※一年生のころの話。




「ごめん、私ももう、ついてかれへんわ……」

 高校一年生、六月。男子バレーボール部のマネージャーがついに一人になってしまった。残ったのはわたしだけ。最初は三人いたのに、入ってすぐに一人が辞め、そして今日二人目。この子はどうにか頑張りたかったようだけど、どうしてもしんどくなってしまったと泣きながら打ち明けてくれた。監督とコーチ、それから先輩に辞めると言いに行くのが怖いから、とのことで一緒にわたしもついていくことにしたけど、怖いって、なんで? そんなふうに首を傾げてしまう。みんないい人たちなのに。厳しいことを言うこともあるけど、つらいから辞めます、という子を怒ったり叱ったりする人たちじゃないのにな。そう思いつつ。
 不安だった。今日辞めると言った子が、一応マネージャーのまとめ役をしている子だったから。一番仕事が速くて、一番仕事ができるというか。わたしもこの子に指示をもらって動くことが多々あったから。わたしだけが残ってしまって、さぞ、部員にとったら残念なことだろう。この子が残るならまだしも、だけど。
 辞めることをその子が話したら、コーチが残念そうに「そうか」と言って「これまでありがとうな」と笑った。監督も同じく。三年の主将もそうだった。ほら、大丈夫でしょ。内心そう思っていると、監督が「は続けてくれるんか?」と声をかけてくる。「はい」とだけ答えたら「一人で大変やろうけど、よろしくな」と言ってくれた。
 本当は、この子と一緒に辞めてしまいたかった。わたし以外の二人はバレーボールが好きで、稲荷崎が強豪校だと知っていたからマネージャーになったと言っていた。けれど、わたしはバレーのルールも知らなければ特にマネージャーに憧れがあったわけでもない。何か部活には入りたい、でも運動部も文化部も嫌だ。そんなわがままな気持ちで部活を見て回ったら、ちょうど運動部と文化部の中間に思えたから、バレー部のマネージャーになっただけ。二人も仲間がいるなら大丈夫だろうと思っていたのも、入部した一つの理由だったのに。二人とも辞めてしまって一人だけになってしまった。ルールもまだ全部は理解できていない、仕事もそんなにできるわけじゃない。そんなわたし一人。
 かといって、この子が辞めるからわたしも辞めます、なんていうのは無責任だと思った。やってみてどうしてもだめだったら辞めればいい。まずはできるだけのことをしてみよう。そう思えたのは、稲荷崎高校男子バレー部が、とても、良いチームだからだと思う。



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「あれっ、さんタオルないでー!」

 マネージャーがわたしだけになって一週間。練習試合を控えたバレー部は休憩に入っている。二年の先輩にそう声をかけられて「アッ」と思わず声が出た。「すみません!」と謝りながら体育館を出て、朝に干したタオルを取りに行った。だめだ、わたしは頭の中で仕事を確認するのは向いていない。この一週間でタオルの出し忘れ、ドリンクの補充忘れ、道具箱のしまい忘れのミスがあった。全部「後でやろう」と思って忘れっぱなしになっていたのだ。覚えられないことを認めざるを得ない。辞めていった他の二人はこんなミスはしなかった。わたし一人になった途端に頻発している。わたしは能力が低いのだ。それをしっかり自覚した。
 大慌てでタオルを出してから、今度はドリンクの補充。大丈夫、忘れていない。そう思っていると「大丈夫か?」と後ろから声をかけられた。北くんだ。真面目で何にでも真摯に取り組む人で、正直ちょっと怖い。慌てて「大丈夫!」と返事をした。

「なんか手伝うことあるか? 一年に振り分けてくれたら何でもするで」
「あ、ううん、大丈夫、ほんまに。マネージャーの仕事やで気にせんといて。ごめんな」

 苦笑い。こいつ大丈夫かよ、って思ってるんだろうな。北くんにまた謝ってから、ダッシュで体育館から出る。ドリンクの準備はもうできている。大丈夫。もうミスしない。そう自分に言い聞かせた。
 ドリンクを補充し終わったらダッシュで更衣室に向かった。鞄の中を探って、ペンケースからボールペンを一本取り出す。それから、鞄の中にいつも入れている小さいメモ帳を取り出した。覚えられないなら書けばいい。ミスしたこともメモして忘れないようにすれば同じミスはしなくなるはず。そう思って、メモとボールペンをポケットに入れてまた体育館へ戻った。
 わたしは、勉強も中途半端にしかできなくて、やりたいこととかどうしたいかとかそういうのも中途半端なんだ。だから、部活での仕事くらい、ちゃんとやらなくちゃ。ミスばっかりして迷惑をかけてちゃ、本当にいらないものだ。いなくても変わらないし、いないほうがいいと言われてしまうかもしれない。せっかく少しバレーのルールを覚えて面白さが分かってきたのだ。このまま好きになりたい。体育館に到着して、すぐにメモを開いた。タオルの出し忘れ、と書いてどうして忘れてしまったのかをメモする。そのあとに今日まだやっていない仕事を箇条書きで書いた。
 ポケットにメモとボールペンをしまって、今度は練習試合の準備をしなければ。椅子を持ってきて、道具箱を移動させて。頭の中でさっきメモしたことを思い出しながら走る。ミスしてしまってタイムロスがあるかもしれないから常に急ぐようにしている。そうすれば一年生の子が気付いて手伝ってくれた、なんてこともなくなる。マネージャーなんだからこれくらいちゃんとやらなきゃ。



