北の家に転がり込んで二週間が経った。たまに遊びに来る北のおじいさんとおばあさんともすっかり打ち解けて、会うたびお菓子をもらってしまったり北の子どもの頃の写真を見せてもらったりして、有難くも楽しく毎日を過ごせている。できることは少ないのだけど、居候している身なのでできることは何でもしたい。「何もせんと、ここにおってくれるだけでええよ」と言う北を押し切ってそう主張したら、大事な田んぼの簡単な作業を手伝わせてもらえるようになった。それでもまだまだ甘やかされているので情けなくなるけれど。
 本当にこのままでいいのかな。一日に一度はそう思う。このまま北に甘えっぱなしで、仕事もせずにいるのはちょっと申し訳ない。わたしの家族に挨拶をしてくれたときに北は、わたしのことを見ようともしない母親に対してでさえまっすぐな視線を向けてくれた。真摯なその言動に父と姉はあとでこっそり「めっちゃええ人やん」と驚いていた。母は、どう思ったのか知らない、けど。でもたぶん、悪い印象は持っていないと思う。母は真面目な人が好きだから。わたしとの仲が悪くさえなければ北のことをとても気に入っただろうなあ。そう、少し切なくなった。
 馬鹿みたいに働き続けたのでそれなりの貯金はある。でもさすがに無職はなあ。父にも「いくら北くんがええ人でも甘えっぱなしはあかん」と言われたし、やっぱり職探しはしなきゃ。そんなふうに思いながらスマホをいじる。転職サイトをあちこち見ているのだけど、一度就職に失敗してしまった自覚がある今、自分の目に自信がなくて。就職相談所に行こうかな、と小さくため息をこぼしてしまった。

「何しとんのや」
「わっ、びっくりした」
「ため息ついて。なんや、調子悪いんか」
「ちゃうちゃう、大丈夫やで」

 ぱっとスマホを隠す。北はお茶を淹れてくれたらしく、湯飲みをわたしの前に置いてくれた。家に帰っても働き者な北は、わたしが入る隙がないほどで。余計に情けなくなる。気が利かない人で申し訳ないなあ。まあ、北の家のものを勝手に触ることに躊躇いがあるというのもあるけれど。有難くお茶をいただきつつゆっくり息を吐いた。
 もし就職したとして、北の家から最寄りの駅とバス停は歩いてそこそこの距離にある。通勤するにはちょっと不便に思えてしまうくらいだ。北は飲み会に行く以外は基本的に車移動らしく、あまり公共交通機関を使わないそうだ。車を買うところからかなあ。でも、そうなると貯金があるとはいえ収入源を確保してからのほうが安心だし、やっぱり就職から、いやでも移動手段が。知らない間にウンウン頭を抱えていたらしい。突然わたしの顔を覗き込んだ北が「何悩んどんのや?」と首を傾げた。

「……あの、ですね」
「なんや、改まって」
「や、やっぱり、仕事探しは、しようかなあ、と、思うとって」
「仕事」
「う、うん……居候させてもらうんも申し訳ないのに、お金も何も入れへんのが、居心地悪いっちゅうか……」
「居候」

 なんか、単語でしか喋ってくれなくなったんだけど、北。まん丸な大きな目がわたしを捉えたまま瞬きさえしない。でも、本心を包み隠さず話したつもりだ。本当に心から助かっているし有難いとも思っているのだけど、何も返せていないから居心地が悪い。働かざる者食うべからず、というやつだ。北の手伝いをしているとは言っても本当に簡単なことだけだし、働いたうちに入らない。北からすればわたしがいないほうが作業が早く進むだろうし、家のことだって一人のほうが絶対気楽なはずだ。迷惑をかけるならせめてお金くらい、と北に言ったのだけど「いらん」と言われてしまって。未だに一円も受け取ってもらえていないのが現状だ。こんな厄介者のままでは、笑顔で迎えてくれた北のご家族に申し訳が立たない。ちゃんと自立せねば。そんな気持ちがじわじわと焦りに変わってしまっている。そんな自覚はあった。

