃん。この時期の東北を寒くないと言う人はおかしいと思うレベルに寒いのに。影山が吐く息だって白い。今朝は慌てて家を出たからコートは着てきたけどうっかりマフラーを忘れてしまったわたしが悪いのだから、影山が寒い思いをしなくたっていいのに。そんなふうに「いいってば、ありがとう」とマフラーを返そうとするけど受け取ってくれない。

「よく分かんねえけど、カレシっていうのはそういうもんだって女子が言ってたから」

 本当によく分からん、という顔をしている。どうやら女子が恋バナをしているのを小耳に挟んだらしい。わたしの顔を見ると「違ったか?」と首を傾げた。違うわけでは、ないけれど。カレシ。そっか、影山、わたしの彼氏なんだ。それで、わたしが影山の彼女だから、そういうふうにしてくれたんだな。そう思ったら途端に寒さがどこかへ行ってしまった。

「あ、ありがとう」

 照れつつマフラーをお借りする。なんか、びっくり。まさかこんなことになるなんて思っていなかったから。夢みたい。一人でそうじーんとしながら巻いたマフラーにちょっとだけ顔を埋めた。
 ちらりと影山の横顔を見るつもりで視線を向けたら、バチッと目が合ってしまった。びっくりして「あ」と思わず声が出たと同時に影山が「お」とびっくりしている。お互い横目で見たまましばらく無言の時間が流れる。それがちょっと気まずくて恐る恐る笑いながら「何?」と聞いてみると、影山は「いや」と目をそらした。ちょっと照れているように見える。そういう顔をもするんだなあ。いつも表情があまり出ないから少しだけ感動してしまう。

「なんか」
「うん?」
「こう……この辺がグッというか……ギュンッみたいな感じになった」

 どうしよう、一つも分からなかった。曖昧に笑いつつ「そ、そっか?」と返しておく。この辺、と影山が手を当てたのは胸だった。胸がグッとかギュンッとか、どういうことだろうか。影山の言葉はシンプルなのだけど難解だ。それが面白く思えるときもあるのだけど。今日は意味をちゃんと知りたかったな、なんてこっそり思う。
 そういえばさっきからわたしは家に向かって歩いているけど、影山の家もこっちの方向なのかな。不思議に思いつつも別れるところで声をかけてくるだろうから特に何も言わないままだ。中学が北川第一だと聞いたことがある。わたしが通っていた中学校とはちょっと場所が違うと思うのだけど。高校に進学してから引っ越したのかな。全部声に出して聞けばいいのに、一つも声には出せなかった。
 次の分かれ道をわたしは右に曲がる。影山はどっちに曲がるんだろう。方向的には左かなあ。そう思っている間に分かれ道に到着してしまった。影山、どっちかな。ここで「じゃあね」って言ったほうがいいのかな。悩んでしまって知らない間に足が止まってしまう。それと同じように影山も足を止めると、不思議そうにわたしの顔を見た。

「あ、あの、影山はどっちに行くの?」
は?」
「え、わたしは右だけど……」
「なら右に行く」
「へ?」

 なら、ってどういう意味? 影山はわたしを振り返りながら「どうした、行くぞ」と当たり前のように右に曲がろうとする。もしかして、ここまで一緒の道だったのって、わたしについてきただけ?

「いや、えっと、影山の家って……?」
「……べ、別に」
「別にって回答おかしくない?」

 影山は言いづらそうにごにょごにょとしながら「は、反対方向っス」と目を逸らしながら言った。反対って、元々方向違うんじゃん。もっと早く聞けばよかったなあ。反省しつつ「すぐそこだからここまでで大丈夫。ありがとう」と苦笑いをこぼす。申し訳ない。なんか無理させちゃった。
 マフラーも返さなきゃ。そう思って借りていたマフラーを取ろうとしたら、ガシッと手を掴まれた。びっくりして影山の顔を見上げると「あ、いや」となんとなく気まずそうに目を逸らした。それから、そっと手を離して「返さなくていい」と続ける。

「え、でも」
「そのうち、返してくれれば、いいんで」

 くるりと背中を向けた。「じゃあ」と言ってぎこちない足取りで進み始めた、かと思えばすぐに走って行った。ランニングのつもりなのだろうか。荷物があるし、肩に良くないと思うのだけど。目にも止まらぬ速さだったから声をかける暇もなくて。影山のマフラーと共に置いてけぼりを喰らってしまった。
 恋愛になんて興味がないタイプだと思っていた。告白をしてもハテナを浮かべられるだけだとも思っていたし、まさか良い返事をもらえるなんて想像したこともない。そんな影山が良い返事をくれた上に〝良い彼氏〟になろうとしているらしいのが、なんだか、とても、くすぐったかった。そこまで望んでないよ、と言ってしまいそうなほど。
 吹いた風が恐ろしく冷たい。瞳が凍ってしまいそうなほどだというのに、寒いとは思わなかった。そんな風では凍らないほどの熱がわたしの中にあった。