※本編より過去のお話です。




 高校二年の春。わたしは少しそわそわして自分の席に座っている。教室にはまばらにクラスメイトがいるけれど、席が遠い上にすでにグループができている人ばかり。わたしの席付近の人はまだ誰も来ていなくて、今のところ誰とも会話ができていない状態だ。
 早く前後左右どこかの人が来ないだろうか。いい人だったらいいな。そんなことを考えていると、新たにクラスメイトが一人教室に入ってきた。見たことがない人。まあ、そもそも同じ中学だった人はほとんど別の高校に行っているし、一年で同じクラスだった仲良しの子はみんなクラスが離れてしまった。だから、なかなか知った顔はいないのは仕方ない。問題はあの人がわたしの近くに来るかどうかだ。
 黒板に貼り出されている座席表を見たその人は背が高い男の子だ。梟谷学園はスポーツもかなり盛んだしスポーツ推薦なんかもやっているらしい。きっとあの人は運動部なんだろうなあ。背が高い人はそれなりにいるから廊下ですれ違っていてもあまり印象に残らない。普通なら印象に残ってもいいだろうに。
 そんなふうに思っていると、その人がくるりとこちらを向いた。自分の席を見つけたらしい。こっちにゆっくり歩いてくる。近くの席の人かな。もしかして前後左右のどこかかな。わくわくしていると、その人はわたしの前の席に腰を下ろした。ビンゴ! 友達になるチャンス! そう意気揚々と話しかけようとして、ハッ、とする。前の席の人だけ、名前の読み方が分からなかったのだ。赤ナントカくん。〝赤〟の読みがアカなのかセキなのかそれ以外なのかさえも予想がつかない。見たことがない漢字だったから検索のしようもなくて困っていたのだ。
 いや、これは逆に話しかけやすいかもしれない。名前なんて読むの、と聞けば会話が自然に繋がる。そうだ。そうしよう。もし嫌がられたらすぐに退散すればいいだけのこと。気を取り直して前の席の男の子の肩をちょんちょんと指でつつく。その子はすぐにこちらを振り返ってくれた。

「ごめん、名前なんて読むの? わたしは。よかったら仲良くしてね!」
「ああ、赤葦京治です。よろしく」
「アカアシって読むんだ! なんて読むんだろうって考えてたんだ。馬鹿でごめんね」
「いや、よく聞かれるよ」

 赤葦くんは落ち着いた雰囲気の人だった。話すテンポが穏やかで、言葉遣いが丁寧で、はにかむように笑う。あんまり出会ったことがないタイプの人だな。そう思うとなんだか嬉しくてついつい話しすぎてしまう。でも、赤葦くんは嫌そうな顔はせずにわたしとの会話を続けてくれた。

「あ、そうだ。赤葦くんって運動部でしょ。何部?」
「バレー部だよ。運動部だってよく分かったね」
「だって背高いもん。うちスポーツで有名だし。バレーかあ、ルールとか全然知らないなあ」
さんは何部なの?」
「引き続き帰宅部で活躍する予定です!」
「何も入ってないってことね」

 赤葦くんが笑った。お、ウケた。沸点が低い人ですね。助かります。わたしも沸点は低いほうだ。友達になるなら沸点は近いほうが楽しいに決まっている。赤葦くんとは仲良くなれそうだな、なんて一人でにこにこしてしまう。
 ホームルームがはじまるまで赤葦くんと楽しくお話しをした。連絡先も交換したし、大体の基本プロフィールは聞けた。初日から気が合う人を見つけられてラッキー。そんなふうに思っていると赤葦くんが「気が合う人がいてよかった」と同じようなことを言った。めちゃくちゃ気が合うね、わたしたち。これはいいご縁の予感だ。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 高校二年の秋。すっかり仲良しになった赤葦を引き連れて中庭で昼食中。大きなため息をついてしまうわたしに赤葦が「まあまあ。元々それなりに仲は良いんだし、頑張れ」と励ましてくれる。そうかもしれないけどさあ。パンをもさもさ食べつつ弱音を吐く。

「男子なんか単純だから。適当に褒めたら好感度上がるよ」
「赤葦って背高いし優しいしモテそうだよね。よく言われない?」
「好感度が上がった。好きです、付き合ってください」
「本当だ。単純だわ」

