八月上旬、午後一時半。梟谷学園男子バレーボール部は明日の練習試合に向けて、今日は早めに練習を終えている。ただ、練習が終わったからハイ帰ろう、という部員が少ないのが我が梟谷学園。ほとんどの人が自主練習のためにまだ体育館に残っている。
 わたしも先ほどまでは体育館でかおりと雪絵と喋っていたのだけど、課題でちょっと早めに終わらせたい箇所があった。帰ってやろうと思ったのだけど、どうやらみんなは自主練後にどこかへ行くらしい。わたしもそれは行きたい。そんなふうに悩んでいたら、後輩の赤葦が「部室でやったらいいんじゃないですか。鍵渡しますよ」と言ってくれた。体育館では腰が痛いし、校舎は遠い。部室なら扇風機もあるしめちゃくちゃに有難い。他の部員も「そうしとけ」と言ってくれたから、有難く部室の鍵を借りてきた。普段は選手しか入らない部室だ。何度か備品を取るために入ったことはあるけど。ちょっとわくわくする。
 そんなわけで、今わたしは一人で部室にいる。机に教科書とノートを広げ、近くに置いてある扇風機を最大にしている。それだけでは暑かったから机のすぐ横にある窓も全開にしている。それにしても暑い。時折服を指でつまんで扇ぐけど全然追いつかない。選手たちはこんな暑い中で着替えているのか。そんなふうにちょっと同情した。いや、女子更衣室も暑いのだけど。
 暑いときは何かをして気を紛らわせるに限る。いやお前課題に集中しろ、というツッコミが木葉と小見辺りから聞こえてきそうだけど無視。楽しいことじゃないと気を紛らわせるなんて無茶な話だ。とりあえずこの状況でできるのは歌を歌うくらい。今流行っている夏の曲を歌いながら教科書をめくっていく。歌は得意じゃない。でも歌うのは好き。気分が上がるから。歌詞を覚えていない箇所は誤魔化したり替え歌にしたりしながら歌い続けた。
 突然ドアが開いた。びっくりして思わず「うわっ」と声が出た瞬間、ドアを開けた人が思いっきり吹き出した声が聞こえてくる。今の声。ちょっと睨むようにドアのほうに顔を向けると、「なんで睨むんですか」と笑っている赤葦がいた。

「ノックくらいしてよ」
「ちょっとしたドッキリのつもりで。ご機嫌でしたね」

 笑いながら赤葦が、後ろ手にドアの鍵を閉めた。なぜ鍵を閉める。ちょっとドキッとしてしまった。
 最初からこのつもりだったのだろう。わたしに部室で課題をすることを勧めてくれたのも、鍵を貸してくれたのも。今だってどうせロッカーのものを取りに行くとか適当なことを言ってこっちに来たに違いない。赤葦はそういうやつだ。けろっとした顔でそういうことをするのだ。
 部員の誰にも言っていないけど、赤葦とは今年の春から付き合っている。赤葦から告白してくれた。一度は断ったけど、何となく告白してくれたときの顔が忘れられなくて。二回目はわたしから声をかけた。「前の告白って、もう無効?」と恥ずかしさを押し殺して聞いたら、赤葦は「期限はないので」と言ってくれたのだ。付き合い始めて四ヶ月が経ったけどまだ誰にも気付かれていない。たぶん赤葦がぼろを出さない限りは誰も気付かないだろう。それくらい隠し事が上手いのだ、この人は。
 わたしの隣の椅子に腰を下ろすと、「なんでこれだけ急いでやってるんですか」とノートを覗き込んだ。急いでいる、というか苦手な教科だから本格的に忙しくなる前に終わらせてしまいたいのだ。そう説明したら「真面目ですね」と微笑まれた。微笑みかけるな。心臓に悪いから。
 赤葦が邪魔で扇風機の風がこっちまで来ないんですけど。そうクレームをつけたら「ああ、すみません」と言いつつどいてくれない。暑いんだから譲り合いでしょ。そう腕を掴んで引っ張っても効果なし。普段は割と聞き分けの良い後輩なのに、二人になるとこうやってわたしをいじめてくる。好きなら優しくしてよ、と言ったら「困っている顔がかわいくて、つい」とまた微笑まれた。何この人、本当に心臓に悪い。とりあえず思いっきり腕を叩いておいた。

