※本編の最終話よりさらにちょっと経った頃の二人のお話です。
※本編より赤葦がはっちゃけてます。




 軽快なアメリカンポップスを聴きながら、トンチキなサングラスをかけ直し、紙コップに入ったコーラをカラフルなストローで飲む。なんとクールかつファンタスティックなバケーションだろうか。

「横文字並べたらいいってもんじゃないんだよ、ホームズ先生」
「えー雰囲気出たでしょ?」
「雰囲気はもうとっくに満点じゃない?」

 真っ赤なオープンカーをレンタルしてきた赤葦は、わたしと同じトンチキなサングラスのずれを直しつつ「俺なんかコンタクトデビューしちゃったんだけど。花丸でしょ」とけらけら笑った。アロハシャツにカラフルなレイをつけ、陽気にハンドルを操作する赤葦を見てわたしも笑う。こんな馬鹿な休日に付き合ってくれるのは世界で赤葦だった一人に違いない。
 仕事で失敗してしまって落ち込んでいた。そこまで落ち込むほどのものじゃないと上司はフォローしてくれたけれど、そのときは小さなマイナスがたくさん積み重なってしまっていて、ずどんと最底辺まで突き落とされてしまったのだ。パソコンの画面を見つめつつも頭の中では失敗のことがぐるぐる回り、職場を出てから失敗のことがぐるぐる回り続けた。
 これは何か楽しいことで吹っ飛ばすしかない。そう思ってひとまず月曜日に有休を申請した。その辺りはそこまで厳しい会社ではない。あっさり承認されたそれにガッツポーズ。ひとまず三連休を確保。社会人は精神状態の自己管理も怠ってはならない。これは怠惰ではなく責任感から取った有休だ。そう自分を励ましながら一緒の業務の人にだけ月曜日にお休みをいただく旨の連絡をしておいた。
 それから赤葦に「週末の予定を連絡されたし」と送った。赤葦は賢いからそう送れば勘ぐってくれるはず。なんてったって名探偵だからだ。いや、ホームズはわたしだったか。訂正、なんてったって優秀な助手だからだ。ワトスンくん改め赤葦京治は。
 思った通り赤葦からすぐに着信があって、大した内容じゃない仕事での愚痴をしこたま話した。嫌だったことも全部話して「とにかく今は現実を忘れ去りたいです」と言えば、赤葦は「任せろ」とだけ言ってひとまず電話を切った。
 で、今日。事前に赤葦から「明日の日本はアメリカです」とだけ連絡があったので、手持ちのアメリカっぽいものを一先ず集めた。前に赤葦と行った旅行で買ったアロハシャツとトンチキなサングラス。陽気なアメリカンポップスのCDとそれっぽい雰囲気に仕上げた化粧。この身支度ですでに、わたしの頭から嫌だったことはすべて消え去っていた。

「なんでオープンカー? しかも真っ赤って!」
「今ここはアメリカであると見せつけたかった。 あと、俺の名前は?」
「〝赤〟葦京治! 最高かよ! ワトスンくん!」

 ノリノリで音楽に乗りつつも一つだけ気になっていることがあった。

「めちゃくちゃ都内走ってない?」
「ごめん、雰囲気ぶち壊すこと言うけど、どうしても済ませたい用事があるから丸の内に向かってます」
「めちゃくちゃオフィス街かよ」
「ニューヨークだと思って」
「無茶言うなよワトスンくん。めちゃくちゃ現実だわ」

 赤葦曰く「本当に一瞬で済む用事だから」とのことだけど、問題はこの浮かれポンチすぎる恰好で都内を疾走していることである。道理でさっきから近くを走る車の人に見られるわけだ。めちゃくちゃに浮きまくっているのだから当然のことだったというわけだ。
 なんでも高校時代の先輩に渡すものがあるのだという。今度バレー部のとある先輩の結婚式があるそうで、赤葦が持っているカメラやスマホのデータを根こそぎくれと頼まれたそうだ。データで送るにしては膨大な量だし、ちょうど赤葦もお祝いを渡したいと思っていたから直接全部一緒に渡したいとのことだった。

「今から会う先輩、ほぼ毎週休日出勤してるらしくてさ。今日もこの時間に丸の内になら来られるって言われたから仕方なく」
「そりゃ丸の内まで行ってあげてください。可哀想すぎる」