が言うところの〝居候〟やなくなったら、多少は気が楽になるんか?」

 わたしの顔を覗き込んだまま北がそう言った。居候じゃなくなる。それはどういう意味だろうか。ぽけん、と北の顔をしばらく見つめてから、思い至る。一緒に暮らさないということだろうか。わたしがこの家から出て行ったほうが気が楽なら、と言ってくれているのかもしれない。やっぱり家探しもしなきゃなあ。そう思っていると、北が「ちゃうで」と苦笑いをこぼした。どうやら表情でわたしが何を考えているのか分かったらしかった。

「〝居候〟ってどういう意味か分かる?」
「え……家に住まわせてもらうってことやろ?」
「大体はそういう意味やな。つまりは他人の家に世話になるっちゅうことや」
「うん?」
「せやから他人やなくなったら〝居候〟やなくて〝同居〟になるやろ」
「えっと、どういう意味?」
「……まあ、そもそも俺はこの状況を〝居候〟やと思うたことないんやけどな」

 なんとなく、寂しげに笑われてしまった。北の顔をじっと見てしまう。なんでそんな顔をするのだろう。また何かいらないことをしてしまったのかな。そんなふうに不安に思っていると、北がまた笑った。

「家族になったら〝同居〟になるやろ。それやったらどうやって聞いとんのやけど」

 家族。北が言った言葉に思わず体が固まった。家族、とは。北はおかしそうにわたしを見て笑って「変な顔になっとんで」と言った。そりゃ、変な顔にもなる。どうしてそこまでして、良くしてくれるんだろう。五年も連絡さえしてこなかった相手に。こんな情けない人に。そんなふうに呆気に取られてしまう。さすがに、良い人すぎるのではないだろうか。悪い人に騙されたりしないかな。そんな心配をしてしまった。

「……」
「……無言はさすがに傷付くで」
「あっ、いや、ごめん!」

 ちょっと、言葉が、見つからなかった。もごもごとそう言い訳をすると北はけらけら笑って「なかなか難しいもんやなあ」と愉快そうに言った。難しいとは? 素直にそう聞いてみたら、小さく笑ったままわたしの顔をじっと見る。それから、ゆっくり手をこちらに近付けて、つん、とわたしの頬に指先だけで触れた。

「離れてかへんようにするんは難しいなあ、と思うただけや」
「……む、難しいんかな?」
「ははは。どの口が言うねん」

 突如飛び出した鋭い言葉にビクリと身体が震えた。全く、仰るとおりで。そんなふうに黙ってしまう。五年ぶり会った夜も「ちゃんと怒っとる」って言っていたし、まだその怒りはしっかり生きているのだろう。下手な発言をしてしまったかもしれない。今更そんな反省をしても遅いのだけど。
 北の手がそうっと伸びてきて、わたしの前髪をつまむ。めくるようにそれを持ち上げてからしばらくじっと瞳を覗き込んだ。ほんの少し口元が緩むだけの小さな微笑みを浮かべて前髪を離した。ぱさっと揺れた前髪に思わず瞬きをする。北はその瞬きさえも見逃さないほど、ただただわたしを見ていた。

「まあ、しばらくはゆっくりしたらええやん。ほんまに何も気にせんでええで」
「……そうは言われても気にするわ」
「もっと我が物顔してくれてええくらいやで、俺としては」

 それはちょっとハードルが高すぎる。そんなふうに苦笑いをこぼすと北が愉快そうに笑った。「じっくり悩んだらええわ」と言った言葉に、まあ、そこそこの怒りを感じてちょっとゾッとする。本当にちゃんと怒ってるんだなあ。どうすれば許してもらえるのだろうか。しばらくはそれに頭を悩ませそうだ。


抱きしめられない君へ 言葉の意味

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