小学六年生の夏休み。理科の課題で出たとあるものにわたしは悩んでいた。「夏の星座を見つけて絵に描きましょう」という宿題。別に難しいものじゃない。授業でもらった星座早見盤を使って、夜空を見上げるだけ。そう頭では分かっているのだけど。
 クラスの男の子で眼鏡をかけている子がいた。周りに眼鏡をかけている子があまりいなかったせいで、その子のあだ名は「眼鏡」だったのだけど、わたしは聞いているだけでもそれがとても嫌だった。そのあだ名で呼ばれたら嫌だな。眼鏡はかけたくないな。そんなふうに思っていた。でも、母親には絶対内緒だったけど、わたしはそのとき黒板の文字も少しぼやけて見えてきていて。目が悪いんだ、眼鏡をかけなきゃいけないんだ。そう分かっているのにどうして嫌で、ずっと誤魔化し続けていた。
 星座を見る宿題は、別に本当に見なくても先生にはバレない。星座早見盤を真似して描けばいい。そう開き直っていたものの、内心はちょっと残念だった。星座早見盤に描かれているような星座が空には本当にあるのだろうか。どんなふうに見えるだろうか。見上げてみてもぼんやり滲んだ光。それが少し寂しかった。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




「あ、もしもし〜お疲れ〜」

 脳天気な声でそう言っておく。左耳にスマホを当てながらタオルで髪を拭く。つい十分ほど前までお風呂に入っていて髪が濡れているのだ。いつもなら自分の部屋に戻る前に乾かすけど、今日は乾かさずに部屋に戻っている。理由は、まあ、この電話だ。一応。
 お風呂上がりはとにかく暑い。夏は特にせっかくお風呂に入ってもすぐに汗をかいてしまう有様だ。キャミソールの胸元を指で引っ張ってぱたぱた扇いでもほとんど意味を成さない。これだから夏は嫌だ。汗をかく前に窓を開けておこう。そう思ってベッドに乗って、その壁にある腰窓のカーテンを開ける。それから窓を開けると、涼しい夏の夜風を感じた。夏の風はなぜこんなにも夏を感じさせるのだろう。不思議だ。そんな馬鹿みたいなことを考えていると、スマホの向こう側で呆れたような声が聞こえてくる。

『お前、どうせ風呂上がりだろ。ろくに髪も乾かさないで電話してきやがって』
「ちっ……違うことはない、けど!」
『やっぱりな。声とか顔に出すぎなんだよ、昔から』

 半笑いでそう言いながらも「長引いたら面倒だから風邪引くなよ」と一応心配してくれた相手は白布賢二郎。わたしの小学生からの幼馴染だ。中学までは同じ学校に通っていたけど、高校からは別の学校になった。しかも、賢二郎が学生寮に入ったからほとんど会うこともなくなった。けれど、なぜだか週に一度、金曜日の夜、必ず電話をしている。どちらからともなく。約束をしたわけでもなく。
 賢二郎との電話で何を話すのか。別に説明するほど大した話はしない。お互い学校の友達には言えないような愚痴とか、ちょっとしたラッキーだった出来事とか。そんなどうでもいい話ばかり。でも、そういうどうでもいい話に限っていつも盛り上がるから不思議だ。それに賢二郎はそんなに口数が多いというわけでも、話し好きというわけでもない。人の話を黙って聞いているタイプでもない。それでも、寮のルールの範囲内で、この時間を必ず確保してくれている。わたしは話すことが好きだし聞くことも好きだけれど、賢二郎はどうして続けてくれているのだろう。たまにそう不思議に思う。

「賢二郎、先週言ってたテンジョウさん? のやつどうなったの?」
『天童さんな。まあ何事もなかった。俺の同輩は死んでたけど』

 ふわっと風が吹いて、タッセルで縛ったカーテンの裾が舞い上がる。あー、気持ちいい。夏はずっとこんな風が吹いていればいいのに。そんなふうに空を見上げていると、スマホの向こう側でガタッという物音が聞こえた。「今の音なに?」と聞いてみると、賢二郎が「窓際のものが落ちたから拾いに行っただけ」と言った。

