表札を睨んで約一分。近くのお宅の庭にある木から聞こえている蝉の鳴き声が耳に痛い。きれいに晴れた夏休みの水曜日。この日は白鳥沢学園男子バレーボール部、夏休み最初のオフである。
 昨日は他県の強豪校がはるばる宮城までやってきて試合を二試合行った。午前は通常練習、午後がその練習試合、その後は自主練習で遅くまで残っていた。わたしと後輩マネージャーのあかりちゃんは自主練の途中で帰ったけど、賢二郎曰く体育館を閉める時間ギリギリまでみんな残っていたのだとか。夏休みもバレー漬け。さすがは強豪校だな、なんて思いつつ「お疲れ」と返信しておいた。
 シンプルな表札。それをじっと見てさっきからインターホンを押せないまま額に汗だけが滲んできている。約束の時間の十分前。今にも声に出してしまいそうな、どうしよう、という言葉をぐっと飲み込み続けている。押そうかな。どうしようかな。そんなふうに悩みつつ一度表札に背中を向けてみる。
 ちょっと、昨日の夜からやり直したい。なんで普段滅多にタンスから出さない膝丈のスカートを穿いてきてしまったんだろうか。どんな服を着ても絶対にばかにしない、むしろ「似合う」と言ってくれる仲が良い友達と出かけるときにしか着ないスカートを、なんで選んでしまったのだろうか。しかも前に賢二郎が選んでくれた髪飾りもつけてきたし、なんか、気合いが入りすぎていて逆にイタいのでは? そう後悔しても遅い。巻き戻したい。服を選んだ昨日の夜に戻してほしい。そうしたらいつも通りの服を選ぶのに。スカートなんてわたし、賢二郎の前で最近穿いたことあったっけ。少なくとも高校生になってからは一度も穿いたことがない。小学生のときでさえ他の男子に何か言われるのが嫌で滅多に穿かなかった。穿いていたとしてもロング丈しか、たぶん、穿いたことがないと思う。なんで脚を出してしまったんだろう。そう細くもないしきれいでもないくせに。自分が憎い。
 やっぱり一旦帰るか、と開き直りそうになった瞬間に「おい」と真後ろから声が聞こえた。びっくりして振り返っても誰もいない。え、何? そうぼけっとしていると、インターホンから「何してんだ」と賢二郎の声が聞こえている。もしかしてずっと見てたんじゃないでしょうね。内心そう思いつつ「別に何でもない」と返しておく。
 声が聞こえなくなって数秒後、ガチャ、と玄関の鍵が開いた音がした。逃げ場がなくなった。一つため息をこぼしてしまった瞬間にドアが開いた。目が合った賢二郎が一瞬固まったのが分かった。インターホンの画面越しでは上半身しか見えなかったからだろう。別に良いでしょ、わたしがスカート穿いたって。
 その一瞬の間の後に何事もなかったように「どうぞ」と言ってドアを押さえておいてくれる。「お邪魔します」と言いつつ中に上がらせてもらうと、なんか、どんな顔をしていいのか分からなくなってしまった。なんかムカつく。そんなふうに悪態をこぼしながら靴を脱いで、前と同じようにリビングの前を通過。階段を上がって、お兄さんと二人部屋のドアが開けられた。

「お前課題どこまでやった?」
「まだ夏休み入ったばっかりじゃん。英語のプリントしか終わってないよ」
「もう英語終わってんのかよ、早いだろ」

 そう言いながら賢二郎が後ろ手にドアを閉めた、そのすぐ後。ガチャ、と静かに鍵を閉めた音がした。閉めなくて、いいじゃん。だってご両親も兄弟たちも誰も来ないって分かってるんでしょ。なんでわざわざ鍵を閉めるの。閉めるなら完全に音を立てないように頑張ってよ。閉める直前に課題の話を振ってきたのも気をそらすためでしょ絶対。積もり積もる文句は一つも口から出ていかない。そそくさと前に座ったところと同じ、クッションのところにそうっと腰を下ろした。
 課題を進めるという目的があるので、机の上にノートを出させてもらう。向かいに勉強道具を広げてある賢二郎は好きじゃないという読書感想文から片付けているようだ。課題図書はすでに読み終わったようで、閉じられたまま机の上に置かれている。読書感想文、小学生のときから一番やる気が出ないと言っていたっけ。そのくせ中学三年生のときには校内で最優秀賞を取って、そのまま県のコンクールでも優秀賞をもらっていたけど。
 わたしもあまり得意じゃない教科のプリントを片付けていくことにする。ノートの内容を見たり教科書を確認したりしながら。分からないところは賢二郎に聞けるし、と思って苦手科目の課題しか今日は持ってきていない。勉強に関しては賢二郎より頼りになる人なんか周りにいないし。
 ちなみに、それは川西も同じらしい。昨日の夜に川西から珍しく連絡があって「明日って白布と約束してる?」と聞かれた。詳細はもちろん教えなかったけど「してるけど?」と返したら「マジか」とショックを受けたうさぎのスタンプが送られてきて。事情を聞いてみたらオフだから課題の分からないところを教えてもらうつもりだった、という。しかも川西だけじゃなくて他の二年生も。中でも川西が練習後はやる気を失うらしく、オフの日にまとめて聞こうと思っていたのだろう。課題をまとめてやる癖、直したほうがいいよ。そうアドバイスをしたらしくしく泣いているうさぎのスタンプが返ってきてちょっと笑っちゃったっけ。あとで同輩の課題手伝ってあげてってお願いしとくね。内心で川西にそう笑っておく。

