※川西が留年、転職を経験している設定。
物音がした気がして目が覚めた。目をこすりながらヘッドボードに置いてあるスマホを手探りで取る。画面をつけるとあまりの眩しさに目が痛いほどだった。深夜二時を回ったところ。こんな時間に目が覚めた経験はあまりない。何の物音で起きたのだろうか。そう何気なく隣に目を向けると、寝ているはずの太一がいなかった。
お手洗いか何かだろう。そのうち戻ってくる。スマホをヘッドボードに戻して、また掛け布団をかぶり直して壁側に体を向けた。枕の位置を軽く直してからまた目を閉じる。今日はかなり冷え込んでいる。暖房を消して寝てしまったことを後悔しつつ、節約と天秤にかけると少々の寒さくらいいいかと思う自分がいる。太一が隣にいればここまで寒さは感じないはずだ。我慢我慢。そう頭の中で呟いた。
高校時代の後輩で今は恋人の太一と同棲をはじめて一か月が経った。お互い仕事が理由であまり会えないから、という理由ではじめた同棲だ。すれ違いが減ればいいと思って。でも、出勤も帰宅も遅いわたしと、出勤も帰宅も早い太一。結局すれ違うことが多くてあまり一緒に住んでいる気がしないのが現実だった。
喧嘩をするわけではないし、こうして一緒のベッドで眠るくらいには仲良くやっていると思う。ただ、学生のときみたいに二人でだらだらした時間を過ごせなくなったことが、わたしにとっては少し寂しいままでいる。せめてお互いカレンダー通りの休日ならな、と何度思ったか分からない。
そんなことを考えていて、ふと、太一がなかなか帰ってこないことに気が付く。もう一度顔を隣に向ける。太一の体温がじんわり感じられた布団はすでに冷たくなっている。寒さに震えつつ体を起こしてヘッドボードに目を向けると、わたしのスマホの隣に置いてあったはずの太一のスマホがなくなっていた。
目が覚めてしまってリビングに行ったのだろうか。布団に入ったまま床を覗き込んでみると、太一のスリッパがなくなっている。リビングのほうは明かりがついているわけでもないし、テレビの音が聞こえてくるわけでもない。不思議に思って小さな声で「太一」と呼びかけてみる。けれど、もちろん返事があるわけがない。
夜は不安を煽る。離れるにつれてどんどん夜の底に飲み込まれていく視界のどこに太一がいるのか。それが分からない。とっくにここにはもういないのではないかと思ってしまうほど、太一の存在がそばにはなかった。
静かに速度を上げる鼓動に気付かないふりをする。そっとベッドから出てスリッパを履き、恐る恐る寝室のドアを開けた。静まり返っているリビングに太一の姿はない。廊下を覗き込んでみたけれど、洗面所もお手洗いも電気がついている様子はなかった。あまりの寒さに腕をさすりつつ玄関に行ってみた。太一の靴はある。靴箱の中から減った様子もない。
どういうこと?
どこ行っちゃったの?
次第に寝惚けていた頭が覚醒してきて、しっかりと血が通う感覚。状況の整理が勝手に頭の中で行われていき、どんどん不安になっていく。靴がないから家からは出ていないはず。だけど、わたしは太一が持っている靴のすべてを覚えているだろうか。やっぱり、出て行った?
