※大学生設定です。松川の進路を捏造しています。




 毎年、楽しみだった時期がある。わたしが小学生くらいのときのことだ。夏休みに入って少ししたくらい、家の庭に咲いている紫陽花が枯れ始めた頃に親戚の人がうちによく来ていた。お盆休みはなかなか時間が取れないから、とそんな変な時期に来ていた、と聞いたことがある。
 その親戚の一人に、わたしより五歳年上のお兄さんがいるのだけど、この人のことがわたしはとても好きだった。いつもうちに来るとまずわたしを見つけてお菓子をくれる。それから一緒に縁側に座って、枯れかけの紫陽花を見ながらいろんな話をしてくれた。その人にとってはいい暇つぶし相手だったのだろう。それでもわたしは、毎年その人が来るのを楽しみにしていた。紫陽花が咲き始めると、早く枯れないかなと思ってしまうほどに。きっと、初恋だった。そう気付いたときには、その人は高校に上がって部活が忙しくなってしまった。親戚の人はうちに来るけど、その人は来られなくなってしまって、会うこともなくなった。
 それでも、紫陽花が咲き始めると思い出してしまう。あの人は元気かな、と。高校に上がった今も、たまにあの人のことを思い出してしまう。そうして、今年も、そんな時期がやってきた。
 縁側に腰を下ろして、枯れ始めた紫陽花を見ている。今日は親戚の人が来る日、と親から聞いている。お年玉をもらったりいろいろ良くしてもらっているから挨拶はちゃんとするように言われているのだ。親戚の家のお姉さんに会いたいし、ちゃんと挨拶もするってば。そんなふうにふて腐れつつ。
 風鈴の音が静かに聞こえる。いつぞやかに母親が縁側につけたのだ。この音が結構落ち着く音色でわたしは好き。夏が終わるまでのものだから特別感もある。この音を聴きながら紫陽花をぼんやり見つめて、どれくらいの時間が経っただろうか。そろそろ親戚の人が来る時間だ。母親が忙しなく台所でバタバタしている音を聞きながら一つ息を吐く。どうせ、あの人は来ない。ただの親戚の、年下の女のことなんて、思い出すこともないだろう。はーあ、へこむ。そんなふうに項垂れてしまった。
 そのときだった。車の音が聞こえてきて、うちの近くで止まったのが分かる。親戚の人たちが到着したらしい。お姉さん元気かな。去年来たときはかわいいネイルを見せてくれて、持ってきてくれたマニキュアをわたしにも塗ってくれたんだよね。わたしも何かお返しがしたくて、そのときハマっていたヘアアレンジの仕方をお姉さんに教えたっけ。今年もお互い何を教え合いっこできるか楽しみだなあ。
 玄関が開く音が聞こえた。親戚の人たちはまずこの縁側に面した広い部屋に来るはずだからここで待っていよう。ちりん、と鳴る風鈴の音。あーあ、今年ももう紫陽花が枯れちゃうのになあ。そんなふうに、頬杖をついたときだった。

ちゃん、久しぶり」

 びっくりした。低い男の人の声。慌てて振り返ると、わたしが知っているよりずいぶん身長が伸びた、一静くんがいたのだ。

「…………」
「え、覚えてない? 松川一静です」
「いや、おぼ、覚えてる、覚えてます」
「ならよかった」

 柔らかく笑いながら「はい、これお土産」と言って、観光地の地名が書かれた袋をくれた。それを受け取りながらなんとかお礼を言う。一静くんはわたしの隣に腰を下ろしながら「もう高校生だっけ?」と当たり前のように話を振ってくれた。
 一静くんだ。もう、来ないかと思っていた一静くんだ。目の前で話をしている一静くんの顔を見て挙動不審な返事しかできない。だって、来るなんて思わなかった。また会えるなんて思っていなかったから。びっくりしてしまっても仕方がない。だって、もう、数年会っていなかったのだから。
 一静くんは今、東京の大学に通っているのだという。たくさん近況を教えてくれたので、わたしも緊張しながら近況を話した。一静くんは昔と変わらず、静かに話を聞いて相槌を打ってくれる。
 それにしても、もう、普通に大人の男性って感じだ。低くなった声も、高くなった身長も。何もかもがわたしが知らない一静くんなのに、それでも一静くんだと分かる。喋り方とか雰囲気とか。わたしの名前を呼ぶ温度とか。不思議だなあ。でも、嬉しいなあ。そんなふうに緊張がほどけていく。

