泳げへんってほんまなん? ヤバ、ダサすぎやろ、夏休みプール行こうや」

 と、いう侑の最低発言がきっかけとなり、本当に引きずられるようにプールに連れてこられた。誰か他にも呼ぶのだろうと思っていたのに侑と二人だし、水着なんて学校の授業くらいでしか着ないし。なんか、どうしていいものか分からない。愉快そうに「息継ぎができへんの? そもそも水中で動けへんの? どのタイプ?」と馬鹿にしながら聞いてきている。うるさい。今それはどうでもいいんだよ。
 一年生のときに同じクラスになったことがきっかけで仲良くなった。席が近かっただけではじめのころは全く話すこともなかったけど、何かの拍子に会話をしたら話しやすくて。侑もそう思ってくれたのかどんどん仲良くなったことを覚えている。二年生になった今はクラスが離れたけれど変わらずよく話すし、こうやって遊びに行ったりもする。だからなのかたまに付き合っていると間違えられたりして。そんなんじゃない。いつもそう説明しつつため息をついている。
 夏休み真っ盛りのこの時期、一番近くにある大きなプールは様々な年齢層のお客さんでごった返している。憂鬱。実は人混みって苦手なんだよね。内心そう呟きつつも、楽しそうに笑いながら話をしている侑を見ると「ま、いっか」と思ってしまう。我ながら単純だ。

「あそこやったらええやろ。浅めやし」
「えー嫌や、泳ぎたない」
「今日何のために来とんねん。ここまで来たら一泳ぎしてもらわな帰らへんで」

 浅め、と侑が言ったプール。たしかに侑からしたら浅めなんだろうけど、身長差を考慮してほしい。わたしからすれば顔は出るけど肩くらいまでは水に浸かるくらいの深さだ。ちょっと怖い。そんなわたしに気付かないまま侑がざぶざぶとプールに入っていった。
 誰にでもなく問いかけてみる。好きな人にさ、ダサいところ見られるの、嫌じゃない? わたしの問いかけに答えてくれる人はもちろん誰もいないし、そんなふうに考えていることに気付いてくれる人ももちろんいない。ムカつく。ぽつりと、聞こえないくらいの小さな声で呟いておいた。
 ここに来るまでの数日間、わたしは恐ろしいほどの葛藤と戦った。葛藤その一、先ほど言ったように好きな人にダサいところを見られたくないけど、一緒に出かける口実を失いたくない。葛藤その二、好きな人がどんな水着が好きか分からないし、露出があったほうがいいのか逆に抑えたほうがいいのか問題に答えが出ない。葛藤その三、そんなに体型に自信がないけどもう絞る時間もない、けどできるだけ良く見られたい。葛藤その四、そもそも、どういうつもりで、プールに二人で行くなんて、誘ってくれたのか。
 葛藤その四に関しては侑のことだから深い意味はないに違いない。ただ仲が良いだけの女友達としか思われていないのは百も承知。わたしに好かれていると知ったら面倒くさがって構ってくれなくなる可能性がある。気付かれないように知らんふりを決め込むしかないのだ。

「え、なんなん、怖いん?」
「怖ないし」

 ムッとしつつ、そうっと足を水につけた。階段が設置されているので、ざぶんっと勢いよく落ちる心配はない。ゆっくり階段を下りていくとじょじょに体が水に浸かっていく。苦手だな、やっぱり。そう思っていると侑が「ん」と手を伸ばしてくれた。優しいじゃん。照れつつその手を掴むと「泳げへんっちゅうか、水苦手なんやん」と笑われた。表情に出ていたらしい。恥ずかしい、バレてしまった。
 階段を下りきると、やっぱり肩くらいまで水に浸かってしまった。侑は結構体が水面から出ている。体格差がこんなふうに可視化されることがあまりないからちょっと驚いてしまった。侑も同じように思ったみたいで「ちっさ」と目を丸くしていた。

「俺手持っといたるで泳いでみ」
「無理、なんやねん泳いでみって。そんなんで泳げたら世話ないねん」
「浮いて足バタバタするだけやん。やってみたらできるもんやろ」
「誰もが当たり前に運動できると思うなや」

 これだから運動部レギュラーは。そう吐き捨てるように言うと「やさぐれんなや」と侑がおかしそうに笑った。さっきからずっと楽しそうで結構結構。そりゃ面白いよね、自分が簡単にできることを全くできない人が目の前にいるのって。ダサくて面白いよね。そう拗ねてしまう。

「なら俺引っ張ったるで浮いてみ」
「それができへんねん。浮くってなんやねん、人生でいっぺんも浮いたことないっちゅうねん」
「おうおう、腐んなや」

 わたしの両手を握ると、侑がぐいっと引っ張った。やらないとこれ、無理やりにでも引きずり回されるやつだ。そう観念して「もっと屈んで、ちゃんと支えて」と言ったら「はいはい」と言いつつ屈んでくれた。
 周りの小さい子たちが不思議そうな顔で見ている。視線が痛い。恥ずかしいんだけど。そう思いつつそうっと足を浮かせる。「お」と侑が短く言ってからそのまま後ろ向きに歩きはじめた。う、無理かも。

