※社会人設定




 残業終わり。時計を見るともう終電がさようならした時間帯で、一人でがっくり項垂れてしまった。昨日から二日間の有休を取っている後輩、の、尻拭い。連休を取るならそれまでの仕事は完璧にしていってくれ。呼ばれたら来いとは言わないけど、電話に折り返しもないとはどういうことだ。もうあんたの仕事は二度と手伝ってやらん。ミスだらけの書類を叩きつけるように後輩の机に置いて、ため息をこぼしてしまった。
 うんざりしながら部署の電気を消してカードキーでセキュリティロックをかけておく。タクシー呼ぶしかないかあ。そんなふうにげんなりしていると、「お疲れ〜」と声をかけられた。驚きながら振り向くと、作業着姿の同僚、二口堅治がいた。

「お疲れ〜。こんな時間まで仕事?」
「現場でちょっとトラブル。つーかこっちの台詞なんだけど。終電ないだろ、この時間」
「そうなんだよね。だからタクシー呼ぼうとしてるところ」
「俺車だけど。送ってってやろうか」
「嘘、本当?」
「堅治くん大好きって言ってみ」
「堅治くん大好き」
「従順かよ」

 けらけら笑いながら「ちょっと一瞬部署寄るから待ってろ」と言って、車のキーを投げてきた。危ないでしょうよ、こんな大事なもの投げて! そう注意したら「はいはいごめんなさ〜い」と笑いながら会社の中に入っていった。
 二口の車には何度か乗せてもらったことがある。駐車場に行ってすぐに見つけた。キーを使ってロック解除。勝手に助手席に座らせてもらった。夜とはいえ夏という季節の車内は暑い。さすがに勝手にエンジンをかけるのはどうかと思ったので、ドアを開けっぱなしにしておくことにした。
 それにしても、前に乗せてもらったときも思ったけど、二口の車ってなんか良い匂いするんだよなあ。もしかして彼女の趣味だろうか。ちょっと車の中を観察してみると、助手席のドアポケットにシンプルな芳香剤が置いてある。知っているブランドのものだ。女性人気の高いブランドで、わたしがいつも使っている香水はこのブランドのものだ。およそ二口が自分の趣味で選んだとは思えない。彼女さんが選んだのかな。彼女さんとは趣味が合いそうだ。いや、他の女を車に乗せているなんて知ったら嫌な気持ちになるだろうし、一生会うことはないのだけれど。
 いい彼氏をやっているらしい。そんなふうにちょっとにやけていると、二口がこっちに向かって歩いて来ている。あとでからかってやろ。そんなふうに姿勢を正した。

「エンジンかけていいのに」
「いや、さすがに。涼しかったから大丈夫」

 運転席に乗り込む二口にキーを返す。二口は「道自信ないわ」と呟きつつエンジンをかけた。前にも送ってもらったことがある。そのときもわたしが道案内をしたっけ。「ナビさせていただきます」と言ったら「はーい」と軽い返事があった。

「というかいいの?」
「は? 何が?」
「彼女さん気にしない? 何かの拍子で気付かれたらあれかなーって」
「彼女? 誰の?」
「え、二口の」
「いねーわ! 何勝手に彼女持ち認定してんだよ」

 アクセルを踏みつつデコピンをかましてくる。え、彼女いないんだ。意外。絶対いると思ってた。二口が「いや、影も形もないだろ。なんでだよ」とツッコミを入れてきた。車に置いてある芳香剤のことを言ったら「普通に匂いが好みなだけ」という返答だった。まあ、男の人が好きで使っていても変なものじゃない。「わたしもこの匂い好きなんだ〜」と笑っておくに留めた。
 駐車場から出る直前に「右? 左?」と二口がこっちを見た。「右」と答えると「了解」と言って車が道路に出る。二口って意外と運転が穏やかというか、しっかり安全運転だから前も驚いた記憶がある。スピード狂っぽいのに。そう言ったら「失礼すぎるだろ」と拗ねられたっけ。
 暑いだろうと気を遣ってくれたらしい。結構強めに冷房がかかっている。ちょっと肌寒い。でも、二口は作業着だし男の人は暑がりだと聞いたことがある。とりあえずは言わずに知らんふりしておくことにした。
 二口は今日あったトラブルのことを教えてくれた。まあよくあるものだ。げんなりした顔で「マジで勘弁してほしいわ」とため息を吐いた。それに苦笑いをこぼしていると、「そっちは? なんで残業してたんだよ」と聞いてくれた。人のことを悪く言うのは気が引けたから詳細は省いて「後輩の尻拭い」とだけ答える。二口は首を傾げて「の後輩ってあの子だろ。休みじゃなかったっけ」と言った。わたしには後輩が一人しかいない。二口も仕事上でたまに絡みがあるから覚えがあったらしい。説明すると長くなるし、別の部署の人に後輩の悪評を告げ口のはなあ。そう思って「まあいろいろね」と誤魔化した。そのわたしの誤魔化しは、二口にはお気に召さなかったらしい。