ちゃん、あんまり変わってないね」
「え、そ、そうかなあ」
「最後に会ったの、ちゃんが小学生のときだったよね? 髪の長さも変わってないし、身長も変わってないんじゃない?」
「身長は伸びてるから!」

 楽しそうに笑った一静くんが小学生のときと同じように縁側にいるから、と言った。確かにそうだ。毎年ここに座って一静くんを待っていたのだから。一静くんが来なくなってからも、この時期はここに座っていることが多い。でもそれを一静くんに知られるのは恥ずかしかったから「たまたまだよ」と誤魔化しておいた。

「ああ、でも、小学生のときはもうちょっと口数が多かったかな」
「別に変わってないよ」
「ちょっと大人しくなったよ。ちょっとだけだけど」

 頬杖をついて一つあくびをこぼした。何でも今日は一静くんの運転でここまで来たらしい。「ちょっと眠い」と呟いてから、じっと紫陽花を見つめた。白色とピンク色の紫陽花たち。母親が好きで置いているものだ。毎年決まって白とピンク。好きな色だから、と言っていた気がする。ちょっとくすんできているのは枯れかけだからだ。わたしの好きな頃合い。まあ、人に言ったらドン引きされるのは分かっているから言わないけれど。

「……もうバレー? だっけ、してないの?」
「高校でやめちゃったけど、まあたまに友達とやるくらいかな」
「わたしバレーって観たことない」
「あらら、そうなの? ハマると面白いよ」

 あ、ちょっと子どもみたいに笑った。一静くんもそういう顔、するんだなあ。昔から大人っぽくて落ち着いている印象だったけど。好きなものの話をするときはそういう顔になるんだ。はじめて知った。
 わたしは一静くんのほとんどを知らない。知っているのは名前と年齢と、好きなものくらい。一年に一度しか会う機会がないから、知っていることが少なくて当然だ。連絡先さえ知らないし、今どこの大学に通っているのかも知らない。これ以上踏み込んでいいのかも分からないし、一静くんがわたしのことをどう思っているのかも分からない。
 今、わたしは一静くんに恋をしているのだろうか。確かに初恋の相手ではあった。けれど、それは子どもの頃のことだったのかもしれない。今は違うのかもしれない。だって、全然一静くんのことを知らないのだから。好きになるなんて変だ。親戚の優しいお兄さん。それだけなのに。
 でも、一静くんを見ていると、心臓がどきどきしてくすぐったい。この変な感覚がもし恋だったとしたら、もうこの時点で叶わないことがほぼ確定してしまう。だって、一静くんはわたしのことをそういうふうに見ない。見るわけがないのだから。それは、へこむなあ。一人で笑ってしまったら、一静くんが首を傾げた。

「毎年さ」
「あっ、うん?」
「俺が来る頃には紫陽花、枯れかけになっちゃってるよね」

 一静くんの声に反応したように、ちりん、と風鈴が鳴った。きれいな音。思わずじっと一静くんの顔を見てしまうと、少しだけ照れくさそうにされてしまった。
 確かに、一静くんが来る頃には紫陽花は枯れ始めている。それがわたしにとっては一静くんがもうすぐ来る、という合図になっているほど。一静くんはきれいに咲いているうちの紫陽花を見たことがない。でも、そんなことを気にかけているなんて思いもしなかった。

「今度来るときはきれいに咲いてるときがいいな」

 小さく笑って紫陽花のほうに目を向ける。じっと見つめながら「きれいなんだろうなあ」と呟く。きれいだよ。わたしにとっては世界中に咲いているどの紫陽花よりも、うちの庭先の紫陽花が一番きれいなものだ。それでも早く枯れてしまえと思う矛盾。この矛盾は一生、誰にも知られることのないものだ。
 春に桜が散ってしまうのと同じくらい、わたしにとっては何かを感じるものだ。今年の紫陽花もじわじわと色を失って枯れていく。枯れていくからこそ、今、こうして、わたしは。


枯れていけ
ピンク × 松川一静 × 風鈴

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