 会社近くの一本入った道のところで待ち合わせなのだという。こんな浮かれポンチな後輩がやってきたらびっくりするんじゃないだろうか。若干不安に思っていると赤葦が「ここだ」と言って右折した。少し走ってから「あ、いた」と言う。前方を見てみると、ちょうど車が停まっても邪魔にならないスペースがあるところにスーツを着た長身の男性がコーヒーを飲みつつ立っている。片手に持っているスマホに視線を落としているのでまだこちらには気付いていない様子だった。

「ボクトさん?」
「いや、あの人は木葉さん」
「コノハさん。うーん、覚えてないなあ」
「器用貧乏、彼女なし、リアクション芸人の三点だけ押さえとけば大丈夫」

 赤葦が車を端へ寄せつつコノハさんの真ん前に車を停めた。ぎょっとした様子で顔を上げたコノハさんが赤葦を見るなり、飲んでいたコーヒーを盛大にぶちまける。大いに咽せまくってから「おまっ、え、何?!」とナイスリアクションを見せてくれた。

「木葉さん、お疲れ様です。これ例のブツです」
「やばいものみたいに渡してくんな。え、何? ここアメリカだっけ?」
「大正解です」
「嘘つけしっかり丸の内だわ」

 コノハさんが赤葦から〝例のブツ〟を受け取りつつ「マジで何? 休日の赤葦京治こんなんだっけ?」と恐ろしく困惑している。赤葦はサングラスを片手で外しつつ「大体こんな感じですね」としれっと嘘を吐いた。
 大混乱のままコノハさんがちらりとわたしを見た。こちらも超アメリカンスタイルで失礼します。軽く頭を下げると「え、彼女さん?」と恐る恐る赤葦に聞く。

「そうです。彼女です」
「めちゃくちゃ誇らしげに言うじゃん……」
「ちなみに梟谷卒業生です。俺の同輩ですよ」
「えっ、そうなの? 俺も一つ上だけど梟谷卒です。バレー部だった木葉秋紀です」
です。失礼かもですが赤葦から器用貧乏、彼女なし、リアクション芸人だと聞いています」
「おい赤葦お前ふざけんなよ」
「簡潔に説明したかったので」
「俺の大部分がその三点みたいな言い方やめてください後輩クン」

 木葉さんは大変テンポのいい会話をする人で、数分間そこでお話しさせてもらった。第三者から見ればおかしなアメリカンオープンカーに絡まれているサラリーマンという状況だったが、木葉さんはそんなことなど構わず楽しくお話ししてくれた。良い人だ。ちょっと危機感が足りない気がするけれど。
 赤葦が腕時計を見た。「そういうわけでブツは渡しましたので。これからニューヨークでホームパーティーなんで失礼します」とまたしれっと嘘を吐いてアクセルを踏む。木葉さんが「だからブツって言うな! あとここ丸の内だって言ってんだろ!」と百点満点のツッコミを入れているのを聞きつつその場を去った。

「ねえ、ちょっとやばい、木葉さん最高じゃん。今度ホームパーティーに招待したい」
「あーもうやだやだ。こうなる気がしたから木葉さんと話させたくなかったんだよホームズ先生」
「えー何が?」
「かなり好きなタイプでしょ。絶対気に入ると思ったもん。木葉さんのこと」
「おやおや拗ねているのかね? 口調がかわいらしくなっておるぞ、ワトスンくんや」
「拗ねてる。全力で機嫌取って」
「嫌だ、と言ったら?」
「ラップバトルがはじまる」
「なんでやねん」

 人生でただの一度もやったことがないラップバトルを繰り広げつつ、オープンカーはご機嫌に都内を疾走している。相変わらず近くの車の人にガン見されているのをひしひしと感じつつも、ラップバトルに勤しんでいるわたしたちには関係がなかった。
 赤葦はカーナビに目的地を設定していない。けれど、どこへ行くかはすでに決めてあるらしい。迷うことなく高速道路に乗り、迷うことなくオープンカーを走らせ続けている。どこに行くんだろう。赤葦となら本当にニューヨークまで行けちゃいそうだ。ご機嫌にそんなことを考えていると、赤葦が横目でちらりとこっちを見たのが分かった。「なに?」と聞いてみる。赤葦は前をちゃんと見たまま「かわいいなと思っただけ」とご機嫌に言った。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




