※北の捏造家族がちょっとだけ出ます。名前、台詞はありません。




 信介はいつも正しいことばかり言う。どんなにわたしが喚こうが泣こうが、結局は正しいことから外れない。それが子どもの頃は面白くなかった。ちょっとズルをしただけでも注意してくるし、どんなに嫌がってもやると決めたことは最後までやるように促してくる。信介は意地悪だ。本気でそう思っていた時期もある。でも、少しずつ、信介が誠実ですごい人なのだと分かった。
 同じ高校に入学して早三年。もう卒業を控えた受験生になってしまった。信介は進学するつもりはあまりないらしく、おじいちゃんの田んぼを継ぐと言っているらしかった。本人から直接聞いたわけじゃない。あまり進路の話はしないようにしている。信介は、正しいことしか言わないから。
 六月下旬。もう夏と言っていいほど暑い。夏の暑さに加えて梅雨独特の湿っぽさが鬱陶しくてたまらない。そんな夜道を、信介と二人で歩いている。学校帰りだ。わたしも信介も部活の練習終わり。部内に方向が同じ子がいないので一人で帰ろうとしていたところを信介に見つかった。
 まあ、見逃してくれるわけもなく。当たり前のように回収。信介は男子バレー部の面々に「俺送ってくで。ほなな」と当然のように言った。方向が同じ人もいるだろうに。わたしが後ろにくっついていくだけでもよかったのになあ。そう思いつつも、あまり話したことがない男子と話すのは得意じゃない。信介の隣で小さく会釈をしておくに留めた。
 男子バレー部は強豪で有名だ。そんなチームの主将を信介がしていると聞いたときは、ちょっと驚いたけど「まあせやろな」と思った。外から見ていてもキャラの濃い人ばかりだし、そんな人たちをまとめられるような人はそうそういない。でも、信介ならできる。わたしはそれを身をもって知っている。
 北家には二人、キャラの濃い人がいる。信介のお姉ちゃんと弟だ。この二人が、まあ、信介に似ていない。お姉ちゃんは猪突猛進タイプの明るい人だし、弟はどこか抜けている天然っ子。二人とも目を離すとどこか遠くへぴゅーっと行ってしまうタイプなのだ。信介は信介のおばちゃんとおじさんよりこの二人のまとめ方が上手い。子どもの頃に北家の旅行になぜかわたしも連れていってもらったことがあるのだけど、そのときの頼り甲斐のあるまとめっぷりは未だに覚えている。当時中学生だったお姉ちゃんに対して「はぐれてまうやろ、じっとしとき」と言い放ち、当時小学校に上がりたてだった弟に「人にぶつかってまうやろ。手貸し」と手を繋いでやる。当時小学五年生だったとは思えない見事なまとめっぷりだったのだ。
 男子バレー部でもあのときの見事なまとめっぷりは活きているらしい。たまに信介の話がわたしにまで回ってくることがある。今はもっぱら一つ下の後輩に手を焼いているようだ。まあ、信介からしたら手が焼けるというほどのものではないだろうけれど。
 ああ、そういえば、あのときの旅行。夜に行ったあれ、また見たいな。

「どないしたんや」
「え?」
「妙に静かやんか。なんかあったんか?」
「あー、ちゃうちゃう。昔行った旅行のこと思い出したんや。急に」

 信介が小さく首を傾げてから「いつのやつ?」と言った。北家の旅行にわたしが入れてもらったこともあれば、うちの旅行に信介を連れていったこともある。家族ぐるみの付き合いだと思い出が多いのだ。信介に「小五のときのやつ」と言ったら少し考えて「ああ、あれな」と小さく笑った。

