わたしは子どもの頃から大変な慎重派だった。本当に大変な≠ェつくほどの超慎重派。横断歩道を渡るときは必ず左右を二回ずつ確認する。ニュースで信号無視をした車に轢かれた人がいたと見たからだ。手を洗うときは爪の間までしっかり洗う。先生から「バイ菌が体に入ると大変だよ」と教えられたからだ。留守番中にインターフォンが鳴ったらすぐには出ずに相手の様子を窺う。回覧板で不審者が出たと見たからだ。こんなふうに、常に危険と隣り合わせなのかってくらい慎重に生きてきた。まさしく石橋を叩いて渡る、を体現していると言っても過言ではない。いや、自分で言っているだけなのだけれど。
 それは恋愛においても同じことだった。中学生の頃からずっと好きな人がいる。でも、絶対に告白なんかしないしアピールもしない。告白なんかしたら断られるリスクが伴うし、アピールなんかして変に期待をしてしまう自分が容易に想像できるからだ。恋愛なんてどこかしこもリスクばかり。付き合えたとしても、今度はフラれるリスクと浮気をされるリスクを背負うことになる。一生リスクから逃れられない。なら、好きな人とは恋愛しないほうがいい。真顔でそう語ったら友達は目を点にして「なんて?」と首を傾げていたっけ。

「ねえ、どこまで行くの? 全然いいけど目的地くらい知りたいな〜」

 元也がそう苦笑いをこぼしながらわたしの隣を歩いている。「うるさい」とだけ言えば「えー」と笑う。元也は優しい。優しい、けど、だから大丈夫、なんてことはない。
 仲が良い元也のことが大好きだ。中学から同じ学校に通っているけれど、いつでも優しくて、かっこよくて、いつもにこにこしている。一緒にいると楽しくてたまらなかったし、困っているときに必ず助けてくれて本当に頼りになった。要領がいいのか勘が良いのか分からないけど、何をやってもひどい失敗はしない。失敗することが怖くてたまらないわたしからすれば、スーパーヒーローみたいな存在なのだ。
 でも、それはわたしにだけってわけじゃない。他の人にも元也は優しいし親切だ。にこにこしているのも変わらない。だから元也はみんなから好かれるし頼りにされる。およそ人を頼らなさそうな佐久早くんでさえ元也のことは頼りにしているらしい。みんなに好かれるみんなの元也。だから、わたしが独り占めなんてできるわけがないのだ。
 元也のことが好きだ。大好きだ。ずっと一緒にいたい。できれば彼女にしてほしいし彼氏になってほしい。みんなが知らない元也のことを教えてほしい。でも、それは、結局わたしの独りよがりだし無い物ねだりだ。みんなに好かれている元也はもっともっといい子を見つけて彼女にするに決まっている。こんな怖がりで慎重派の面白くないやつがそんなポジションに収まろうなんておこがましいことだ。分かっている。分かっているから、わたしは元也に気持ちを伝えられないまま高校二年生になっている。

「どうしたの? 今日機嫌悪いね?」
「悪くない。楽しい」
「楽しいって言う人の顔じゃないんだよな〜」

 元也がそう言うのも無理はない。わたしは今、目の前にある石橋をこれでもかってくらい叩き続けているのだから。
 噂だ。本当にただの噂。隣のクラスの女の子が元也に告白したらしい。その場で断られたそうなのだけど、その理由が中学からの同級生に好きな子がいる≠ニいうものだったのだ。その噂を聞いたわたしは、どきっとした。わたしなわけがない。そう分かっている。でも、その噂には続きがあった。仲良くなりすぎちゃって告白できていない≠ニ、元也が言ったというのだ。いや、やっぱりわたしなわけがない。そう分かっているけど、どうしても、もしかして、って気持ちが拭えなくて。
 元也は仲良しの女の子がそれなりにいた。人気者なのだから当然のことだ。でも、けれど、それでも。一緒に登下校したり、休日に二人で会ったりしていたのは、わたしだけだった、と、思う。わたしから誘うこともあれば元也から誘ってくれることもあった。仲良しだ。大の、がつくほどの。
 おこがましいことを言うのは承知だ。もし、その相手がわたしじゃないとしたら、一体誰なのか教えてほしい。わたしが知らない間にその子ともとても仲良くしていたということでしょう。別にわたしは彼女じゃないから何も言えない。言えないけど、わたしが知らない元也がいるかもしれないという可能性が、なんだか悔しくて。
 土曜日、元也は部活が午前で終わると言っていた。最近は部活が忙しいだろうからとこっちから遊びに誘うことはしていない。嫌われたくないし、面倒くさいとも思われたくないから。でも、今日は、あえて連絡を入れた。「行きたいところがあるんだけど、付き合ってくれない?」と。目的地不明、到着時間不明、詳細不明。そんなオッケーを出しづらい誘いだ。何とも思っていない相手からの誘いだったら断るに決まっている。そう思って返事を待ったら、元也からは「いいよ〜」とだけ返ってきた。
 そうしてわたしは今、元也と二人で汗が止まらなくなるほど歩き続けている。目的地なんかない。元也はそのことを知らないままだ。