「ワトスンくん。ここは?」
「ニューヨークの中心街」
「うん、どう見ても箱根だね」

 意気揚々と降り立ったそこは、硫黄の香り、という本来無臭であるにも関わらずなぜだかよく使われる表現そのままの香りが立ちこめている。所謂、温泉街だった。

「ここで重大なお知らせがあります」
「なんでしょうか」
「なんと」
「はい」
「赤葦京治、月曜日に有給休暇を取りました」
「……嘘?! 本当に?! わたしも!」

 すごい偶然だね、と喜んでいるわたしに赤葦が「だろうと思った」と笑って言う。落ち込んだときのわたしがどんな行動を取るのか把握されている。きっと仕事が忙しくて本来は有休なんて取っていられないだろうに、わたしに合わせてくれたのだ。なんだか、とても、愛されているなあ、なんて。
 さすがに温泉街にアメリカンなサングラスは風情がないのでバッグにしまっておく。それでもあまりにもアメリカンスタイルすぎるわたしたちは浮いていてちょっとだけ恥ずかしい。赤葦は背が高いから余計に目立っているし、外国人観光客からも見られているのが大変分かりやすい反応をされてしまう。若気の至りってことで。お互いそう笑いながら堂々と歩いた。
 赤葦についていっているだけなので、一応日程を聞いてみた。なんと旅館に二泊で予約を入れてくれているらしい。そう聞いて嬉しかったのだけど、まさか泊まりになるとは思わず何の用意もしていない。着替えも化粧品もない。どこかで調達できる場所はあるだろうか。そう考えていると赤葦が「着替えと要りそうなものは持ってきたけど、足りないのがあったら教えて」と持っている鞄を指して言った。赤葦にしては大きめの鞄だと思っていたけど、まさかそんなところまで面倒を見てくれているとは。赤葦の家には多少の着替えや化粧品を置いている。それをたぶん持ってきてくれたのだろう。さすがは赤葦京治。抜かりなさすぎて笑ってしまった。
 ついた宿はとても趣のあるところで、入るなり丁重に迎えられてしまってとても恐縮した。二人揃って大変トンチキな恰好をしているにも関わらず一切それに触れぬまま、とてもにこやかに接客されてしまい冷や汗が止まらなかった。
 部屋に案内してもらってからは、二人で一旦腰を下ろして一息つく。当たり前に畳な上、床の間まである和風の部屋に似合わないアメリカン赤葦に笑っていると、赤葦も同じようにわたしを見て笑っていた。お互い笑いが止まらないまま荷解きをしていく。なんでわたしたちって普段こんなトンチキなことなんかしないのに、二人になった途端振り切っちゃうんだろうね。そう言うわたしに赤葦が「運命だからかな」なんて答えになっていないロマンチックな返しをしてくれた。
 赤葦が持ってきてくれた着替えや化粧品は十分なもので、手持ちの化粧直しに使うものも入れれば大丈夫そうだった。準備がいい助手を持つと助かります、とお礼を言うと赤葦は「そこは彼氏にしてください」と軽くクレームを入れられた。いつまでも助手扱いでは不満らしい。笑いつつ「失礼しました、彼氏さん」と返せば満足そうにしていた。
 荷物を端に寄せてから部屋を探索。広めの部屋は急遽予約を取ったからグレードの高い部屋しか空いていなかったそうだ。わたしもいくらか出すよ、と言えば赤葦は「気が向いたらね」とはぐらかした。さすがにわたしも社会人だからそこは黙っていられない。絶対にねじ込んでやろうと意気込みつつその場は引いておくことにした。
 温泉街なこともあって立派な露天風呂もあるようだけど、なんと部屋に内風呂までついていた。これは嬉しい。知らない人と一緒に入るのってなんとなく落ち着かないし、せっかくいいところなんだからゆっくり入りたいと思っていたのだ。朝も昼も夜も入り放題だ。そう喜んでいると赤葦が「でしょ」と得意げに言った。

