パサパサになったショートヘア、いくら日焼け止めを塗ってもどうにもならない焼けた肌。そのどちらも努力の証しなのだけど、普通に過ごしているときはただのコンプレックスになる。
 好きで水泳をはじめたわけじゃない。親に言われて嫌々はじめた水泳でなぜかいい結果を出してしまった。それがスポーツクラブの人の目に止まって本格的に水泳をはじめることになった。嫌だと両親には言ったけど、お小遣いを増やしてあげるからと言われてまんまと乗ってしまって。今でもそれを後悔している。
 そう言うと人からは「贅沢な悩み」と言われる。大会でいい結果を出してチヤホヤされているくせに、と中学のときにコソコソ言われていることを知っている。だから、高校生になってからは誰にも言っていないし、そもそも水泳を続けるつもりもなかった、のに。受験勉強をしたくなくて、スポーツ推薦で楽に知名度のある高校に入れるから、と結局まだ水泳を続けている。
 受験勉強をしたくなかったから水泳でスポ薦受けたんだ、なんて言えるわけがない。副将でありリレーのメンバーにも選ばれている。そんなわたしが水泳をやりたくない、なんて。中学のときみたいにコソコソされるのが分かり切っている。だから、誰にも言わずに自分でも見えないふりを続けている状態だ。
 キャップが被りにくいから短くしている髪。本当はロングにして巻いたりアレンジをしたりしてみたい。でも、邪魔だから結局切ってしまう。色白になりたくていろいろケアをしているけど、屋外プールでは基本的に無駄。それに、子どもの頃からの日焼けはそう簡単にどうにかできるものじゃない。
 好きな人の好みのタイプが、ロングヘアで色白の子だと聞いた。じゃあ、わたしじゃ無理じゃん。そう思いつつも、諦められなくて。そんな自分がなんだかとても惨めで可哀想に思えてしまう。惨めでも可哀想でもないのだけど。
 もうプールには誰もいない。今日は午前で練習が終わって、もう解散した後だ。わたしは鍵閉め当番。同輩が一緒にやろうか、と声をかけてくれたけど一人になりたい気分だったから笑って断った。この後用事があって一緒に帰れないから気にしないで帰って、と嘘を吐いて。嘘を吐くのは癖になっている。プールを見るたび、塩素の臭いを感じるたび。ああ、嘘を吐いている、と思う。

「はあ、部活やめたい……」
「えっ?!」

 びっくりした。誰もいないと思っていたから思わず声に出してしまったのに。夏休みに入っているから校内には人が少ない。お昼だしまだ練習をしている部活はあるだろうけど、基本的にはグラウンド寄りのほうにいるだろう。プールに誰かいるなんて思いもしなかった。
 声がしたほうに顔を向けると、同じクラスの木葉秋紀がいた。水泳部の更衣室である建物の壁にもたれ掛かっていたようだ。

「こんなところで何してるの? 部活は?」
「今日はもう解散したとこ。久しぶりの半日オフだから帰って休めって監督に全員追い出された」

 体を起こしてこっちに近付いてくると「帰り際、水泳部の子が帰ってくのが見えたから」と言った。木葉とわたしは帰る方向が同じだ。家の最寄り駅が同じ路線だから、時間が被るとたまに一緒に帰っている。でも、まさかわざわざこんなふうに帰りの時間を合わせてくれるなんて思いもしなかった。

「職員室に行くんだろ? そのあと時間ある?」
「あるけど」
「なんか食べてから帰ろうぜ」

 木葉は不思議な人だと思う。第一印象は軽そうな人なのに、実際は真逆。意外としっかりしていて思慮深い。でも、第一印象でそういう人だと分かる人はきっとほとんどいない。なんだか損なやつ。そんなふうに思っている。
 二人で校舎のほうへ歩き始めてから、木葉が「それで、あの〜……聞いちゃったんだけど」と苦笑いをこぼした。わたしが呟いてしまった独り言のことだろう。部活やめたい。今まで誰にも言ったことがないそれを木葉に聞かれてしまった。ちょっと気恥ずかしく思いつつ、誤魔化すように笑っておいた。

「いやあ、ちょっと練習がキツくてさ。結構ピリピリしてて気疲れしちゃって」
「水泳部大変そうだもんな。が入ってから大会で成績残しまくってんじゃん。すごいよなあ」
「いや、それ強豪バレー部レギュラーの人に言われても」
「俺は地味な役割だからさ」

 バレー部のレギュラーに地味な役割ってあったっけ? 木葉は自虐的な発言が多いよ、と笑って肩を叩いておく。木葉も笑いながら「そうか?」と言った。

って小学生のときから水泳やってるんだっけ?」
「うん。高校でやめるけどね」
「……さっきの独り言、結構本気のやつだろ?」

 校内に入って上履きに履き替える。木葉もついてきてくれるようで、一緒に上履きに履き替えた。靴をしまいながら「え〜?」と一応誤魔化してみた。木葉って変なところで鋭いから困るんだよね。なんて答えよう。少し俯いたまま廊下を歩いて考えてみるけど、なんだかいい嘘が思い浮かばない。当たり前だ。いい嘘なんて滅多にないのだから。木葉は一見軽そうだけど、ちゃんとしているやつだ。それを分かっているから、嘘は吐かなくてもいいか、と開き直れた。