「え、普通に浮けるやん。泳げるやろ」
「顔が無理。顔を水に浸けるんが無理やし息継ぎのこと考えるとしんどい」
「あー。そういうことな〜」

 侑が止まったのでわたしも足を地面につく。しんど。一生分泳いだ。そう呟いたら侑が大笑いして「泳いでへんし!」と水面をばしゃばしゃ叩いた。やめろ。ばしんっと肩の辺りを叩いてやる。侑は「浮き輪借りてきたろか?」と愉快そうに笑うばかり。やっぱりばかにしてる。
 それから何度か同じように侑に引っ張られながら浮くだけ、というのを繰り返す。途中で「これ、侑は何が楽しいんや?」と気付いてしまう。せっかくプールに来たのに泳ぐこともなく、泳げない人を引っ張るだけって。楽しくないのでは? もしかして飽きてきてたりする? そう不安になりつつも言葉にはできない。「飽きた」とか言われたら普通にへこむし。そろそろ休憩しようよ、と言えばいいだろうか。そう考えていると侑が「なんや、疲れたん?」とわたしの顔を覗き込んできた。顔が近い。やめて。そう顔面を手で押しのけたら「おい」と怒られた。

「ちょっと休憩しよ」
「空いとる席あるかな〜。それかどっかで飯食うか」
「わたし適当に座っとるで、侑泳いできたら?」
「は?」
「せっかくプール来とんのにずっと水泳コーチしとんのもあれやろ」

 親切心のつもりで言った、はずなのに。侑は分かりやすく機嫌が悪そうな顔をしていた。ジト、とわたしを見下ろして「飯食うんか休憩するんかどっちやねん」と低い声で言う。え、何。なんで怒ってるの。侑の怒りポイントがよく分からなくて「ご、ご飯食べます」と思わず敬語で答えてしまった。侑は不機嫌そうなまま「ロッカーで財布持ってきたらここ集合」と言ってさっさと歩いて行ってしまった。
 どうしよう、侑、なんかすごく怒ってたけどなんでか分からない。なんて謝ろう。でも理由も分かっていないのに謝られても、とか言われたら本当にへこむし。どうしよう。
 女子更衣室に入って自分の荷物を入れたロッカーを開ける。パーカーを羽織りつつスマホと財布が入っている小さめの鞄だけを持ってまた鍵を閉めた。侑、お腹空いてたのかな。それでイライラしてた、とかそういうオチだったらいいのに。そんなことを思いながら女子更衣室を出る。
 出てすぐそばにある案内図。その辺りで侑と別れたから近くにいればいいはず。そう思って少し俯かせていた顔を上げると、侑がいた。人がたくさんいるとはいえ、特徴的な髪色と身長ですぐ分かる。声をかけようと口を開こうとした瞬間「えー、ちょっとくらいええやん!」という女の人の声が聞こえた。そのあとに続いて「お姉さんらが何でも奢ったんで」とも。それから「や、ツレおるんで」という、侑の余所行きの声も聞こえてきた。

「君めっちゃイケメンやなあ。彼女とかおる? おらんならお姉さんどう?」
「や〜俺にはもったいないですわ〜遠慮しときます〜」
「うまいこと言うわこの子。お昼ご飯もう食べたん?」

 これは俗に言う、逆ナン、というやつなのでは。はじめて見た。思わず植木の陰に隠れてしまう。侑に声をかけているのはたぶん二十代の二人組だ。二人ともばっちり化粧をしているきれいな女性、って感じだ。あと細いのに、あの、おっぱいが、大きい。同性のわたしでも思わずじっと見てしまった。侑どうするんだろう。横顔しか見えないから表情がよく分からない。でもにこにこしているように見えるし、と、思ったけど気付いてしまう。財布を握っている左手の指。さっきからコツコツと財布を軽く叩いている。あれは確実に面倒臭がっているサインだ。課題を解いているときも分からない問題になるとノートの端をシャーペンでトントンと叩き続けるし、ぐだぐだと長い話をする先生の授業中はずっと机を指で叩いていたっけ。イライラしたときの癖のようなのだ。
 助けに入る、と言ってもわたしに何ができるだろうか。いろいろ考えたけど良い案が浮かばない。彼女のフリ、と一瞬思ったけどこんなちんちくりんが彼女に見えるわけないだろうし。友達、だと邪魔者扱いされて終わりそうだ。