「先に言っておくけど」
「なに?」
「一緒に入るから」
「え」
「絶対一緒に入るから」
「二回言った」
「ちょっとすけべなこともするから」
「宣言した」

 すけべはともかく、一緒に入るのは、いいです。照れつつ返すと「よっしゃ」と赤葦が拳を握った。よっしゃ、って。変なの。赤葦って本当に面白い。一緒にいて飽きる日なんか来そうにない。ずっと変わらないのにずっと新鮮。不思議な人だなあ、なんて改めて思った。
 アメリカンスタイルがあまりにも目立ちすぎていたので、お互いいそいそと通常スタイルに着替えてから外へ出た。時間は十分にある。いろんなお店や観光地を見て回り、お腹がはち切れそうなほどおいしいものを食べた。わたしの頭からはすっかり仕事のことは消え去り、まるで赤葦と箱根に来るために有休を取ったかのような錯覚にさえ陥る。赤葦はすごい。いつだってわたしのマイナスをプラスに変えてくれる。わたしもそんなふうにしてあげられているのだろうか。頑張らなきゃ。そう思うたび、赤葦の笑った顔がとてもとても好きになっていくばかりだ。
 こんな日々が永遠に続けばいいのにな。そんなありきたりなのに難しいことをこっそり願ってしまった。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




「ワトスンくん、突然だが相談なしで一つオプションを注文させてもらった」
「俺がトイレに行っている間に一体何が起こったの」
「熱燗」
「ほう」
「今から内風呂でいかがかね?」
「さすが希代の名探偵」

 有難く拝領します、と赤葦が頭を垂れる。一回お風呂で飲んでみたかったんだよね。一人だと何かあったときに恥ずかしいから赤葦とって決めてたんだ。そう言うと赤葦が「俺、赤葦でよかった」と意味不明なことを言った。
 さすがに脱いでいるところを見られるのは恥ずかしいので、わたしが先に入ってから赤葦が後に来ることになった。オプションで注文した熱燗はすでにセッティング済みだ。温泉の香りに紛れて芳しい香りが漂ってくる。湯船にゆっくり浸かって、きれいに晴れ渡っている夜空を見上げた。最高すぎる。やっぱり自然っていいなあ。赤葦とグランピングをしたときも本当によかった。またいつか二人で行きたいなあ。そんなことを考えていると「入るよ」と赤葦の声が聞こえてから扉が開いた。

「見て見て、月がきれいだよ!」
「それは狙って言ってるやつ? というかとりあえずこの状況すべてを焼き付けるまでちょっと時間がほしい」
「何言ってんの?」

 わたしの隣に入りつつ赤葦が悩ましげな顔をする。じっとわたしを見たり、夜空を見上げたり。何を考えているんだろうか。よく分からず赤葦の様子を窺っていると、赤葦がぽつりと「生きてきてよかった」と呟いた。そんな大袈裟な。これからいろんな温泉行こうね。そう笑うわたしに赤葦はちょっと黙ってから優しく笑うと「うん」と穏やかに言った。
 熱燗で乾杯して二人でぼけっと空を見上げる。ちらりと見た赤葦の横顔は今にも溶けそうなほどリラックスしているのが分かった。わたしが会社で嫌なことやストレスを抱えてくるのと同じように、赤葦だって嫌なことやストレスを抱えているはずなのだ。付き合う前はわたしには滅多にそういう姿を見せなかったけど、最近は疲れている姿も見せてくれるようになってきた。わたしはあまり気の利いたことができなくて、甘えられたら存分に甘やかすことくらいしかできない。もうちょっと何かしてあげられればなあ。

「ところでさん」
「え、はい。なんでしょうか」
「俺たち高校で友達になって、お互い社会人になって、恋人になってそこそこ経ったよね」
「はい。そうですが……?」
「そろそろ〝〟を卒業しませんか」
「…………そ、それは、つまり」
「うん」
「わたしも〝赤葦〟になるってこと?」

 赤葦がとんでもない勢いで熱燗を吹き出した。そこから咽せて盛大に咳をしはじめるもんだからびっくりしてしまう。赤葦の背中を摩りつつ「え、違う?」と顔を覗き込む。恥ずかしい。だってプロポーズかと思っちゃったんだもん。というか今のは誰だってそう思うじゃん! 背中を摩っていたけど途中から軽く叩いてしまう。赤葦は未だに咽せたまま息も絶え絶えに「ごめん、分かる、そうだよね」と笑いを堪えていた。
 赤葦の咳が治まり、笑いも治まった。何度か咳払いをした赤葦がちらりとわたしを見る。咽せすぎたせいでちょっと涙目になっている。なんかかわいい。じっと見つめ返していると、赤葦が「それはまたのお楽しみで」と照れくさそうに笑った。