「木葉を信用して言うけどさ」
「お、おう、口は堅いけど……俺に喋っちゃっていいのか?」
「木葉だからいいんじゃん。近くもなく遠くもなく、特別でもなく無関係でもなく?」
「ちょっと待って、ちょっとだけ傷付いた俺がいる!」

 けらけら笑いつつわたしの鞄を軽く叩く。「ひでーじゃん相棒」と泣き真似をしはじめた。誰が相棒だ。そういうノリが一緒にいて楽なんだよね、木葉って。こういう話をするときは助かるかも。変に真面目に話さず、軽く吐き出せそうな雰囲気。それは木葉が意図的にしてくれているのか、自然とそうなっているのか分からない。でも、きっと相手が木葉じゃないとこうはならないだろう。なんとなくそう思った。
 職員室に鍵を返して、また来た道を戻っていく。窓の外は青空。なんて鮮やかな青色なのだろう。春でも秋でも冬でも空は青い。でも、夏の空は一等青い。目がひりつくほどに。それがきれいなのかどうかは人によるだろう。わたしにとっては、少し、苦手な色だ。

「嫌いになっちゃったんだ」
「何を?」
「泳ぐの」

 好きで水泳をはじめたわけじゃない。それは本当だ。そこから人に言われて続ける羽目になったのも本当だし、今水泳をやめたいのも本当。でも、わたしは、水泳が好きだった。親の勧めではじめて嫌々本格的に始めるようになって、すぐに水の虜になった。だって、陸より水中のほうが自由に動ける。わたしにとっては。楽しかった。子どもの頃は。
 記録が付き纏ってくるようになって、人からの期待がそこら中から刺さるようになって、水泳が嫌いになった。楽しくなくなった。それを贅沢だとコソコソ悪口を言われて余計に嫌いになった。わたしの気持ちも知らないくせに。簡単に言いやがって。そんなふうに毎日イライラしてしまう。
 昇降口でまた靴に履き替える。木葉も靴箱から靴を出しながら「えー、なんで」と妙に柔らかな声で言う。その声はこれっぽっちもわたしを責めるものじゃなかったし、わたしを茶化すものでもない。本当に何でもない、そのままの意味の声に聞こえた。

「俺は好きだけどな」
「毎日泳いでたら嫌になるもんだよ」
「いや、泳ぐのがじゃなくて」
「じゃあ何?」
「泳いでるが」

 なにそれ、とちょっと照れながら外に出る。木葉も続けて出てくると、生ぬるい風がわたしたちを撫でるように吹いた。眩しい太陽の下。顔を上げると、むくむくと空を貫こうとしているような入道雲が目に入った。夏の空だ。なんて、目に痛い。思わず目を細めたら、わたしの視界に入り込むように木葉が顔を覗き込んできた。

「無責任なこと言うけどさ」
「うん」
「泳いでるときのって、すげーきれいなんだぜ。自分では見られないから知らないだろ?」

 だから好き、と木葉が笑った。眩しい。夏の空と同じくらい。ぼんやりそんなことを思ってしまう。
 なに、その口説き文句みたいな台詞。木葉の脇腹を叩いてやると「褒めただろ?!」と喚かれた。うるさい。きれいじゃないし。動画とか写真で自分が泳いでるところくらい見られるし。何言ってるの、馬鹿みたい。

「どうせ高校でやめるんだろ?」
「……まあ。卒業したらさすがにやりたくないかな」
「じゃあもうちょっとだけ全力で泳いでよ。俺のためだと思って」
「はあ? なんで木葉のために〜?」
「ファンだから?」
「なにそれ」

 真っ白な雲と鮮やかな青空、きらりと光る木葉の髪の毛、あまり焼けていない木葉の肌。一枚の絵のように、きれいに額縁に納まっている。描かれたみたいな写真。本物みたいなイラスト。そのどちらでもあり、どちらも違う。そんな不思議な感覚だった。そんな、わたしにしか見られない額縁の中で、木葉は笑っていた。
 一生残る気がした。どうしてなのかは分からない。でも、そう思うほどに眩しい光景だった。片思いの相手でもない。付き合っている人でもない。大親友でもない。何となく気が合って、たまたま帰る方向が同じなだけの、友達。近くもなく遠くもない。木葉はわたしにとってはそういう人だったはずが、一気に近くにきたような気がする。このたった一瞬で、馬鹿みたいだけど、好きだったはずの人のことを忘れてしまった。それくらいわたしにとっては印象的な色が溢れていた。

「でも、本当にきれいだった」

 いつ見たんだ、馬鹿。変態。そう足を軽く蹴ったら「イタッ、ごめん、ごめんなさい、ちょっと練習を覗いたことがあります」と白状した。男子の視線はもう慣れっこだ。見られても何か言われても気にしない。でも、きれい、なんて言われたことがないから、どうしようもなく恥ずかしくて。どうしてくれるんだ、このうるさい心臓。止め方を教えてよ。その思いを込めて思いっきり木葉の背中を叩いてやった。痛がる木葉の背後に入道雲と青空。弾ける笑顔が、ひどく、眩しかった。


いつか思い出す青空
青色 × 木葉秋紀 × 入道雲

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