「え、部屋にいるの? いつも部屋からじゃないよね?」
『同室のやつが実家に帰ってるから。弟の誕生日とか何とかで』
「いいお兄ちゃんじゃん。賢二郎も賢三郎と賢四郎の誕生日くらい帰ってあげなよ」
『どっちも俺が帰ってきても喜ばねえよ。あといい加減その呼び方やめろ』

 笑いながら「え〜」と返したら、賢二郎が「え〜、じゃねえよ」と笑った。こういう緩い会話を時間が許すまで続けている。賢二郎ってそういうのしたがらないタイプだと思っていたから、毎回内心で意外だなあと思ってしまう。よっぽど暇なのか、と思っていた時期もあるけど、賢二郎の話を聞いている感じ毎日忙しそうだ。わたしとのこのどうでもいい電話は賢二郎にとってどういう時間なのかな。本人に聞かなくちゃ分からないそんなことを、よく一人の時間に考えている。
 たぶん、そのまま聞いたら、お前はどうなんだよ、って聞かれるに決まっている。それが困るから聞けないままだ。

「この時間って起きてる人多いの?」
『知らないけど、半分くらいは寝てるだろ。練習きついし、明日も練習試合だし』
「……賢二郎は寝なくていいの?」
『別に。いつもこの時間は起きてるから』

 何でかは言わなかったけど、きっと勉強をしているからだろう。賢二郎が通っている白鳥沢学園高校は県内有数の進学校だ。その中で賢二郎は成績上位に入っていると聞いている。元々理解力があって飲み込みが早いタイプだとしても、ちゃんと勉強をしていなければ上位には入れない。受験のときもそうだったけれど、寝る時間を削ってでもちゃんとやっているのだろう。その姿には、まあ、ちょっと尊敬の念は抱く。ちょっとだけだけど。
 昔からそうだった。賢二郎は誰かへの不満や自分が納得できないことへの愚痴は普通にこぼす。もちろんちゃんと理由があるものだけだけど、そういう負の感情を隠すことは基本的にない。でも、自分が置かれている状況へのつらさとか、自分が直面している問題への不満とか、そういうことは誰にも言わないのだ。高校受験のときも一言もつらいなんて言っているところを見たことがない。勉強は順調か、と聞かれればいつだって「それなりに」と答えていた。模試の結果を聞いても「まあまあだった」と答えていた。受験が終わってからは「死ぬほどつらかった」と言っていたのに。笑い話になってからはじめて人に言うのだ、賢二郎は。
 そういうのを、話してもらえるような存在になれたらいいのに。いつもこっそりそう思っている。

『あ』
「え? 何?」
『懐かしいものが見えた』
「懐かしいもの?」
『窓の外見てみろ』
「今ちょうど窓際にいるけど、え、わたしにも見えるもの?」
『見える』

 窓の外はさっきから見ているけど、懐かしいものって一体。しかも賢二郎にもわたしにも見えるって、どういうこと? 賢二郎がいる白鳥沢学園はうちからだと車で二時間かかるような距離だ。その距離感でお互い見えるもの。お互いの懐かしい思い出に当てはまるもの。

「え〜何? 全然分かんない」
『上』
「上?」
『お前の部屋の窓からだと、ちょっと右側のほう。近所にアパートあるだろ? その上くらいだと思うけど』

 言われた通りの方角に視線を向けた。上、と言ったからもう少し上かな。そうなると空しか見えないのだけど。真っ暗な空。何もないじゃん。そう言ったら賢二郎が「なんで見えてねえんだよ。馬鹿かよ」と言った。いや、なんでわたしが馬鹿になる! わたしからは見えないものなんじゃないの。そう少し拗ねたら賢二郎が「あ」と言ってから小さくため息をこぼした。