、夕焼けきれいだよ」

 汗だくの額を拭いながら元也が指を差す。目を向けると、燃えるような夕焼けが目に入った。ちぎれ雲がそれに染められて火の粉みたいに光っている。前髪を揺らすくらいの風が吹いた。少しだけ湿った匂いがして、ほんの少しだけ冷えている。もう夕方か。そんなことを今更思った。
 元也は優しい。けれど、それにも限度がある。目的地がどこなのか分からず、いつまで経っても何も教えてもらえず、ずっと歩き続けるだけ、そんな状況になったら絶対に怒る。でも、もし、万が一、わたしのことを好きだと思ってくれていたら、そうじゃないかもしれない。
 ぽつ、と鼻の頭に冷たいものが落ちた。思わず空を見上げると、ぱらぱらと雨が降り始めてしまう。夕立だ。きっとこのまま俄雨が激しく降ってくるに違いない。そう分かっているのに、なぜだか歩みは止めなかった。

「ちょっとちょっと、雨だから。雨宿りしよう」

 簡単にわたしの手首を掴んだ。元也はにこにこ笑ったまま屋根があるところまでわたしを引っ張って走る。元也一人で走ればもっと速く走れる。わたしなんか置いていけばいいのに。元也は優しいから、そんなことはしないのだ。
 好きだと言ってしまいたい。ずっと隠しているのは苦しい。夕焼けを隠す雲みたいに分厚い何かがわたしの喉に詰まっている感覚。わたし、元也のこと、好きだよ。大好きだよ。ずっと一緒にいたいよ。そう言ってしまいたい。夏のせいにして、勢いで言ってしまおうか。
 横断歩道を渡るときに左右を確認しないまま渡ったら突っ込んできた車に気付けない。外から帰ってきた手を洗わずに食べ物を口に入れたらバイ菌が体に入る。留守番中に訪ねてきた人が悪い人だったら出てしまった瞬間にどうなるか。元也がわたしのことを好きじゃなかったら、告白しても。
 リスクも失敗も回避するのが当たり前だ。告白しても、断られたら意味がない。意味がないどころか、これまでの楽しい時間は消えてしまうし、元也と仲が良い友達という称号もなくなってしまう。断られるのが怖い。誰にでも優しい元也に、拒否されるのが怖い。でも、少しだけ、期待してしまう。だからこんなふうに、回りくどく石橋を叩き続けているのだ。
 元也がわたしを引っ張って屋根のあるところに連れてきてくれたときには、お互いびしょ濡れだった。暑い夏だ。別に寒いなんてことはない。夕立が止めばどうせすぐに乾く。そう元也も思っているだろうに、わたしの顔を覗き込んで「寒くない? 大丈夫?」と言ってくれるのだ。好きにならないわけがない。馬鹿じゃないのか、と思わず悪態を吐いてしまいそうになった。そんなこととは知らない元也が鞄からタオルを出すと、わたしの頭に被せてくれた。そのまま髪を拭きながら「なんでふて腐れてるんだよー」と茶化すように言ってきた。

「もしかして俺何かした?」
「……違う」
「えー、じゃあ教えてよ。どうしたの」

 にこにこと、あくまで優しい声で聞いてくれるから、勘違いしてしまう。好きって言ったら受け入れてくれるんじゃないかって思い上がってしまう。でも、そう思い込んで一歩踏み出しても、そこに足場はないかもしれない。この世に絶対なんてない。確信が持てなくちゃ何もできない。何もしてはいけない。子どもの頃から、わたしはそう生きてきた。
 手首はまだ掴まれたままだ。元也の体温が心地よい。ずっとこうしてくれていたらいいのに。いつもしたいときにこうできる存在になれればいいのに。無い物ねだり。分かっている。分かっているけど。

「……す、好き、」
「え?」
「……好きな人、が、いて」

 一つ呼吸。危なかった。言ってしまうところだった。もう喉のすぐそこまで出てきてしまう。顔を見るたび、名前を呼ぶたび。いつもいつも、好きだと言いたくてたまらない。
 焦ってぺらぺら話してしまう。好きな人がいるけど脈がない。告白してもフラれてしまうだろうから何もできない。そんなストレスを発散するために付き合わせてしまった。ごめんね。そんなふうに。わたしのせいでびしょ濡れになってしまったし、練習終わりの疲れた体を休められていない。今更ながら、とても迷惑なやつだ。
 雨が上がった。きれいな茜色が湿った風を吹かせて、アスファルトの匂いが鼻につく。なんてことはない雨上がりの夏。じんわり暑くて、べたつく汗が鬱陶しくて、夕焼けが眩しい。ただそれだけのありふれた夏の景色だ。
 ありふれた夏の景色でも、元也の瞳の中に映るそれは、とても、きれいだ。元也の瞳がきれいだから当たり前なのだ。何でもきれいで特別なものみたいに見える。わたしはそれくらい元也のことが好きで好きでたまらないよ。言えないけれど、大好きだよ。伝えられないけれど、ずっとずっと、そうなんだよ。
 元也がきゅっとわたしの手首を掴み直す。にこにこと笑って「そうなんだ。誰のこと?」と言った。教えるわけがない。そう笑って言ったら「えー、なんで」と、またわたしの手首を掴み直した。それから、一瞬目を逸らされる。瞳が動くたびにきらきらと夕焼けの赤色が反射するように見える。きれいだ。一生見ていられる。思わず唇を噛みしめてしまう。それくらい、やっぱり、好きだった。
 またわたしの手首を掴み直す。それから、元也の瞳が再びわたしを捉えた。

