あなためいた世界

 高校を卒業する前にしっかり遊びたい。そんなことをぼそっと呟いたら「え、じゃあ遊びに行こうよ」と当たり前のように言ってくれた徹は、なんでもないふうな顔をしていた。
 付き合って、別れて、復縁して、別れて、復縁して、別れて。それを繰り返し続けたわたしと徹は、もう同学年の人たちからは何があっても驚かれないコンビになっている。別れようが復縁しようが、もう誰も驚かない。「はいはい、いつものやつね」と軽く流される。それを最初のうちはヒドイと嘆いていたけど、途中から周りの反応は至極当然のものだと分かった。いくらなんでも、やいのやいのとやりすぎだったから。
 気付いて自分で呆れて、三年生の春頃に「別れて、」の状態を保ち、今もそれが続いている。徹とは普通に話すしお互いをからかい合ったりもしたけど、復縁はしない。その状態が数ヶ月続いたときに、もう見慣れているはずの岩泉が「なんかあったのか」と珍しく首を突っ込んできたこともあった。逆に女の子たちはもう復縁しないと踏んだのか、やたらと徹に色目を使うようになっていた。それを遠目に見て、なんとまあ愉快なことか、と笑ってしまったっけ。
 周りの友達も、徹も、わたしも。なぜだか無条件で、別れてもどうせ復縁するだろう、という刷り込みがされていたのだ。それがなんとなく嫌で、自分からは復縁を言い出さなかった。そのときは徹もバレーで忙しい時期だったようで、お互い何も言い出さないまま時間は過ぎ去り、わたしが知らないうちに徹は、部活を引退していた。
 手元からバレーボールがなくなった徹は、なんとなく、元気がなくなったように見えた。元気なんだけど心がないというか。次の熱を探してさまよっている。止まってはいられない。そういう瞳に見えた。その瞳をなんとなく見つけてしまったときに自覚した。わたしは、バレーに熱中している徹が好きだったのだ、と。わたしなどという所詮ただの彼女なんて存在に気を割かず、ただただ熱を求めてまっすぐにコートを見つめる瞳が好きだった。だから、わたしと付き合っている及川徹という存在が、正直、わたしの好きな及川徹ではなかった。なんじゃそりゃ、って話だけど。永遠にこっちを振り向かない、どれだけ追いかけても追いつけない。そういう及川徹が好きだった。

「やば、チケット値上がりしてない?!」
「そんなことないでしょ。前々からこんな感じだったよ」
「嘘でしょ……俺が見たサイト古かったのかな……」

 冬休み、もちろん日帰りという条件で親からOKをもらって二人で関東まで出てきた。受験なんてクソ喰らえ。ここにしかない冬が今目の前にあるのだ。徹にそう言ったら「最高じゃん」と笑ってくれた。二人でいろいろ計画を練ってみたけれど、日帰りでは有名テーマパークに行くくらいしか叶わなくて。まあ、徹となら楽しいから十分だ。
 みんなで行こうと言われるかと思っていた。付き合う前に何かの拍子に「彼女じゃない女の子と二人で遊ばない」という発言を聞いた覚えがある。別れっぱなしのわたしは〝彼女じゃない女の子〟なのではないだろうか。それとも元カノという別の括りにされているのだろうか。よく分からないけど、二人のほうが嬉しかったので黙っておいた。
 吐く息が白い。地元に比べたら寒くないだろう、なんて甘く見ていた。まあまあ寒い。雪は降っていないし地面が凍ってもいないけど、冬はどこでも寒いのだなとぼんやり思う。徹も同じように思っていたようで「カイロ持ってくればよかった」と呟いていた。

なんか乗りたいのある?」
「上から落ちるやつ」
「嘘でしょ、やめなよあんなの……」
「へえ、怖いんだ?」
「怖くないし?!」

 はいはい強がらない強がらない。徹くん高いの怖いもんね~。そんなふうにからかってやったら「高いところじゃなくて落ちるのがだめなんだってば!」と喚いた。けらけら笑いつつ冷え切った手を息で温める。それを見た徹が「ん」と手を差し伸べてきた。

「何?」
「いや、何って。寒いんでしょ?」

 寒いけど。ぼけっと徹の手を見つめていると「何、どうしたの」と笑いながら左手の手袋を外して、その手で勝手にわたしの右手を握った。外した手袋はわたしの手元にやってくる。繋がれていない左手に徹が手袋を付けてくれると、残っている徹の体温がじんわり伝わってきた。
 わたしたち、まだ別れている状態なんだよ。ぽつりと思う。徹はわたしの手を繋いだままポケットに手を入れると「で、落ちるやつ以外で何乗りたいの」と聞いてくる。何当たり前みたいな顔して手繋いでるの。そんなふうに思いはするけど、口には出さなかった。

「そういえば、ここのテーマパークってカップルで来ると別れるってジンクスがあるらしいよ」

 徹が案内図を見ながらそう言った。何でもない言い方だったけどちょっと気になって。思わず徹の顔をじっと見てしまう。もしかして、別れてるの忘れてる? だから手も繋ぐし優しいしそんな話もしたとか? ありえない話ではない。離れたりくっついたりを繰り返し続けているから感覚が馬鹿になっているのかも。ちょっと心配になってしまって、思わず笑いがこぼれた。

「え、何?」
「いや……そんなことはないと思うんだけど、わたしたち付き合ってないの忘れてない?」
「忘れてるわけないじゃん。全部当て付けだけど?」

 にっこり笑って言い放たれた言葉にびっくりしてしまった。徹は「で、何乗るの?」と言いつつ、ポケットの中でわたしの手を撫でる。当て付けかよ。それに思わず吹き出すと「ハイ徹くん怒ったよ~」と言いながら手をつねられた。笑わずにいられない。今まで別れてもそんなことしてこなかったのに。何でもないふうにバレーばっかりして、他の女の子にもなびかずに部活に打ち込んでいた。わたしへの当て付けなんてやっている暇がなかったのだろう。わたしが好きな及川徹、それが今はもう世界中のどこにもいない。それを思い知らされた気がして、唇を噛んでしまった。