「蛍がめっちゃきれいやったやつな」
「そう! まさに今それ思い出しとった!」

 まさかピンポイントで言い当てられるとは思わなかった。嬉しくて思わず笑ってしまうと、信介はしみじみと「あれはきれいやったなあ」と思い出すように夜空を見上げた。
 旅行の中盤、夕方になる頃に行きたいところが二つに分かれた。イルミネーションが有名な遅くまで開いているテーマパークか、山奥にある有名な蛍の名所。北家のご両親が考えた結果、おばさんはテーマパーク、おじさんは蛍に分かれてそれぞれ好きなほうを選びなさい、と言ってくれた。北家のお姉ちゃんは真っ先にテーマパークを選び、信介は蛍を選んだ。弟はまだ小さいこともあって山奥は危ないからと自動的にテーマパーク。わたしは蛍を選んだ。
 本当はテーマパークのほうに行こうと思っていた。でも、信介が蛍を選んだから。虫は好きじゃないし、山道を歩くのも好きじゃない。でも、蛍を選んだのだ。子どもの頃のわたしは。変なの、と今でも自分で苦笑いをこぼしてしまう。まあ子どもなので。理由は単純なものしかない。
 それにしてもあれは大変だった。山奥にある渓谷だったのだけど、おじさんが借りてくれたレンタカーを降りてから、二十分ほど山道を歩かなくては行けない場所だったのだ。信介も信介のおじさんもわたしを励ましながら一緒に歩いてくれたっけ。信介は手を繋いで引っ張ってくれていたのを覚えている。それは嬉しかったけど、わたしは内心蛍を選んだことを後悔していたなあ。お気に入りの靴も汚れてしまうし、蒸し蒸しした空気のせいで息苦しいし、汗は止まらないし。最悪だった。最悪だった、けど。
 子どもながらに感動して、言葉を忘れたことを覚えている。それくらいきれいだったのだ。淡い緑色に見える蛍の光が、流れる川の音に合わせてステップを踏むように飛んでいる。幻想的で、なんだか時間を忘れてしまいそうな光景だった。わたしの隣で信介も、何も言わずにじっと蛍を見ていた。掴んだままのわたしの手を離さず、ただただじっと緑色の光を見つめていた。その横顔を見たら、山道を歩いたしんどさなんて吹き飛んだ。それくらいわたしには印象的な光景だったのだ。

「なあ、今度また行こうや。あの山」

 まあ、高校生のわたしたちでは行けないところだ。どうせ信介は行けへんやろ、と言うに決まっている。場所だってあまり覚えていない。何県かだったかさえもわたしは覚えていないし、信介も場所までは覚えていないだろう。分かっているけど、言わずにはいられなくて。
 信介の目がわたしを捉えた。ぱちりと一つ瞬きを落とす。きらりと光った瞳の奥が、とても柔らかい熱を持っている。大きな目。羨ましい。

「行けへんやろ、あんな山奥」

 笑ってそう言った。思った通り。信介は正しいことしか言わない。車じゃないと行けない場所だった覚えがあるから免許がないと行けないし、そもそもそんな遠くまで子どもが行くことを大人は許してくれない。一夏の思い出だから、と言っても許しをもらえないのは明白だ。
 信介から目を逸らした。「せやんなあ」と笑っておく。知ってたよ。言ってみただけ。そんなふうに。

「今は行けへんけど、いつかな」
「……ほんま?」
「ほんま。そのうち免許は取るつもりやし、俺が普通に運転できるようになったらな」
「約束やで?」
「ええよ。約束な」

 信介が「心配やったら指切りしといたろか」と小指を出した。「する」と即答して小指を絡めたら、「子どもみたいやな」と笑われてしまう。でも全然よかった。いくらでも笑ってくれていい。この約束をしてくれるのなら。
 指切りげんまん、嘘吐いたら針千本飲ます、指切った!
 小指の力を抜きながら「絶対やで?」と念を押してしまう。信介は「忘れへんから安心せえ」と言いながらも、小指の力を緩めない。まだわたしの小指に絡みついたままの信介の小指。なんで離さないんだろう。そう不思議に思ってしまう。信介の顔をじっと見たら、一瞬だけ目を逸らされた。それからすぐに視線が戻ってきて、小さく笑われる。