「んだよ、ちょっとくらい愚痴れよ。どうせミスばっかりのままで休み入った、みたいなことだろ?」
「ちょっと言うの気が引けるでしょ。別に悪い子じゃないしさ〜……」
「悪い子じゃないにしても、俺はあの子のせいでがこんな時間まで残業する羽目になってんの、普通にムカつくけど」
「……優しいじゃん」
「だろ〜?」

 けらけら笑いつつ、赤信号で車が停止。二口は「で、日頃からそんな感じなわけ?」と横目でわたしを見た。そんなふうに言ってくれると、なんだか素直に言葉が出て行く。仕事ができないわけじゃないけど、ちょっとチェックが甘くて困っていた。基本的には良い子だし明るくて面白い子だけれど、仕事のことになると適当だったり人任せだったりするところがあって結構厄介だとずっと思っていた。でも、嫌いなわけじゃないから、人に言えなくて。
 ぽつぽつそんな話をしたら、二口が小さく笑った。なんかムカつく。なんで二口に話しちゃったんだろう。そんなふうに呟いたら「失礼だな?!」と頭をぐりぐり撫でられた。でも、すっきりした。ありがとね。そう素直にお礼を言うと二口が「別に何もしてないですけど〜?」と、ほんの少しだけ照れていた。
 街灯が流れる景色を横目に見ていると、やっぱり少し体が冷えてきた。エアコン、ちょっと弱めてって言ってもいいかなあ。送ってもらっている身なのでなんとなく言いづらい。二口は暑いのかもしれないし。二口に気付かれないようにこっそり腕をさする。あと数十分の我慢だ。ちょっと寒いくらいで死にはしないし。
 またしても赤信号。二口が穏やかなブレーキングで車を停止させると、一つあくびをこぼした。二口は最近ずっと忙しいみたいでお疲れの様子だ。そんな中で面倒を見てもらって申し訳ないなあ。今度何かお礼しなくちゃね。そう思っていると、不意に二口がこっちに顔を向けた。

「寒い?」
「えっ」
「いや、なんとなく。大丈夫ならいいけど?」
「え、ああ、うん、ちょっとだけ、寒いかも」

 びっくりした。二口に見えないように左腕をさすっていたのに。運転しているからこっちの様子もあまり見られないだろうから気付かれないと思っていたけれど、二口の目にはちゃんと見えていたのだろう。エアコンの温度と風量を調整してから「これくらいでいい?」と聞いてくれた。お礼を言ったら「適当にいじっていいから。好きに調整しろ」と言ってくれた。

「二口、いい彼氏になりそう」
「は? 急になんだよ。つーかなんで?」
「優しいじゃん。意外と」
「意外と、が余計ですけど〜?」

 けらけら笑う。青信号で車が動きはじめると、二口は「別に優しくねえだろ、これくらい」と呟く。いやいや。なかなかいないよ、こういう人。そんなふうに一応褒めておく。二口は「はいはい」と言うだけだったけど、多分少し照れているのだろう。かわいいやつ。そんなふうに笑ってしまった。

「というか、本当に別に優しくねえよ」
「え〜? だって送ってくれるし気遣ってくれるし、十分優しいじゃん」
「そりゃ好きなやつにはこれくらいするだろ」
「あ〜好きな子にだけ優しいタイプかあ。それ結構気付いたら嬉しい……やつ……じゃん?」

 はた、と口が固まる。好きなやつには、これくらいするだろって、え? そんなふうに恐る恐る二口のほうを見る。前を見ている二口の横顔。小さく笑っている。「嬉しいやつなんだ?」とおかしそうに呟くと、視線が一瞬だけわたしを見た。
 真っ暗な空に明るい月が浮かんでいる。ちょうど二口の後ろくらいに月明かりが差している。もちろん街の明かりでかき消されてしまっているし、そんなに存在感のあるものじゃない。でも、なんか、その月光が、柔らかく滲むのが、妙に印象的で。

「好きなやつが相手だったら車の鍵くらい預けるし、好きなものとか悩みとか知りたいって思うし、車だろうが何だろうが勝手にいじられても何とも思わないし、できるだけ一緒にいたいタイプなんで、俺」

 にこ、と笑われた。びっくりして固まっているわたしの頭をぐしゃぐしゃと撫でると「そのつもりでどうぞ」と言った。敬語。茶化して遣っているのが分かる。照れ隠しだ。つまり、嘘とか冗談じゃない、はずで。
 二口の手が妙に熱い。それが分かってしまって、わたしの顔も一瞬で熱くなる。でも、目を逸らせない。きれいに晴れている夏の夜空と、隠すものが何もない二口の少し赤い顔。なんだか、一生ない取り合わせに思えて、じっと見つめてしまった。


その熱で溶かしてみて
空色 × 二口堅治 × 冷房

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