「さすがに長くないですか、と及川徹くんは思うわけです」
「何その口調、気持ち悪いんだけど」
「うるさい。言いづらいの。分かってよ」
「女の子に言わせようとするの、良くないと思いま~す」
「ああ言えばこう言う! なんなの! そういうとこが好きなんだけど!」
「やだ~照れる」

 バレーが手元にない及川徹をわたしはどう思うのかな。そんなこと、考えたこともなかった。
 練習が忙しいから連絡が返せなかったとも言わない。大会が近いからデートは終わってからしようとも言わない。練習に集中したいからしばらく会えないとも言わない。及川徹が跡形もない。わたしが好きな及川徹は、彼女よりもバレーに夢中な馬鹿だったから、目の前にいる徹がバレーのことを何も言わないことが、急にグサッと胸に刺さってしまった。

「バレー、続けるよね?」
「ん? んー……考えてるところ」

 その返答にただただ素直に驚いた。てっきり迷うことなく続けると答えると思っていたから。それ以外の返事が飛び出るなんて夢にも思わなかった。そんなふうに固まっていると、徹は空を見上げて瞬きをする。その揺れる睫毛が悩ましげに見えてしまって、思わず目をそらしてしまった。
 及川徹からバレーを奪わないで。思わずそう言いたくなった。これまでの徹を見てきて、辞めちゃったほうが楽なんじゃないかって思ったことも何度もある。苦しそうにしている顔とか、悩んでいる顔とか、そういうのをたくさん見てきたから。でも、徹はバレーを辞めずにここまで向き合ってきた。それが、なくなるなんて、考えられなくて。あまりに衝撃的で涙が出そうになった。

「どこがいいかなーってずっと悩んでるんだよね」
「……は?」
「国。やるならとことんやってみたいなって思っててさ」

 国、とは。きょとんとしてしまうわたしを置き去りに「候補はいくつかあるんだけどさ」と真顔で言う。それから「まあ、来年すぐ出て行こうってわけじゃなくて、それなりに準備をしてからになるけどね」とわたしの顔を見ながら言って、はた、と固まる。

「え、びっくりしすぎじゃない?」
「びっくりするでしょ。国を越えるとは思わなかった」

 徹のポケットの中にあるままの右手。当たり前に感じていたこの体温も、当たり前じゃなくなるときが来る。それを恐ろしく現実なのだと認識してしまった。もうきっと、このまま。別れたままで手の届かないところへ行ってしまうのだろう。それでこそわたしが好きになった及川徹だ。一人でそう切なくなってしまった。

「アルゼンチンってどう?」
「どうって言われても。あんまりバレー詳しくないし」
「いや、バレーじゃなくて。国として興味ある?」
「……わたしが興味あっても意味なくない?」
「なんで。あるでしょ」

 いや、ないでしょ。呆れてそう返したら徹はちょっとむくれて「あるったらある」と言って、ポケットの中でわたしの手を痛いほどぎゅっと握った。

「もう、追いかけてくれないの」

 ぽつりと言われた言葉は冬の冷たい風にさらわれそうなくらい、寂しげだった。そんなこと、はじめて言われた。まるで本当に最後みたいだ。徹の瞳の奥はきらきらと、熱を探して光っている。好きだよ、徹のことが。何よりもバレーに夢中で、何もかもを捨ててでもまっすぐ走り続ける徹が、大好きだよ。わたしはそんな徹をずっと追いかけている。徹がそれに気付いていないのは、徹が振り返らないからだ。言われなくたってずっと追いかけているよ。
 わたしの世界はどこかしこも徹の熱で染まっている。それに溢れたわたしの世界は、この熱を失ったらとても味気ないものになるに違いない。花は咲かないし、太陽は出ないし、青空は広がらない。徹がいなくなったらわたしの世界はどうなってしまうのだろう。そんなことを思いながら「何のこと?」と笑ってしまった。

「付き合ってって言っても、もう、いいよって言ってくれないの」

 全部わたしのせいにするつもりか、この人は。そう内心ムッとしてしまう。それを言うなら徹だって何も言ってこなかったくせに。それでよかったから何も言わなかったけれど。実際そんなふうに言われるとムカついてしまった。
 ポケットの中で繋がれた手が熱い。これまで感じたことのない熱がわたしを取り込もうとしてくる。徹の手が好きだ。ボールを自在に操って、いとも容易くきれいな軌道を描く。〝いとも容易く〟しているように見せるこの手が好きだ。そう見せるまでにどれだけボールに触ってきたのだろう。その欠片を感じることができるから。

「振り返らず走り続ける限り、追いかけるよ」

 笑ってそう言ってやった。徹はわたしの言葉に目を丸くして少し黙っていたけど、冷たい風が頬にぶつかってきた瞬間に笑った。「変な子だね、本当に」と言って、ぎゅうっと手を握る。ぱっと顔を上げて「あれ並ぼう」と、嫌がっていた上から落ちるアトラクションの列を指差した。

「え~、乗れるの?」
「だから怖くないってば。好きじゃないだけ」
「じゃあ違うのにしようよ。徹が好きなのどれ?」
「いいの。今日はが好きなのに乗りたいの」

 そう言って列の一番後ろに並ぶと、わたしの顔を覗き込んで笑った。「いい彼氏でしょ」と得意げに言った顔がなんだかムカつく。彼氏じゃないし。そうポケットの中の手をつねってやったら「え~」と楽しそうに笑っていた。