のほうが忘れそうやわ。忘れんといてな」
「絶対忘れへんわ」
「はは、それならええけどな」

 小指の力が緩まった。離れるのかと思ったら、小指が離れた代わりに、信介がわたしの反対の手をなぜか掴んだ。びっくりして「何?」と聞いてしまう。信介は懐かしそうに「あんとき、手繋いだったなあと思うて」と呟く。信介が手を引っ張ってくれなかったら途中で嫌になって諦めていたかもしれない。こんなふうに手を繋いでくれただけでわたしは、なんだか無敵になったような気持ちに一瞬でもなれた。そんなことを思い出す。
 きゅっと手が繋がれた。「こんなふうにな」と笑う信介を見て、わたしは笑えないまま。心臓がうるさい。なんでそんなことするの。そんなふうに信介の顔を見つめるに留めてしまう。信介はむやみに人の体に触る人じゃない。でも、わたしの頭を叩いたり腕を引っ張ったりするのはよくあることだ。わたしがそそっかしいやつで、子どもの頃からの幼馴染だから。それでも、手を繋いだのは、小学生のときが最後だ。まさにあの蛍を見に行った夏の日が、最後だった。
 ぱっと手が離れた。信介は何事もなかったようにまた歩き始める。「あの山行くんやったらついでにあそこも行きたいわ」と話し始めた。場所、覚えてるんだ。わたしは何県かも覚えてなかったのに。ちょっと悔しい。
 信介の手を見てしまう。男の人の手だった。わたしが知っているぷにぷにしたかわいい手じゃなくて、硬くて大きな男の人の手。昔と変わってしまったけど、やっぱり、好きだなあとか。

「なあ」
「なんや」
「蛍見に行くとき、また手引っ張ってな」

 そうやないとわたし歩けへんし。そんな嘘を吐いた。あのときはまだ子どもだったからふらふらしていたけど、今は立派な運動部部員。そんじょそこいらの女より体力がある。まあ、信介と行くのがいつになるのかは分からないけど、それでも一人では歩けない、なんてことはない。そんなことは分かっている。わたしも、多分信介も。
 信介がほんの少しだけ目を丸くしたのが分かった。それからすぐにいつも通りの表情に戻ったけど、一瞬の動揺は一体なんだったのだろうか。やっぱり変か、ただの幼馴染が手を繋いで、なんて約束をしてくるのは。しくじってしまった。そんなふうに思いながら「なんてな」と茶化しておく。笑って誤魔化そうとしたけど、信介は笑ってくれなかった。
 少し間を空けてから、信介が手を差し出してきた。それを見つめて黙ってしまう。そんなわたしを信介が、やけに慎重に、見つめていることに気が付いてしまう。

「蛍見に行くときだけでええん?」

 それからちょっと情けなく笑った。「ええんやったらええけど」と付け足してから、また優しい眼差しでわたしを見つめた。
 あの日の夏夜を思い出す。暗いキャンバスに緑色の光がたくさん点や線を描くような光景。信介の手を握ったまま見たそれを、ぼんやり、信介の手の温度と似た色だと思った。優しくて、近くにあるように見えて、きれい。そんな色。なんだそれ、と人に笑われてしまうだろう。でも、きっと、信介は笑わない。わたしにはそう分かる。
 信介の手を、そっと握った。「嫌や」と小さな声で返しておく。蛍を見に行くときだけじゃ嫌だ。そんなの、もう、全部さらけ出しているような返事だったけど、それは茶化したくなくて。信介はわたしの手を握りながら「そうか」と呟いて、そのまま歩いて行く。二人とも無言で、ただただお互いの手を握り返すだけ。
 しばらくそんな、胸の奥で火がついたような気持ちで歩いていたけど、お互いの家が近付いてきた頃に信介が口を開いた。わたしにしか聞こえないような小さな声だった。でも、わたしの耳には確実に聞こえて。「好きや」と言ったその、ぽうっと優しい温度をした声が、やっぱり。「わたしも」と返したら、またそっと手を握り直してくれた。それからもう一度「わたしも好きや」と言い直す。お互い顔を見合わせて、思わず、笑ってしまった。


この手は君のために
緑色 × 北信介 × 蛍

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