「……それ、順番間違えてないか?」
「え、どれ?」
「問三。二番目と三番目が逆」
「なんで?」

 よく気付いたなあ。感心しつつ説明を聞く。AからEまでの選択肢を虫食いになっている問題文に当てはめるという問題なのだけど、賢二郎の説明の通り確かに二番目と三番目が逆だった。ちらっと見ただけで分かるとか、さすが。そう笑って言ったら「うるさい」と照れていた。照れた顔は小学生のときから変わらない。思い出したら笑ってしまった。
 ときたま賢二郎から文章の善し悪しを聞かれたり、わたしが分からない問題を教えてもらったりしつつ二人ともさくさく課題を進めていく。賢二郎と二人でやると昔から早いんだよね。テンポが合うというかなんというか。ストレスが一切ないというか。なんて言えばいいのか分からないのだけど。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 サクサクとストレスなく課題を進めてもう少しで一時間が経つ。読書感想文を書き終わったらしい賢二郎が、伸びをして「だるい」と呟いて床に寝そべった。集中が切れたやつだ。まあ、賢二郎は少しの休憩を挟めば復活するんだけど。わたしは集中が切れるとすぐには復活できない。「お疲れ」と声をかけるだけでプリントからは顔は上げない。これだけは終わらせたい。今が山場だし。シャーペンでコツコツとプリントを突いてしまいながら考える。これが解けないと次に進めないんだけどな。ノートを見ても分からなくて、教科書を見ても分からなかった。賢二郎案件なんだけど、休憩してるしもう少し自分で考えてから聞こう。そんなふうにプリントを睨んでいると「それ」と横から賢二郎の声がした。

「うわっ、びっくりした」
「教科書見るところが違う」
「え、嘘?」

 賢二郎はわたしの教科書をペラペラめくってから「ここ」と言った。わたしのノートも勝手にめくると「それ見ればお前分かるだろ」と、探していた箇所があったらしくノートを広げて置いてくれた。本当だ、気付かなかった。応用問題だから別のところも見なきゃだめだったんだ。お礼を言ってから教科書を目で追う。ノートも確認してから問題文をもう一度読み直せば、賢二郎の言う通り理解できた。
 残り二問。さっき賢二郎がアドバイスをくれた問題を解けたので普通に解ける。シャーペンをそのまま走らせていると、ふと、視線を感じた。賢二郎しかいないし賢二郎か。間違えていないか確認してくれているのだろう。わたしが解いているプリントが見えるように横に移動してきたのだろうし。気に留めずに一問終了。最後の一問もさらさらと解き進めて問題なく終了。これでプリント一教科分が終わった。一時間で終わったし、やっぱり賢二郎とやると早いなあ。一つ息をつきつつシャーペンを机の上に置く。

「お前解くの早くないか?」
「そう? 賢二郎ほどじゃないと思うけど」
「他のやつもそれくらい早く終わらせたらこっちが面倒見なくていいのに」

 うんざりした様子で言った。どうやら去年も課題の手伝いをさせられたらしい。残念、今年も頼まれることになるよ。スポーツ推薦組は勘弁してあげてよ。なんて、苦笑いで言ったら「別に嫌とは言ってない」とため息交じりに呟いた。そのあとに「自分でやれよとは思うけど」と忌々しそうに付け足す。まあ、賢二郎はそう言うタイプだよね。知ってる。
 まずい、このまま集中切れを起こす。でも一時間しっかり集中してやったからちょっと休みたいなあ。そんなふうに思いつつ背もたれにしている賢二郎のベッドにもたれかかる。あ、関節がぼきって鳴った。ずっと同じ体勢だったもんなあ。一つ息をついてから伸びをしていると、じいっと見られていることに気が付く。賢二郎のほうに顔を向けると思った通りじっとこっちを見ていた。

「何?」
「……いや」
「え、何? わたし何かした?」
「馬鹿だな、と思って」
「は?」

 なんで突然の暴言。ちょっとムカついて睨んでやる。さっき教えてくれた問題のところのことだろうか。確かに応用問題なんだしもう少し広い視点で見なきゃな、とは思ったけど。馬鹿って言うほど? 睨みつつベッドにもたれかけていた体を起こそうとしたら、賢二郎がそれより先にわたしの顔面をガシッと乱暴に掴んだ。そのままぐいっと押されて後頭部がベッドについた感覚がした。