 けらけら笑うわたしに赤葦が「そうそう。その調子。頑張れ」と笑った。
 中学からの同級生に恋をした。誰に相談したらいいか悩みに悩んで赤葦に話したのだけど、思ったよりも協力的でとても助かっている。男子としての意見をくれるし、相談相手に選んで大正解だった。そんなふうに一人で満足している。
 赤葦は好きな子とかいないの。パンを頬張りながら聞いてみたら「あー」とちょっと答えづらそうに言ったから驚いた。いるの? 思わず赤葦の顔を覗き込むように身を乗り出してしまう。このさんに任せなさい。なんでも協力しますよ。そんなふうに偉ぶる。赤葦はそれを笑ってから「いや、いない」と言った。
 赤葦はよく笑う。よく笑う人は好きだ。大抵の人がわたしのように好印象を持つだろう。好きな子ができたらきっとすぐ結ばれるだろうに。もったいない。そう呟くわたしに赤葦が「いやいや。さすがにそんなに上手くいかないよ」と謙遜する。
 それにしても、なかなか好きな人との距離を詰めるというのは難しい。赤葦とはこんなにもすぐに仲良くなれたのに。そんなふうにため息をつきつつ赤葦の肩に頭を乗せる。赤葦は「はいはい腐らないで」とけらけら笑ってわたしの頭をぐりぐりしてくれた。

「よし、決めた!」
「何を?」
「三年生になったら告白する!」
「そこは今って言うところじゃないの?」
「今はさすがに無理。振られるもん。泣いて縋り付いてきたらうざいでしょ?」
「うざくはないよ。優しく抱きしめて俺にしなよって囁く」
「やだ赤葦イケメン」

 赤葦の肩から頭を起こして立ち上がる。やってやる。絶対にやってやるぞ! そんなふうに意気込むわたしを見上げて、赤葦は優しく笑った。「頑張れ」といつも通りの落ち着いた声で言われると、本当に心が落ち着いて何もかも上手くいくように思った。



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 高校三年の夏。夏休み入る前の短縮授業の日。わたしはふらふらと廊下を歩いて、どうにかこうにか体育館の前にやって来た。中からは賑やかな声が聞こえてくるけれど、もうすでに諸々の道具が片付けられた後。部活は終わっているらしい。休み前は部活も短縮になっていることが多い。それを見計らって来たから元々知っている。問題は、目的の人物がまだ残っているか、だ。
 体育館の中を隠れつつ覗き込んでみると、その姿を見つけた。赤葦。後輩らしき部員と何かを話している。笑っているから部活の話ではないのかもしれない。赤葦、いつ帰るのかな。早急に、緊急で聞いてほしいことがあるのだけれど。でもわたしの都合で自主練を切り上げてもらうのも申し訳ないしなあ。
 迷っていると、赤葦がこっちに気付いた。ばっちり合った目。思わず物陰に隠れて息を潜める。部活にまで来たらさすがに迷惑だよなあ。後で謝ろう。そう思ってこっそりその場を後にしようとしたとき「何してるの」とすぐ後ろから声が聞こえた。

「全然忍べてないけど」
「そ、そんな馬鹿な!」
「何かあった? もう部活終わってるから時間あるよ」

 赤葦の優しさが胸に染みる。面倒なんて言わない。それが赤葦なのだ。優しさに甘えて「緊急で話したいことが」と言えば、赤葦は「とりあえずそっちで聞こうか? 帰り支度まですると結構かかるから」と人気があまりないという体育館横に案内してくれた。
 二人で体育館の側面にある段差に腰を下ろした。赤葦は持っていたタオルで額を拭きつつ「緊急って何?」と不思議そうな顔をする。その顔を見た瞬間、ぶわっと涙が溢れた。

「え、え? どうしたの? 何かあった?」
「あ、あの、今日、こ、告白、したの」

 赤葦にずっと相談していた好きな人。夏休みに入る前に告白する、と自分の中で決めていた。ギリギリの今日になってしまったけど、部活に向かう前のその人を呼び止めて、どうにか人気の少ない場所に連れ出して、告白したのだ。
 ぼろぼろこぼれる涙が、夏の日差しに照らされてきらきらと光る。それを見た赤葦は指でわたしの涙を拭う。穏やかに微笑む赤葦の顔は、いつもわたしの気持ちを落ち着かせてくれる。一つ深呼吸をしてから「それでね」と口を開く。そんなわたしに赤葦は「うん」と静かに言うだけで、言葉を急かすことはしなかった。