「キスしてくれたら退きます」
「……ばかじゃないの」
「ばかでいいです」

 ん、と目を瞑られた。かわいい、じゃなくて、なんで部室で。誰が来るかも分からないのに。「後で」と言っても「嫌です」と言われてしまう。さっき鍵を閉めたの、こういうことだったのね。全部赤葦の手の平の上で転がされている気がしてちょっと悔しくなった。
 所詮はわたしもただの女子高生で、赤葦の彼女なわけで。そういう、キスとか、したいって思う年頃だ。別に赤葦とするのがはじめてなわけじゃないけど、二人きりになれる状況は限られている。密室に二人きりだと多少は、期待はしてしまっていた。
 そうっと、赤葦に顔を寄せる。机に手をついてちょっと伸びをするように背中を伸ばした。ちょん、と赤葦の唇に自分の唇を当ててすぐに離れる。「はい、した、したから退いて」と赤葦の肩を掴んでぐいぐい押してみるけど、一向に動いてくれない。
 赤葦の目がパチッと開いた。それからわたしの肩を掴むと「さん」と小さな声で名前を呼ばれる。二人きりのときしか下の名前では呼ばない。だから、下の名前で呼ばれると、自然と何かしらのスイッチが入ってしまうようになっていて。ドキリとうるさい心臓を隠すように目を逸らすように俯いてしまった。
 そんなわたしの顔を上げさせるように、赤葦が顔を覗き込んできた。その上に唇を重ねて、両手でわたしの頬を挟む。上を向けるようにしながら唇を舐められる。びっくりしてちょっとだけ変な声が漏れてしまうと、赤葦が小さく笑ったのが聞こえた。ちゅ、とかわいらしい音を立てながら唇が離れる。満足そうにしている赤葦がわたしを見下ろして「汗かいてますよ」と額を手で拭いてくれる。

「赤葦のせいでしょ」
「え、なんですか?」
「だから、赤葦の、」
「なんですか?」
「……京治、の、せいでしょってば!」
「はいはい、そうですね」

 笑いながら赤葦が立ち上がる。反対側に座るのかと思いきや、わたしと場所を入れ替えるつもりらしい。なかなか座らないものだから、仕方なく京治が座っていたほうに移動した。そうして、思った通りわたしが座っていた窓側の椅子に腰を下ろす。
 開けっぱなしになっている窓。それを京治が一瞬見た。今日は快晴だ。雲一つない。深い青色が広がっている空はカラッとしている。こんなに爽やかな空の下で、何してたんだか。そんなふうに恥ずかしくなってきた。
 むかつく。なんでわたしばっかりこんなに汗かいてるの。そう思って、京治の足を軽く蹴っておく。それに「なんで怒るんですか。もう一回します?」と茶化してくるものだから。「うん」と答えてやった。予想外の返答だったのだろう。京治が目を丸くしている。

「何、その顔」
「まさかさんがそう言うと思わなくて驚きました」
「しないならしないでいい」
「いえ、します」

 そっと頬に右手が添えられる。輪郭を撫でるように動いて、最終的に顎を軽く掴むようにして、くいっと上げられた。ちょっと乱暴なんですけど。そう内心思いながらも、そっと目を閉じた。
 その瞬間だった。ガチャガチャッとドアノブが回される音。そのすぐ後に「あれっなんで鍵閉まってんの?!」という木兎の声が響いた。思わず赤葦を突き飛ばすように押しのける。突然のことに赤葦も力が入らなかったらしい。そのまま椅子から崩れ落ちるようにして壁に頭を強打していた。それとほぼ同時に、鍵が開けられたドアが開く。

「なんで鍵閉めてんだよ! なー赤葦と、この後かき氷食いに行こうって話になってるけどいい?!」
「いいよ、いいです、好きにしな」
「じゃあ決まりな! というかなんで赤葦頭抱えてんの?」
「何でもないです。大丈夫です。お気遣いなく」
「何もないならいいけど? つーか暑っ?! クーラー付けろよ?!」

 クーラー?! そんなもの、この部室についてるの?! 当たり前のように木兎がロッカーの上に置かれていたらしいリモコンを手に取る。ピ、と音がしてすぐ、真上から冷たい風を感じた。換気扇だと思っていたそれは、どうやらクーラーだったらしい。
 なんで教えてくれなかったの。そんなふう赤葦を睨み付ける。睨まれている理由が分かったらしいのに、赤葦はけろっとした顔で「ああ、うっかり忘れてました」と言った。嘘吐き! どんなうっかりだこのすけべ!
 深い青色の空が似合わない。この人は本当に、爽やかさの欠片もない。妙に色っぽいし、妙に大人っぽい。それが悔しい。悔しいけど、そういうところが、まあ、好きなのかも。仕方なく許してやることにした。


セイレーンの呪い
群青 × 赤葦京治 × 扇風機

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