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 また一週間が経った。ジャグタンクを洗いながら項垂れてしまう。ミスは減った、けど、まだ一日何か一つはミスをしている。今日も道具箱を持ってくるのを忘れていた。ちゃんとメモを逐一見るようにしていたのに、と思ったらそもそもメモに書き忘れていたのだ。情けない。気付いた赤木くんが持ってきてくれていたからよかったけど、本当に、情けない。
 たったの一週間でメモはほとんど使い切ってしまうくらいだった。どんだけミスするんだよ。自分にツッコミを入れる。あれも、これも、とやることをメモすると、メモを見ても見落としが出たりもした。今日も練習は無事に終わったけれど、わたしはとても気が重くて。やっぱり、向いていないのかな。そんなふうに思った。
 もう日課になった反省をしようとポケットに手を入れる。あれ、おかしいな。中にはボールペンしかなくて、小さなメモ帳だけがなくなっていた。どこかに落としたのだろうか。別にあのメモじゃなきゃいけないなんてことはないけど、これまでのミスや反省が書いてあるからできればそのまま使いたいのに。体育館かな。ジャグタンクを洗い終わったら探しに行こう。
 そう思っていると「」と静かに名前を呼ばれた。振り返ると北くんがいて「これ、のとちゃうか?」と探していたメモを差し出してくれた。

「あ! そう! ごめん、ありがとう」
「あんま無理せんでええで」

 ぴたりと体の動きが止まる。北くんの言葉の意味がいまいち分からなかった。無理とは。首を傾げてしまうと、北くんはわたしにメモを握らせてから、出しっぱなしになっている蛇口の水を止めてくれた。

「ごめん、誰のやろうと思うて、中見てしもうた」

 それ、とわたしのメモを指差す。中を見られる分には問題ない。マネージャーの仕事のことやミスをしたこととその理由くらいしか書いていない。まあ、ミスしすぎだろ、って思われるくらいにはノートが真っ黒になっているから恥ずかしいものではあるけど。
 無理。北くんから見て、わたしは無理をしているのだろうか。多少頑張っている自覚はあるけど無理というほどではない。見苦しいとかそういう意味なんだろうか。あんまり北くんと話したことがないからいまいち言葉のニュアンスを受け止めきれない。

「そない思い詰めへんでも、はようやっとると思うけどな」
「……わたし、仕事できへんから、あんまうまいことできへんくて、ごめんな」
「は?」

 北くんの目がまん丸になった。じっとわたしを見て、小さく首を傾げる。その反応の意味がよく分からなくてわたしも首を傾げてしまった。

「いや、は十分すぎるほど仕事できとると思うで」
「え、どこがやねん……ミスばっかやし、迷惑しかかけてへんやん」
「そんなことないやろ。三人おったときと比べても、俺ら一年、今なんも仕事のこと気にせんと練習させてもうとるし」

 北くんは淡々と、三人だったときに他の二人は一年生に仕事のヘルプをよく出してきていた、と言った。それを悪いことだとかやめてほしいだとかなんて思わなかった、とも付け足して。マネージャーがわたし一人になった途端、そういうのが一切なくなったから一年生みんなが少し気にしていたということも教えてくれた。

、いっつもバタバタしとって、思い詰めたような顔しとるから気にしとったんやけど……必死にやっとるのがよう分かったで、あんま水差すんも悪いなって思うとったんや」

 びっくりした。そんなふうに見られているなんて夢にも思わなかったから。せいぜい二人に比べて仕事ができないから焦っているのだろう、というふうに見られているくらいだと思っていた。北くんはわたしが洗い終わったジャグタンクに手を伸ばして、中の水を捨ててくれた。しっかり水気を切ってから、わたしが用意したタオルで拭いてくれる。ぼけっとその様子を見ていたわたしに視線を戻すと、穏やかに笑った。

「頑張ってくれるんは有難いけど、少しくらい頼ってくれたほうが安心するわ」

 そう言って、ジャグタンクを持って歩いて行ってしまう。部室に持って行ってくれるようだった。北くんの背中に「ごめん、ありがとう」と声をかける。振り返った北くんは笑って「謝られることでもお礼言われることでもないやろ」と言ってから、そのまま歩いて行った。
 ミスしたこと、ミスをした理由、やらなくちゃいけない仕事。そんなことがびっちり書かれたメモ帳に視線を落とす。真っ黒になっている。どこにも余白というか、余裕がないそれを見て、いつの間にか自分を追い詰めていたのだと気が付いた。ミスをしたら慌ててしまって余計にミスをした。やり残したことがあると焦ってしまって余計にミスをした。そうか、ミスをしたら誰かに頼って手伝ってもらえばよかったのか。やり残したことがあったら誰かに手伝ってもらえばよかったのか。マネージャーとして、それはいいのかな、とは思うけれど。パンクしそうになったらそうやって誰かに助けてもらえばよかったんだ。
 なんだかちょっとだけ、肩が軽くなった。一人で全部ミスなくやらなきゃって思っていた。でも、そんなことなかったんだなあ。もう見えなくなった北くんの背中。北くんは優しい人だ。わたしのことをちゃんと見ていてくれたのだから。そう思ったら、嬉しかった。


抱きしめられない君へ はつ恋 真っ黒なメモ帳

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