「へ」
「って呼びたいんですが、いいでしょうか」

 高校生の頃から大親友だった。でも、ただの一度も下の名前で呼ばれたことはないし、赤葦のことを下の名前で呼んだこともなかった。はじめて赤葦の口から、赤葦の声で紡がれた自分の名前。もう何万回何千回と呼ばれてきたはずなのに、生まれてはじめて聞く美しい言葉のように思えてしまった。

「……じゃあわたしも京治って呼ぶ」
「……なんか変な感じするね」
「どうしよう、わたし癖で赤葦って呼んじゃいそう」
「気持ちが足りない。気合いでなんとかして」
「たまに出てくるその運動部根性やめて」

 お猪口をお風呂の縁に置いてからちょいちょいと手招きしてくる。隣に座っているのに手招きとは。そう思いながらわたしもお猪口を赤葦改め京治のものの隣にそっと置く。お風呂の水面を揺らして距離を縮めると、同じように水面を揺らしながら腕が伸びてきた。ぎゅっと抱きしめられると心地良いお湯がちょっとだけ熱くなったように感じた。
 しばらくそのままでいたけど、京治がそっと腕を緩めたので顔を上げる。京治はそれを分かっていたように触れるだけのキスをしてから、濡れた手でそっとわたしの頬を撫でた。優しく笑うと「背中向けて。せっかくきれいな夜空だし」と言う。なんだか空振りの気持ちのまま京治を背もたれにしてやると、後ろから抱きしめ直した京治が「なんか拗ねてる?」と不思議そうに言った。

「……何かされると思った」
「何かされたかったの? ごめんごめん」
「むかつく」
「今はそういうのじゃなくてこうしていたくなっただけ。ちゃんと後でします」
「ちゃんとってなんだ、ちゃんとって」

 腕の力を強めた京治が首元に顔を埋めてきた。ビールを飲んだあとみたいに「あ~~」と低い声で言ってから、ぽつりと「幸せ」とふにゃふにゃの声で呟く。それからぽつぽつと仕事行きたくない、でも今の仕事は割と好き、続きが気になる、人気にしたい、でもやっぱり仕事行きたくない、と取り留めもないことを言い始める。きっと会社ではもちろん、家族や友人の前でも言わないであろうどうにもならない言葉の数々。でも、それがとても嬉しかった。

「よしよし、京治は頑張ってるね、偉いね、良い子だね」
「やめてそれ、変な性癖に目覚めるから本当にやめてください」
「なでなで~よしよし~」
「あー目覚めた。扉が開いた。責任取って」
「取る取る。いくらでも取りますよ」

 ぐず、と泣いている声が聞こえてびっくりする。え、泣くほど? そうわたしが驚いているのが分かった京治がぎゅうっととんでもない力で抱きしめてきて「責任取って」としょぼくれた声で言った。わたしが思っていたより京治もストレスが溜まっていたらしい。そりゃそうだ、いつも激務なのだから。気付いてあげられなくてごめんね。後ろから抱きしめられているので抱きしめ返せない。その代わりに京治の手に自分の手を重ねた。

「突然だけどプレゼンしていい?」
「突然すぎる。何のプレゼン?」
が赤葦京治と同棲した際のメリットについて」
「へ?!」
「一つ目。料理はできないので任せちゃうかもしれないけど洗濯と掃除はやります」
「分担がしっかりしてる……!」
「二つ目。ご希望であれば会社までの送り迎えを永久にします。会社以外も可能です」
「て、手厚い……」
「三つ目。家賃は出さなくていいです」
「そんなことってある?」
「四つ目。どんな馬鹿騒ぎも全力でサポートします」
「馬鹿だとは思ってたんだ。わたしも思ってたけど」
「五つ目。ストレスが振り切った赤葦京治が会社で転げ回る事態を防げます」
「それは一大事すぎる」

 いかがでしょうか。首元に顔を埋めたまま京治がそう言う。同棲、かあ。もちろんいつかはしたいと思っていたし、今も結構な頻度で京治の家に行っているからしようと思えばできる。わたしの職場と京治の職場はとても遠いというわけではないし、生活のリズムは多少違うかもしれないけどたぶん問題にならないと思う。別に現実的に無理というわけではない。

「えー、この度のプレゼンテーション、大変分かりやすいものでした」
「ありがとうございます」
「結果ですが……今回は申し訳ありませんが、不採用ということで……」
「え、なんで? 生活費も出すよ?」
「めちゃくちゃ素に戻ったじゃん。乗ってきてよ。あとお金で解決しようとするな」