『眼鏡かけろ。どうせかけてないだろ』
「かけてないよ。好きじゃないもん」
『そのうち躓くぞ』

 仕方なくあまり使わないままの眼鏡を鞄から出した。日中はコンタクトレンズを付けているから眼鏡なんて滅多にかけない。子どもの頃は嫌々かけていた時期もあったけど、すぐにコンタクトレンズを親にねだったっけ。わたしがあまりにも眼鏡を嫌がるから親も諦めてコンタクトレンズを買ってくれたのだ。
 眼鏡をかける。「かけましたけど〜?」と賢二郎にちょっと拗ねたまま言ったら「そのままさっきのところを見ろ」と指示される。空には何もない。懐かしいものなんてあるわけないのに。不思議に思いながら言われた通り夜空を見上げたら、思わず「あ」と声がもれた。

「星座のことだ?!」
『遅えよ』

 笑われた。いや、そんなの分からないでしょ普通。でも確かに懐かしいものだ。
 小学六年生のときの夏休み。宿題で出された星座を描く宿題。当時わたしは眼鏡をかけたくなくて、目が悪いことを誤魔化していた。だから、空に浮かぶ星座なんてちゃんと見えなくて。でも星座は見たい。それを賢二郎に話したら「じゃあ一緒にやろう」と言ってくれた。お互い両親に許可をもらって、わたしが賢二郎の家にお邪魔したのだ。賢二郎の部屋から空を見上げたけど、やっぱり星が見えないから星座なんか見えるわけがない。
 賢二郎の指が空をなぞる。「ここに一つ、ここに一つ、あとここにも一つ」とわたしの目の前で星をつつくように指差してくれたのだ。もちろん星は見えていないからいまいち形は分からないままだった。でも、わたしは、賢二郎のその優しさが嬉しくて。星座早見表を二人で見ながらたくさん星座を見た。賢二郎は空を、わたしは賢二郎の指を見ていた。
 その一つが、夏の大三角だった。夏の星座の代表格。結局目が悪くなっていることが視力検査でバレて、眼鏡をかける羽目になったわたしがはじめて自分の目で見た星座でもある。形が単純だし、星が明るくてすぐに見つけられる。賢二郎がそう教えてくれたから。

「賢二郎、星座いっぱい知ってたよね。何の星と何の星かまで教えてくれたからびっくりしたもん」
『そうだっけ』
「そうだよ。ねえ、今はわたしも見えるしまた教えてよ。夏の大三角は何の星でできてるっけ?」
『あー……確か、ベガとアルタイルと……デネブだったか?』
「あれ、どうしたの。キレが悪いね?」
『もう覚えてねえよ』

 あんなに詳しかったのに忘れちゃったんだ。好きだから調べたんでしょ? 忘れちゃって残念だね。わたしがそう苦笑いをこぼしていると、スマホの向こうで賢二郎が何かを口ごもったのが分かった。それがなんだか気になって「何?」と聞いてみる。賢二郎は「いや」と小さな声で言って、少し黙りこくってしまう。何か言いたいことがあるのだろうか。賢二郎はそういうの、遠慮なくズバズバ言うタイプだったはずだけどなあ。夏の大三角を見上げながらそう思っていると賢二郎が「星座」と呟いた。

『別に今も昔も好きじゃない』
「え、そうなの?! あんなにいろいろ知ってたのに?」
『あれは……』
「何?」
『…………お前のために、調べたというか』

 ぽつりと呟かれた声でも、スマホ越しでははっきり音を拾ってくれてしまう。だから、賢二郎の声はちゃんと聞こえていた。何より、聞けてよかったと思った。それくらい、なんだかふにゃふにゃした声だったから。わたしのために、調べた。その言葉が一瞬で夏の熱を上回る。それくらいの熱を運んできてしまった。
 賢二郎と電話をするこの時間が好きだ。賢二郎になら何でも話したいから。賢二郎と電話をするのが好きだ。賢二郎の声が好きだから。賢二郎の話を聞くのが好きだ。賢二郎のことをたくさん知れるから。賢二郎に話を聞いてもらうのが好きだ。賢二郎の中に割り込める気がするから。賢二郎のことが好きだ。だって、賢二郎だから。
 わたしは単純で、大して頭も良くなくて、別にどこも大人じゃない。ただの十代の学生だ。だから、好きな人にそんなふうに言われたら、ほんの少し、いや心臓が飛び跳ねるほどには、期待をしてしまう。

