目が覚めると部屋が薄暗かった。朝方なのか夜なのか分からないし、日付の感覚が曖昧だ。目を擦りながら体を起こす。少し肌寒い。ずるりと落ちた掛け布団を片手で肩にかけつつ辺りを見渡してみる。北がいない。いない、けどここは確実に北の家だ。着ているのも北が貸してくれたスウェットのまま。夢じゃなかった。そんなふうにほっとしてしまった。
 鏡を見なくても顔がひどいことになっているのが分かってしまう。あんなに泣いたのは久しぶりだった。むくんでいるだろうし目が真っ赤になっているに違いない。北に見られたくないな。そうぼんやり思ったけど、どうやら近くに北がいる気配はない。いないということは朝方ではないのだろう。北はたぶん田んぼの様子を見に行っているのか、家の中で何かをしているのかのどちらかのはずだ。こっそり部屋から出て洗面台を借りれば見つからないかな。そんなふうに、よろりと立ち上がる。体格差に加えてわたしが痩せてしまったせいなのか、ずるりとスウェットが肩から落ちてしまった。それを着直しながら戸を開けよう、と、して気が付いた。
 話し声がする。北の声と他の人の声。まだ寝ぼけているせいなのかはっきり聞こえない。お客さんが来ているのかも知れない。そうなるとわたしが急に出て行ったら変に思われるかも。そうっと戸から離れてそそくさと布団に戻る。どうしよう。心の中でぽつりと呟いた。
 電気を付けると気付かれるので薄暗いまま手探りでスマホを探す。鞄の近くに置かれているスマホを手に取って画面をつけると、いくつかの通知と一緒に午後九時と表示された。つまりは夜。とんでもなく長い時間寝ていたのだとがっくり項垂れた。だらしがないと思われたかな。恥ずかしい。顔を手で冷やしつつ、再度どうしようか考えてしまう。着替え、も居間に置かれたスーツケースの中。化粧品は洗面台。寝室らしいこの部屋から出られる戸は一つ。戸の向こう側はすぐに居間で、その居間を通らなくてはどの部屋にも行けない。困った。どう足掻いても北とお客さんに鉢合わせてしまう。髪もぼさぼさだし顔もひどいし、どうしよう。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




――二時間前、午後七時

「……えらい、よう寝とんな」

 ぽつりと呟いたそれに反応はない。顔にかかった髪をそっと退けると、ほんの少しだけ口元が反応したのが見えた。
 朝、いつもの時間に起きるとはまだぐっすり眠っていた。疲れているだろうし起こすのも可哀想で。居間の机に簡単な朝食と書き置きを残して、名残惜しい気持ちのまま田んぼへ向かった。昼前に一度家に帰ろう。そのころなら起きているはずだ。そんなふうに思いながら。
 昼、一度家に戻って居間に入ると驚いた。に置いていった朝食も書き置きもそのまま残っていたのだ。まさか。そう思ってそうっと寝室の戸を開けたら、案の定は朝と体勢さえも変えずにぐっすり寝ていた。確かに目の下の隈がひどかったが、まさか昼まで寝るとは。そうっと近寄って一応声をかけてみた。はすうすう寝息を立てるだけで反応がない。ちょっと、参った。
 話を聞いてひどく驚いたし、正直腹が立った。が歩んだ俺の知らない期間。無理をして体を壊してこんなになるまでボロボロになって。どうしてずっと連絡をくれなかったのか。約束したのに。そう言いたかったけど、言えなかった。言ったらはもっと申し訳なさそうな顔をしただろうから。やっとに会えたのだから、そういうのは後回しにしてしまいたかった。とにかく、昨日は目の前にがいることに胸がいっぱいで、それ以上はどうしようもなかったのだ。
 で、今。夜の七時。はまだ寝ている。さすがに寝過ぎなのではないかと思って肩を軽く揺さぶってみたけど起きない。朝も昼も何も食べていないし飲んでもいない。ちょっと心配になって「、そろそろ起きいや」と声をかける。肩を揺さぶり、頬を突き。いろいろやってみたけど無反応。まあ、寝たいのなら仕方がない。少しだけ笑いをこぼして、そっと掛け布団を直してやった。
 ああ、そういえば、と思い出す。まだアランたちに連絡を入れていなかった。居間の机に置きっぱなしにしてあるスマホを取りに立ち上がる。寝室の戸を静かに閉めてスマホを手に取る。操作してバレー部のグループトークをタップ。さて、なんと送ろうか。少し考えてからそそくさと玄関へ向かった。玄関先にしゃがみ込んで写真を一枚。の靴。寝顔を送るのはなんとなく嫌だったから、本当にいるという証明にそれを選んだ。
 写真を送ってから文章を打っていると、文字を打つのが遅いから先回りされてしまった。アランから「誤爆か?」と届いたあとに角名から「え、もしかして?」とすぐに届く。待て、まだ打っとる途中や。そう笑いつつようやく打ち終えた。「、ちゃんと帰ってきたで」というメッセージに次々返信がつく。そこはの写真やろとか、なんで靴やねんとか、今どうしとんのやとか。これ、見たら泣くやろうな。そう思ったらまた笑ってしまった。
 数人から「急やけど今から行く」と来たので了承しておいた。はまだ寝ているけど、まあ、五年も待たされたのだ。ちょっと意地悪をしても怒らないだろう。そんなふうに思いながら立ち上がる。もうそのうち起きるだろうし何か消化に良い物でも用意しておくか。今から来る人たちの分も含めて。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