「ちょっと、何? 痛いんだけど?」
「ムカつく」
「だから何がってば」
「切り替え早すぎだろ」

 何が、と言おうとしたらちょっと手が離れた。わたしとはいえ女子の顔を掴むのはいかがなものかと思う。絶対前髪ぐしゃぐしゃになったじゃんか。賢二郎の手が目の前から消えた、と、思ったら。目の前に顔があった。びっくりして下がろうとしたけど、これ以上は下がれない。じっと見つめてくる表情。その顔、最近見た覚えがある。そう気が付いて、あ、と思った瞬間、かすかに触れるくらいのキスを落とされた。

「……お前といると調子狂うんだけど」
「そ、そんなこと、言われても」

 賢二郎の額がわたしの首元にくっついた。小さくため息をこぼした賢二郎は左手でわたしの髪を触りながら少し黙る。なんで黙るの。困るんだけど。そうっと顔を背けておく。課題に集中したおかげで、来たときの緊張がせっかく飛んでいたのに。賢二郎のせいでまたぶり返している。前も同じような展開だったっけ。

「なんでスカート穿いてきたんだよ」
「……別にいいじゃん。似合ってなくて悪かったね」
「そうは言ってないだろ」
「そうとしか聞こえなかったんだけど」
「余計に意識するって言ってんだよ馬鹿」

 首元が熱い。それに気付いたらわたしも熱くなってしまう。早口、めちゃくちゃ照れてるときの口調じゃん。意識するって何。余計にって、言い方。なんかずっと意識してたみたいな言い方じゃんか。反応に困る。
 わたしの髪をぐしゃぐしゃにする勢いで触っていた手が、ぴたりと止まる。付けていた髪飾りを取られた感覚があったので少し驚いていると、賢二郎は体を起こして取った髪飾りをそっと机に置いた。壊れないようにですか。行き届いた配慮ができて余裕ですね。そんなふうに内心で言いつつそうっと体を起こす。ちょっと、クールダウン。勝手に休憩時間にしてしまおうと距離を取ろうとしたら「おい」と腕を掴まれた。

「嫌じゃないって言ってただろ」
「言ったけど、ちょっと休憩したいなって」
「まだ何もしてないんだけど」
「十分してるから……!」

 舌打ちされた。だから、彼女に舌打ちするの良くないと思うんだけど! たまに傷付くからね! そう言ってしまいそうになったけどぐっと堪える。腕を掴まれたまま体を少しずらしたら睨まれてしまう。顔が怖い。彼女に向ける顔じゃないよ、それ。今更賢二郎に言っても無駄なのは百も承知だ。
 ふと、腕を離してくれた。休憩の許可がもらえたのかとほっとした、のも束の間。わたしの前に体を移動させてきた賢二郎があの日みたいに抱きしめてくる。すぐ、また抱き上げようとしてると分かった。重たいって思われるの嫌だし、普通に恥ずかしいからそれはやめてほしいんだけど!

「分かった、分かったから、自分で動きます、大丈夫です」
「うるさい」
「本当にいい、いいってば!」
「俺がしたいだけだから黙ってろ」

 わたしの抵抗なんか何でもないみたいに、前と同じようにひょいっと抱き上げられた。これ、本当に、恥ずかしい。ぶわっと顔がとんでもなく熱くなってしまう。というか、なかなか下ろしてくれないんだけど。なんで? 落とされても嫌なのでぎゅっと抱きついてから「何、下ろして」と声を振り絞ったら賢二郎はぼそりと「別に重くねえよこれくらい」と言った。そういうの言わなくていい。なんでわたしが言ってほしいこと、全部分かるの。狙って言ってないなら賢二郎こそ馬鹿だ。女たらしじゃん。そう小声で文句を言ったら、「お前にしか言わねえよ」とまた言ってほしいことを言った。ムカつく。
 ようやく動いた。賢二郎はわたしを抱き上げたまま移動すると、前と同じように優しくベッドに寝かせた。ついでにスカート、直してもらえると、助かるんですけど。太腿が思いっきり出てるから恥ずかしい。さすがにそこには気付いていないらしい。直してくれないし、賢二郎の体が邪魔だから自分で直すこともできない。

「脚」
「へっ」
「俺は出てるほうが好き」
「……スカート穿けってこと?」
「いや……まあ、そうだけど」
「けど何?」
「……部活の集まりのときとかは、いつものでいい」

 賢二郎の手が太腿に軽く触れた。スカート、めくれてるの気付いてたんじゃん。直してよ。そうクレームを言ったら「うるさい」とだけ返ってきた。というか、触ってるんですけど。それもクレームをつけておくけどやっぱり「うるさい」とだけ返ってきた。脚、好きなのかな。そんなこと聞いたことないけど。でもなんか、ずっと触ってるし。
 賢二郎の前髪がおでこに当たった。わたしの瞳の奥をじっと覗き込んでいたその瞳が、ゆっくりと丁寧に瞬きをする。睫毛の一本一本が見えるくらい賢二郎の顔が近くにあることに、いまさら気が付いた。



きみだけがほしい きみしか見えない

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