「す、好きです、って言って」
「うん」
「付き合ってって、言ったら」
「うん」
「お、おれも好きって、言ってくれたの~」

 一瞬間があった。赤葦は一つ間を置いてから「え、オッケーだったってこと?」と首を傾げる。それにぶんぶん頷いて赤葦に飛びつくようにハグすると、慌てた様子で体を支えてくれた。
 全部赤葦のおかげなのだ。赤葦がいなかったら一人で悩んで告白は諦めていただろうから。赤葦がたくさん相談を聞いてくれて、たくさん励ましてくれた。だから、わたしは勇気を出して告白することができたし、これまでも好きな人に話しかけることもできたのだ。
 なんで泣いているのかと赤葦が笑うので、嬉しくて泣いているのだと返す。好きな人と両思いなんてすごいことが自分に起こったのだから。嬉しくて涙くらいいくらでも出るよ。

「よかったね。おめでとう」

 そう優しく背中を叩いてくれた赤葦は「とりあえず苦しいから離れて」と冷静に言う。こんなにも人が感激してるのに。そう文句垂れつつ赤葦から離れると、わたしの頭をぐしゃぐしゃ撫でてくれた。



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 高校三年、秋。毎日がハッピーだった。大好きな彼氏といろんなところへ行ったし、学校でも一緒にいる時間が増えた。毎日にこにこしているせいか友達の一部からは反感を買ったので自重するようになったけど、嬉しいものは嬉しい。大好きな彼氏がいるだけで毎日がこんなにも楽しくなるんだ。知らなかった。
 赤葦とは相変わらずだ。ずっと仲が良い。彼氏も赤葦のことは知っているし、何度か一緒にいるときに鉢合わせて話したこともある。わたしが赤葦と二人でいることは特に嫌じゃないと言ってくれた。理解のある彼氏。有難い。そう赤葦に惚気たら「いいやつだね」と言ってくれてさらに嬉しかった。

「じゃーん。見てこれ」
「何? ハンドクリーム? そんなの持ってたっけ」
「彼氏様からのプレゼントだよ~」

 かわいらしいパッケージのハンドクリーム。彼氏がわたしにくれたものだ。別に誕生日でも何でもない日に。嬉しすぎて、それまでハンドクリームなんて滅多に使わなかったのに毎日必ず塗っている。爽やかなフルーツの香り。大好きな匂いだ。
 キャップを開けて手に塗る。少し出し過ぎた。量が多いとべとべとしてしばらく何も触れなくなっちゃう。そう思って赤葦の手を掴むと「え、何?」と引っ込められそうになった。

「出し過ぎたからちょっともらって」
「嫌嫌、無理無理、そんなかわいい匂いがする赤葦京治だめでしょ」
「かわいい匂いがする赤葦京治いいじゃん。お揃いにしよ」

 赤葦は「はあ、仕方ないな」と言って手を引っ込めるのをやめてくれた。赤葦の手に余ったハンドクリームを塗り込みつつ、反対の手も掴む。もうどうにでもしてくれ、という様子の赤葦は特に抵抗することなくわたしの手を見ている。

「赤葦って手きれいだよね~。いいなあ」
「はいはい、どうも」

 あれ、ちょっと拗ねてる? そうからかいつつ顔を見ると「拗ねてない」と赤葦がするりとわたしの手から逃れていく。「もうべとべとなんだけど」と笑いつつ自分の手を摺り合わせる。だから出し過ぎたって言ったじゃん。笑うわたしに赤葦が「気を付けてください」と肘で肩をつついてきた。