「その相手って、俺よりも仲良い人?」

 ピシッと体が固まる。思わず「え」と言葉が漏れたわたしに、元也は慌てた様子で「待って、今のなし。一回忘れて」と目を逸らしながら言った。それは、ちょっと、無理だし、どういう意味で言ったのだろうか。

「いや、あの、だってさ、は中学のときから、俺以外の男子とは、その、あんまり仲良くしてる感じないし、純粋に、純粋にね? 誰なのかなあって気になったというか」

 珍しくしどろもどろといった様子だった。元也はわたしの手首を掴んだまま、ああでもないこうでもない、と言葉をこねくり回している。それが珍しくて思わず黙りこくって見つめてしまう。そんな顔は、はじめて見た。わたしが知らない元也を見つけた。それが嬉しくて。
 恐る恐る、一歩を踏み出す感覚。絶対なんてない。石橋を叩きまくって結局渡らないわたしはそう思っている。でも、一歩を踏み出して、「あ、大丈夫だ」って思ったら、早いというか。ずんずん踏みしめながら歩いて、対岸に、やって来てしまったらもう止まらないというか。

「あの、さ」
「うん?」
「……元也って、好きな子いるんでしょ?」
「いるよ」
「誰?」

 元也の視線がこっちに戻ってきた。それからじっとわたしの顔を見つめて、また腕を握り直す。腕が痛くなってきたよ。でも、言わなかった。離してほしくなかったから。一生痛いままでいいと思った。元也のことが好きだから。
 差し込む茜色が元也の肌を照らす。赤らんでいるのか夕焼けのせいなのか分からないほどに。でも、それはもうどっちでもよかった。元也が笑う。わたしの手首から手をそっと離して、今度はわたしの手を握った。それからその手をわたしの顔の前まで持ち上げた。

「この子」

 わたしは子どもの頃から大変な慎重派だった。本当に大変な≠ェつくほどの超慎重派。まさしく石橋を叩いて渡る、を体現していると言っても過言ではないくらい。思うのだけど、石橋を叩いて渡ったあとのことを、このことわざの主人公は考えているのだろうか。石橋を叩いて渡るほどの慎重派だ。他のことにも万全を期すタイプに違いない。ことわざの主人公が渡りたい橋の向こうに何があるのかは置いておくけれど、もう一生誰にも踏み込まれたくない、もう一生戻らなくていいところなのだとしたら、渡りっぱなしではリスクが残る。だって、ことわざになるほどの慎重派が渡った橋だ。誰でも安心して渡ってくる。侵入を許してしまう。慎重派のわたしは提案したい。自分が渡ったあと、石橋、壊しちゃえばいいじゃん、と。一生戻りたくない、誰も踏み入れてほしくないものがその先にあるのだとしたら。わたしだったらそうする。

「わたし、ね」
「うん」
「も、元也のこと、好きだよ」
「……本当?」
「うん。好き、大好き、ずっと、ずっと言いたかったんだ」

 たくさん抱えるリスクはあるけれど、好きだと言われて、知らんぷりができるわけがない。言いたかったことが全部口から出ていくと、どんどん戻り道を塞いでいるような感覚になる。なぜだか安心する。もう戻れない。もう戻らせてあげられない。もう前に進むことしかさせない。そんなふうに、開き直っている自分に驚いた。
 元也が目をぱちくりしている。いつの間にか握られていたはずの手は、逆にわたしが握っているような状態だった。絶対離してやるもんか。わたしに一歩を踏み出させたのは元也だ。絶対に離してやらない。そんなふうにじっと瞳を見ていたら、元也が大笑いした。「なんで睨むの」と言いながら笑いをどうにか鎮めようとしている。

「付き合ってみたらなんか違ったとか言ったら許さない」
「なんでそうなるの、言わないってば」
「わたしよりかわいい子に目移りするのも許さない」
「ちょっと、やめて、笑いが止まらなくなるってば」
「何があっても絶対離してあげないからね」
「急に熱烈すぎる、ちょっと、お腹痛い」

 笑うな。そう手をつねってやる。元也はしばらくひーひー笑っていたけれど、頬を撫でるようなくすぐったい風が吹いたと同時に、一つ咳払いをした。それから、優しいいつものにこにこ顔をして、わたしを見た。「こっちの台詞」と穏やかな声で呟いてから、わたしの手をきゅっと握り直してくれた。


石橋壊したった
茜色 × 古森元也 × 夕立

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