『……お前、日曜日ヒマ?』
「えっ、な、なんで?」
『予定あんのかって聞いてんだよ』
「だからなんでって聞いてるの!」
『何でもいいだろ』
「良くないんだもん!」
『とりあえずヒマなのかそうじゃないのか言え!』

 ギャアギャアと言い合いをしていると、コンコンとドアがノックされた。母親が「楽しそうだけど窓開けてるならやめなさいよ〜」と声をかけてきた。慌てて「ごめん!」と謝っておく。つい大きな声を出してしまった。反省だ。そう思っていると賢二郎が「すみません」と言っている声が聞こえてきた。

『クソ、お前のせいで先輩に文句言われた』
「わたしのせいなの?!」
『お前のせいだ。だから日曜日ヒマなのかどうなのか言え』
「……賢二郎は?」
『丸一日オフ。明日外出届出す予定』

 賢二郎は都合が悪いときとか照れ隠しのときはいつも早口になる。子どもの頃から変わらないからすぐ分かってしまった。もしこれで、わたしの早とちりで馬鹿な期待だったら、一生恨んでやる。きゅっとスマホを握りしめて一つ息を吐く。
 星座をなぞる指がきれいだと、素直に思った。星よりも、星座よりも、賢二郎の指を見ているほうが好きだった。星と違って手の届くところにあるそれを、わたしは未だに触ったことがない。怖いからだ。星みたいに手の届かないところにあるものなら、届かないのだから触れられなくて当たり前だと思える。でも、手の届くものはそうじゃない。触らないで、と言われたら触れない。触れる人がこの世にいるのに、わたしは触れない。そう思い知らされてしまうから。それが、怖かった。
 今のわたしは、賢二郎からその手を、伸ばされていると思ってもいいのだろうか。

「……じゃあ一つ教えてくれたら答える」
『なんだよ。ヒマじゃないならヒマじゃないでいいだろ』
「賢二郎って」
『何』
「スカートとワンピース、どっちが好き?」
『…………ワンピース』
「何時にどこ?」
『……十時、近所の公園』
「分かった」

 じゃあ日曜日にね、おやすみ。そう言い逃げするような勢いで言ってから勝手に電話を切った。それからスマホをベッドの上にぽいっと置いて、枕を抱えてしまう。何今の。何なの、なんで急に日曜日って、なんで? なんでって言いながら想像して悶えている自分が恥ずかしいのは百も承知なのだけど、それでも言わずにはいられない。え、なんで? 本当になんで? さっきの何?
 星座が好きじゃないのにたくさん調べてくれていた。長電話なんてするタイプじゃないのに毎週付き合ってくれる。どうでもいい話に割く時間がもったいないだろうにいつも話を聞いてくれる。こんなふうに、突然、夏の熱なんかかわいく思えるほどの熱を寄越してくる。
 夏にぴったりだと思って買った、水色のワンピース。爽やかな色合いが夏そのものって感じで好きだった。まだ一度も袖を通していない。わたしの夏は日曜日にあったのだ。だから、夏の色をしたワンピースを着ていこう。きっとどんなことが起ころうとも、わたしは明後日の日曜日のことを忘れないだろう。それくらいのことが起こる予感がする。水色のワンピースに夏の出来事を染み込ませて、一生着続けてやる。何が起こっても、何を言われても。絶対に忘れてやらない。こんな、ひりひりと熱くてくすぐったい夏なんて、もう二度とないだろうから。


impressive summer
水色 × 白布賢二郎 × 夏の大三角

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