 断られるとは思っていなかったらしい。京治はきょとんとして「え、なんで? だめ?」とちょっと寂しそうに聞いてくる。それにちょっとばつが悪くなりながら「だって」と唇を尖らせてしまう。
 今でもこんな感じなのに一緒に住んだらもっと甘やかされそうで、さすがに自分の将来が心配になったのだ。社会の荒波に打ち勝ってこそ社会人。こんなふうに毎回毎回甘やかされてでろでろにされてしまっては荒波に立ち向かうことすらできなくなってしまう。それが唯一のデメリットだった。
 そう説明するわたしに京治がムッとした様子で「そんなことない」と子どもが駄々をこねるみたいに言う。わたしのことをぎゅっと抱きしめたままぐりぐりと頭をぶつけてくる。

「そんなことあるんだもん」
「ない。絶対にない。大丈夫」
「あるんだってば~」
「俺が会社で転げ回っていいの? 一階のフロアから四階のフロアまで転げ回るけどいいんだね?」
「逆にそれ赤葦京治的にいいの?」

 それにどんなに順調だった恋人同士でも、一緒に住んだら新鮮味がなくなってしまうとか、所帯じみた関係になってときめきがなくなるとか、不穏なことばかり聞くというのもある。それでお別れした友人カップルもいたほどだ。京治に飽きられたらわたしはもう二度と恋なんかできないと思う。だから慎重に、大切に進めたい。そう照れくさく笑いつつ言っておく。

「……俺はさ」
「うん?」
の瞬き一つも見逃したくない」
「へ? まばたき?」
「瞬きで揺れるまつげが落とす影さえも見逃したくないし、少しずつ伸びていく爪にいつ気付くのかも見逃したくない」
「け、京治さん? 気を確かに持って?」
「一秒たりとも俺がいない世界で流れてほしくない」

 なんて、詩的で情熱的な言葉だろうか。わたしにはとても紡げない言葉たちが頭に入ってきた瞬間、不思議と梟谷学園高校の制服を着ている〝赤葦〟のことを思い出した。

「……わたしのこと、相当大好きだね?」
「今更すぎて泣く」

 ほんの少しだけ月に雲がかかる。竹の葉が風に揺れる音と、名前も知らない鳥が鳴く声。それが止んでから京治がわたしから腕を離すと、がしっと力強く肩を掴んできた。くるりと体の向きを変えるようにしてくるのでそれに従って京治のほうへ向き直すと、若干べそをかいている京治がゆるく睨んできた。

「俺以外なんにもいらないって言って」
「……酔ってる?」
「だいぶ酔ってる」
「熱燗すぐ酔うタイプ?」
「一口目でもう酔ってた」
「勘弁してよワトスンくん」

 きゃっきゃっと笑ってやりながら京治の頭を両手でわしゃわしゃ撫でてやる。かわいいやつめ。酔っちゃうと本心が全部出ちゃうのはグランピングのときもそうだった。酔ってなきゃ付き合おうなんて〝赤葦〟なら絶対に言わなかったから。
 おーよしよし、と抱きしめてやる。遠慮なくわたしの胸元に顔をくっつけた京治に「大好きなおっぱいだよ~」とからかっておくと「俺が好きなのはであっておっぱいじゃない」と余計に泣かれた。なにそれ。なんか、すごく、嬉しいじゃん。

が社会の荒波に負けるとか正直どうでもいい」
「お、言ったな?」
「そんなのどうでもいい。俺がもう無理。しんどい。毎日顔見なきゃ仕事できない」
「それは大変だねえ」
「もう無理。仕事しんどい。やだ。泣きたい」
「泣いてんじゃん、現在進行形で」
いなきゃ無理」
「あらあらまあまあ」
「何もしなくていいからうちにいて」

 今後京治に熱燗を飲ませるときは十分注意しよう。ちょっとかわいすぎてときめき警報が出ている自分をぐっとなだめつつ、ひたすらに京治に頭を撫でた。たぶんあと一分も持たずに折れる。京治がわたしにそうであるように、わたしも京治には甘いのだ。ここ数か月でひしひしと自覚したそれになんだか情けなくなりはしたけれど、素直に頼られることと求められることへの喜びが勝っていた。


降下する海底 呼吸する魚

back