「ええやん、ちょっとだけ! お茶するだけ! な!」
「いや〜ほんま勘弁してくださいって〜! ツレ怒ると怖いんすわ〜」

 にこにこしつつも口元がぴく、と動いたのが見えた。きれいな人に声をかけられてるんだからラッキーって思っとけば良いのに。そう思いつつ一つ良い案が思いついた。これなら自然に侑を連れ出せるかも。そうっと物陰から出て侑たちに近付いていく。愛想笑いを浮かべつつ今にも舌打ちをこぼしそうな侑が、ちらりとわたしを見た。気付いた。「あ、ツレ来たんで〜」とその場を去ろうとするも、二人は「え〜ちょっとだけ遊ぼうや〜」とやはり逃す気はないらしい。ついに侑が小さく舌打ちをしてしまう。「ほんま、」と低い声で何か言おうとした瞬間、侑の腕にぎゅっと抱きついた。

「お兄ちゃん何しとんの?」
「…………は?」
「あっちで治泣いとんで。はよ迎えに行かんとまた迷子なるで」
「え、妹ちゃんと来とるん?」
「なんや、家族で来とんのやったらしゃーないわな。ほなね〜」

 思ったよりあっさり引き下がってくれた。二人が見えなくなるまで侑の腕に抱きついておいたけど、見えなくなってからそうっと離れた。苦笑いをこぼしつつ「モテ男は苦労すんなあ」と侑の顔を見上げると、じっとわたしを見ていた。

「えっ、何?」
「なんで妹のフリしとんねん。ちゅーか、治いくつの想定やねん」
「十歳くらいのつもりやった。迷子になるような弟連れとる男、なかなかナンパできへんやろ?」
「……」
「あかんかった?」

 諦めてくれたのだし、結果的にはよかったと思うのだけど。不満に思われる要素あったかな。さっきも急に不機嫌になったし今日の侑はよく分からない。
 侑はわたしの顔をじっと見たまま、さっきわたしが抱きついた左腕を軽くさする。はいはい、勝手に触ってごめんね。そう謝ると侑は「ちゃうわ、アホ」となぜか赤い顔をした。

「…………フツー、彼女のフリやろ。そこは」
「最初はそう思たんやけど、わたしやと侑の彼女には見えへんかなって」
「なんでやねん」
「さっきの女の人たちのほうが侑の彼女っぽいやろ? わたしくらいやと妹のほうがリアルやん」

 笑っておく。どうせわたしじゃ釣り合わない。そんなふうにも思われていないだろうし、ひっそり密やかに隠し持っているだけなのだ、この想いは。そうぽつりと喉の奥で呟いて、ゆっくり瞬きをした。そんなわたしの前で侑は、何か信じられないようなものを見る顔をしている。何に驚いているのかは知らないけど、早く行かないとお昼時のピークを迎えてしまう。「早よ行くで」と一人で歩き出すと、侑も静かなままわたしの隣を歩き始めた。わたしの顔を見たまま、ぼけっとしている。前を見て歩け。そう言っても「いや、お前」とぼそぼそ何か言いかけてはやめる、を繰り返すだけだった。
 原因が分からないわたしには対処のしようがない。明日部活があると言っていたし、調子悪いままだったらごめんね、と治に心の中で謝っておく。侑のことだし部活がはじまればスイッチが切り替わるだろうし、心配いらないと思うけど。
 侑がようやく前を向いた瞬間、きゅっと突然、捕まった。びっくりして視線をそっちに向けると、侑がわたしの右手の指先を掴んでいる。思わず「え、何?」と笑いながら聞くけれど、内心はそれどころじゃない。え、何、本当に何?

「ええやん」
「いや、何がやねん。ようないわ」
「俺がええって言うとるでええやろ」
「わけ分からへんのやけど」

 ついにはぎゅっと手を握られた。ぶわっと一瞬で体が熱くなってしまって、どうにか顔が赤くならないように気を付ける。でも、いくら気を付けてもどうにもできない。どんどん顔が熱くなるのを感じてしまう。自覚すると余計に止められなくなって、侑がこちらを見ないことだけを祈るしかできない。

「女避け」
「はあ?」
「俺、見ての通りモテんねん」
「それは知っとるけど。せやから妹のフリでええやん。隣おるだけで十分やって」
「嫌や」

 ぎゅうっと手を握る力が強くなった。ちょっと痛い。でも、離して、と言いがたくて黙ってしまう。なんでこんなことするんだろ。今日の侑はやっぱり変だ。いつもの侑ならノリ良く「お兄ちゃんて言うてみいや〜」とか言って茶化してくる場面だったのに。なんで不機嫌になっているのか分からない。わたしは、侑のことが好きなのに、侑のことがよく分からない。いつも見ているはずなのに。
 侑の足が止まった。目的地の飲食店がある場所まではまだ距離がある。「もうちょっと先やで」と言っても無反応。ほんの少し視線を落としていた侑がこっちを見た。うわ、顔見られる。そう思ったのは一瞬だけ。

「彼女がええ」

 そう言った侑の顔は、たぶんわたしよりも真っ赤で。なんて返せば良いのか分からなかった。


勝手に沈んでろ

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