――一時間半前、午後七時半

 アラン、大耳、赤木、治、銀島が来たが、驚くことにはまだ寝ていた。居間に腰を下ろした赤木が「あれ、は?」と不思議そうに辺りを見渡す。治と銀島がその隣で何やらスマホを準備しているのを横目に見つつ「いや、実は」と俺が恥ずかしくなった。

「まだ寝とんねん。全然起きへんからどないしようかと思うとって」
「いつから寝とんの?」
「昨日の夜からやな」
「丸一日寝とるやんけ!」

 大きな声を出したアランの口を大耳が手で塞いだ「隣、寝室やぞ」と言うとアランが「アッすまん」と小声で言う。いや、むしろ起こしてくれたほうが助かるのだけど。苦笑いをこぼしていると「えっさんおらんやないですか!」と侑の声がした。驚いて振り返ると治のスマホに侑が映っている。どうやらビデオ通話を繋いでいたらしい。隣に設置された銀島のスマホには角名が映っていた。角名は「起きてるんじゃないですか? 声が聞こえて出にくいとかありえません?」と笑いながら言う。なるほど。確かに。お茶を出してから「見てくる」と言ってから寝室に入った。けれど、やはりしっかり寝ている。寝返りも打たずにぐっすりだ。本当に心配になってきた。
 寝室の戸を静かに閉めて首を横に振ると、全員が声を抑えつつ大笑いした。「どんだけ寝んねん」と赤木が言うので同意しておく、正直あそこまで眠れるのは才能だ。まあ、それだけ身も心もボロボロだったのかも、しれないが。
 まあもし起きてこなかったら今日は勘弁してやる、とアランが言うと他の人たちも笑いつつ同意した。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




――現在

 どうしよう、お手洗いに行きたくなってきた。昨日の夜から何も飲んでいないのに。居間からまだ話し声が聞こえているし、どうやら何人かいる。小声すぎて全然聞こえないけど。どうしよう。出て行ったら完全に北が変な女を匿っている、みたいになりかねない。それは避けたい、避けたい、けど、生理現象には勝てない。自分の鞄にかろうじて入れてあった小さな鏡を見ながら髪の毛を直した。服はもう仕方がない、ずり落ちないように気を付けながら行くしかない。顔も諦める、というか諦めるしかないのだけど。
 そうっと戸に近付く。開けようかどうしようかやっぱり迷うけど本当に仕方ない。あとで北には謝るとして今はお手洗いに行きたい。あと、急激にお腹が空いてきてしまった。頭も覚醒してきてじわじわと食欲も目を覚ましている。我ながら恥ずかしい。丸一日寝て起きたかと思えばご飯かい、とツッコミが聞こえてきそうだった。
 意を決して、戸に手をかけた。音を立てないようにそっと力を入れる。するすると少し開いた戸の向こう側。すぐに北の背中が見えた、と、同時に「あっ?!」と機械から聞こえてくるような侑の声が響いた。

さんや!!!』

 その声に反応して全員の目がこちらを向いた。びっくりして固まってからようやく、バレー部のみんなだと気が付く。で、すぐに戸を閉めた。

「なんでやねん?! なに閉めとんねん! 挨拶もなしかい!!」
、ちょおっとお話ししようや。ほれ、おいしいおじやもあるで」
「待て待て、起きたばっかりなんやで手加減したれや。、急ですまんな」

 大笑いする懐かしい笑い声たちに、うっかり、涙がちょっと出た。心から安心したというか。北に会えただけで十分安心したけど、余計に。手で涙を拭ってからまたそうっと戸を開ける。どんな顔をしてれば良いんだろう。考えながら作った表情はたぶん情けないものだったと思う。
 そこから怒濤の説教タイムだった。アラン主導に連絡くらいはしろ、既読は付けろ、安否確認くらい取らせろ、とものすごい勢いで怒られた。思わず正座をして大人しく聞いている。それから最後に、北に心配をかけるな、と苦笑いをしながら言われた。