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 高校三年、冬。受験シーズンを乗り越え、後は卒業を迎えるだけになったわたしは、学校へ行く用もなく家でぼうっと過ごしている。嫌なことがあった。それなのに、学校に行くことがないから赤葦に話せない。しんどい。つらい。そんな思いを抱えつつ、スマホを手に取ってはまた戻すという行動を繰り返している。
 わたしと赤葦は友達だ。とても仲が良いとわたしは思っている。でも、学校以外で会ったことはない。学校に行けばほぼ毎日会えるし、別に付き合っているわけじゃないから休日に会う用事は正直ないのだ。だから、話したいことがあるというだけで赤葦に連絡していいものか、悩んでいる。
 彼氏と別れた。ずっと赤葦に相談していた相手だ。先日、二人とも受験が終わって時間があったからデートをした帰り。彼氏のご両親は共働きでお昼は家にいないから、と家に招かれた。さすがにどういう意味かは分かっていた。でも、わたしは彼のことが好きだし、そういうことにも興味がないわけではない。断る理由はなかった、はずだったのに。
 気持ち悪かった。わたしの体を見つめる目が。欲にまみれた思考が。気持ち悪くて仕方なくて、はじめてのそれはずっと我慢して耐えるだけの苦痛な時間だった。欲を満たしたいがための行為だ。そうはっきり感じた。だから、気持ち悪くて、仕方なかった。
 スマホが鳴った。びっくりしてスマホを手に取り見てみると、赤葦からのメッセージだった。「最近会ってないけど元気?」という一文。すごい。赤葦ってエスパーなのかな? 話したいな、でも連絡していいのかな、って悩んでいたところに連絡をくれるなんて。
 すぐに「元気じゃない」と返信したら、赤葦もすぐ返信をくれた。トントン拍子で集合場所と時間が決まり、今から一時間後に高校の最寄り駅で落ち合うことになった。すぐに着替えて準備を整えて、家にいる家族に一応声をかけて家を飛び出た。赤葦。赤葦。赤葦! 話したいことがたくさんある。聞いてほしいことがたくさんある。どうしてなんだろう、わたしは、そういう話は全部赤葦に聞いてもらいたくて仕方がない。赤葦にとってはいい迷惑かもしれないけれど。
 薄暗い気持ちがひとまず消えた。元カレのこともどうでもよくなった。とりあえず話してしまえば楽になる。それだけで十分なんだ、わたしの悩みなんて。ちっぽけなものでしかない。どうでもいいことなんだ。赤葦なら全部聞いてくれる。いつもみたいに落ち着いて冷静にわたしをフォローしてくれる。
 赤葦はいつもそうだった。わたしの話を聞いて肯定してくれる。わたしのことを心配してくれる。とてもとても優しい、大事な友達。こういうのを親友と呼ぶものなのだろうか。男女の間に友情は成り立たないなんてみんなよく言うけど、わたしと赤葦は違うよね。そうわたしが聞けば赤葦はきっとこう言うに違いない。「そうだよ。急にどうしたの」って。そんなこと今更確認しなくても、って笑うんだ。絶対に。
 赤葦と合流してから静かに泣いて、全部話した。好きな人との初体験が好きじゃないことの証明になってしまった。しくしく泣くわたしの話を赤葦は、ただただ静かに聞いてくれた。寄り添うようなその沈黙がわたしにとっては何よりも薬で、全部吐き出した頃には笑えるようになっていた。次は頑張ります。そう言ったわたしに赤葦は、小さく微笑んで「うん。応援してる」と言ってくれた。









▽ ▲ ▽ ▲ ▽










 ああ、胸くそが悪い。どれだけ呼吸をしても、どれだけ瞬きをしても、何もこの世界は変わってくれない。忘れたいはずの体温も忘れさせてくれないし、忘れたいはずの爽やかなフルーツの香りも忘れさせてくれない。忘れたいものを何一つ忘れさせてくれない。すべて俺の体に染み込んでそっと傷を付けるだけ。思い出すたびに傷付くだけ。それでもよかった。あの子が笑うならば。
 でも、あの子が泣くならば話は別だ。何一つ良くない。何一つ看過できない。何一つ許すことができない。何のために俺は歯を食いしばったのか。何のために俺は震える喉を黙らせたのか。
 あの子は泣かなくなった。でも、ずっと泣いているように見えた。いつもいつも新しい傷を作ってくる。何度も何度も傷を作ってくる。それでも傷がないふりをする。はじめて傷を作ったあの日からずっとそうだ。何がだめだったんだろう、と自分のせいにする。それを真正面から否定することが、俺にだけできない。俺だけはしてはいけない。それが腹立たしかった。
 好きだと言ってしまえば、あの子に決定的な一撃を与えることは分かっている。俺だけはそれを言ってはいけない。あの子の傷を知っているから、俺だけは言えないことだと知っている。この世界でたった一人俺だけが、それを嫌というほど思い知らされている。
 次こそは笑ってほしいと願う自分と、次もまた泣いてほしいと願う自分がいる。どちらにせよほしいものは手には入らないというのに。そんなことさえ隠さなくてはいけない自分は、あの子の前でちゃんと笑えているのかよく分からない。それでもただただ、あの子の傷を絆創膏で覆う。治すことはできない。隠すだけ。あの子がほしい言葉を口から出すだけ。あの子がいつも通り笑えるようになるまでずっと永遠に、その繰り返しをするだけ。ああ、どこまでも、胸くそが悪い。


降下する海底 ザトウクジラの歌

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