「まあ、とにかく生きとるんやったらええわ。ほっとしたわ」
「ちょっと心配させすぎやけどな」
「ほんまにな」

 治と銀島、ビデオ通話の侑と角名もそう笑ってくれた。良い人たちに囲まれていたんだな、わたしは。そんなふうに再確認してしまった。
 あ、と思い出して「あの、お手洗いに行かせてください」とおずおずと言えば「はよ行ってこいや!」とまた大笑いされる。そそくさと立ち上がってから北にも「めっちゃ寝てしもうた、ごめん」と照れつつ謝る。「ほんまにな」と北も笑うものだから、余計に恥ずかしくなった。
 洗面所にも寄って顔を洗わせてもらい、髪もまた整えた。服は居間にいかないとないしもう諦めることにする。そそくさとまた居間に戻ると北と大耳の間に座布団が用意されていた。あとおじやも。お腹が空いているだろうと読まれている。全くその通りです。恥ずかしかったけど、着席してから手を合わせていただくことにした。
 わたしの話はそれなりに北がしてくれていたようだったので、みんなの近況を教えてもらった。治がおにぎり屋さんをやっていることにも驚いたし、大耳が堅い職に就いているのも学生時代の予想通りで笑った。みんな、大人になっている。でも何も変わらない。それが懐かしくもありとても新鮮でもあった。

はこれからどないするんや? 仕事辞めて戻ってきたっちゅうことやろ?」
「あー、うん……とりあえず家探しと転職活動って感じやな」
「え」

 北が珍しく驚いた声をあげたので思わず顔を見てしまう。まん丸な目でわたしをじっと見て驚いている。何に驚いているのだろう。わたしがそんなふうに見返していると、他のみんなはなぜだか笑っていた。

「何?」
「いや、てっきりここに住んでくれるんかと思うとったんやけど」
「……えっ?!」

 おじやがぽとっと器の中に落ちてしまう。いや、普通に考えて、さすがにそれは。五年ぶりにひょっこり帰ってきて家に上がり込んでいるだけで申し訳なさでいっぱいだというのに。そんなわたしを余所にアランが「それでええやん」と笑う。いや。大耳も「一件落着やな」と言う。いやいや。赤木も「で、今度の飲み会は来られるやろ?」とスルーして話題を変えた。いやいやいや。何を普通に流そうとしているの。そうわたしが口を開こうとしたのに。

「奥に何もない部屋一個あるで、好きにしてええでな」
「えっ」
「カーテンついてへんから買わなあかんわ。明日昼見に行こか」
「え、あ、はい」
「家具もなんもあらへんわ」

 まずい、北が買い物の計画を立て始めた。このままでは流されて本当にお世話になることになってしまう。北のご両親やよく話に聞くおじいさんとおばあさんにも会ったことがないのに。順番が、ちょっと。慌てているわたしの隣で大耳が明らかに笑いを堪えている。絶対この状況を面白がっている。画面に映っている二人も、治と銀島も。笑ってるの見えてるからね。内心そう思いつつ言えない。五年も消息不明だった身だから文句が言えなくて困る。ちゃんと連絡取っておけばこんなことには。今更そんな後悔をしても遅いのだけど。
 買う物を次々挙げていた北が、突然俯いて吹き出した。びっくりしていると、わたしの顔を見て笑っている。「めっちゃ焦るやん」と笑いを堪えている。大耳たちと同じでわたしをからかっていたのだと察した。

「せやけど五年も待たされたんやで、これくらいのわがままは聞いてもらうで」

 「なあ?」と北が大耳に同意を求めた。「せやな」と当然のように返答があり、満場一致で決定されてしまった。

「土曜、実家帰るやろ」
「……そのつもりやけど」
「俺も行くわ」
「えっ」
「そのあと俺んちやな」

 トントン拍子すぎるのでは。わたしが固まっている間に両親への挨拶の仕方とかいろいろみんなで話し合い始めたし、何が起こっているのかよく、分からない。地元を出て行く要因の実家。母親とはもう何年口を利いていないか分からない。父親と姉ともわたしがあんな状態だったと知られるまでは連絡を取っていなかったから、なんとなく気まずくてうまく話せないままだ。そんな実家に行くだけで不安なのに北が来るとなると、胃が痛い。なんだかんだ男だけは捕まえてたのかって思われないだろうか。他の人にまで迷惑をかけて情けないと思われそうで、かなり、怖い。わたしのせいで北が悪く思われるかも知れないことも怖い。しかも北の家にも行くのならなおさら。こんなに立派になった長男が連れてきたのがわたしなんかで、がっかりされないだろうか。北は本当にこれでいいのかな。

「どうとでもなるわ、なんでも」
「え」
「せやからそない深刻な顔せんでええやろ。一緒に死のうっちゅうわけやないんやし」

 けらけらと笑う。たしかに、心中と比べたら何でもないこと、だけど。比べる対象がちょっと異質すぎる。あまりに大雑把すぎるその考え方に戸惑っているのに、「な?」と笑顔を向けられたら思わず首を縦に振っていた。
 なんでもどうとでもなる。北が言った言葉を頭の中で繰り返してみる。不思議だ。自分や他の人が同じ言葉を言っても、いまいち納得できないのに。北が言うとなぜだか納得してしまう。そっか、どうとでも、なるか。そんなふうにじわじわ思い始めた自分に少し驚く。学生時代にはどうとでもなるなんて思えなかったのに、たった一言で。北という人が自分にとってどれだけ特別なのかをより思い知る一言だったかもしれない。許されるなら、これからは北と生きていきたいな。そんなふうに素直に思った夜だった。


抱きしめられない君へ 後日談

back