早歩きでリビングに戻る。いつも太一の鞄が置いてある部屋の隅に行くと、鞄がいつも通り置かれていた。恐る恐る中を見てみる。財布はある。家の鍵もある。ないのはスマホくらいだ。さすがにスマホだけを持って出ていくのは現実的じゃない。でも、わたしが知らないだけでこっそり用意した財布を持っていたりして。そうっと太一の財布を開けてみる。現金やクレジットカード、免許証が普通に入ったままだった。
鞄を元通りにしてから、立ち尽してしまう。どういうことなの。ソファに腰を下ろして腕を組みぐるぐると考えてしまう。隠れられるところなんて他にないし、出て行った形跡もない。太一がここにいる痕跡はあるのに本人だけいない、という奇妙な状態だ。
何か事件に巻き込まれた、とか。そんな嫌なことを考えているときだった。どこからかかすかにカタン、という物音が聞こえた。びくっと肩を震わせながら顔を上げる。ぐるりと部屋を見渡しても太一はいない。先ほどの物音はどこから聞こえたのだろう。そうっと立ち上がり、物音が聞こえてきたように思える方向へ近付く。キッチンのほうからだったような。掃き出し窓を通り過ぎてカウンターの奥を覗こうとしたとき。またカタン、という小さな物音が聞こえた。聞こえた方向は掃き出し窓。恐らく窓の外であるベランダからだった。
もしかして。ほぼ確信に近い感覚を覚えて肩の力が抜ける。息を吐きながらカーテンを開けると、ようやく探していた太一の姿が見えた。窓を開けると同時に太一がこちらを振り返った。
「え、どうしたの」
「それはこっちの台詞。こんな時間にそんな薄着で何してるの。風邪引くよ」
「あ〜……」
上着も羽織らずにベランダでスマホを見ていたらしい。こんなに寒い日だというのに。少し呆れつつ「ほら、戻るよ」と太一の腕を引っ張る。太一はへらへらと笑いながら「ごめんって」と頭をかいた。すっかり冷たくなっている太一の腕を引っ張りつつ寝室へ戻り、しっかり窓の鍵とカーテンを閉めた。
「びっくりした。太一だけ世界から消えたかと思ったじゃん」
「怖いこと言わないで……」
苦笑いをこぼしてから布団に入った太一は、スマホをヘッドボードに置いてから「なんか眠れないんだよね」とため息をついた。わたしが気付いていなかっただけでここ最近ずっとそれに悩んでいたのだとか。
高校生のときの太一は、まあ度が過ぎるというほどではなかったけれど、ぱっと見は能天気そうな後輩だったし実際そういうところも大いにあった。もう少し真剣に考えなさいと何度呆れたか分からない。部活に対してはしっかりしていたし、自分の考えを人に伝えることも苦手そうではなかった。でも、自分のことになると途端に口を噤むというか。
大学を一年留年したときもそうだった。当たり前に進級しているだろうと思っていたのに本来卒業する年に「え、去年留年したんでまだ四年です」という軽いノリで言われたものだから本当に驚いた。本人にも思うところがあるのかもと思ってあまり強くは言わなかったけど、小突いて「そういうことは教えといてよ」とだけ言ったら「え?
ああ、すみません」とよく分かっていない顔をされたっけ。自分の問題だからわたしには言わなくていいと思ったのだろう。太一はそういう人だ。分かっているけれど、ほんの少し寂しい気持ちになる。
一年留年してから就職したあともそうだ。仕事の愚痴とかそういうのをあまり言わないからいいところなんだな、と思っていたら突然辞めて突然転職した。あのときもかなり驚いたっけ。会社を辞めることも転職することも悩みが付き纏っただろうに、太一は一言もわたしには言わなかった。やっぱり寂しい。
今も。眠れなくて悩んでいるのなら教えてほしかった。力になれるかは分からないけれど、太一のために何かできないか考えることさえできないというのは、あまりにも無力すぎる。一緒に暮らしているのに。好き合ってこうして二人でいるのに。
「眠れないときにスマホ見るのって余計に悪いんだよ」
「え、そうなの?」
「なんか明るい画面を見るのが良くないってテレビで観た」
「マジか〜。眠れないからスマホで時間潰して眠くなるの待ってたわ」
天井を見つめながら瞬きをする。太一の横顔を眺めているだけでは何も分からない。何か考えているなら言ってほしいのにな。そんなことを思うけれど、話したくない人にそう言うのも酷な気がして言えずにいる。わたしたちは好き合っていて恋人になっているというのに、どこか本心が言えずにいる。そんなほんの少しの溝を感じてしまった。
「さん」
「うん?」
「変なこと言っていい?」
「え、うん。何?」
敬語は抜けたのに未だにさん付けだけ抜けずにいる。太一の軽やかな声で名前を呼ばれるのは好きだ。いつかさん付けもなくなればいいな、と思っていたはずが今では案外気に入ってしまっている。
「俺のどこが好きなのかな〜って。一つでいいから教えてほしいな、と」
太一が考えていることの小さな欠片だと思った。決してわたしが触れることのできないそれの一部が欠片となって太一の中からこぼれ落ちてきた。それを急いで拾いあげるように「一つに絞るのは難しいなあ」と返す。本当のことだ。煽ているわけではない。
「まず優しいところ。なんとなくやる気がなさそうに見えるのに、わたしが困ってると一番に気付いて手伝ってくれる後輩だったし、彼氏になってからもずっと優しいところが好き」
「お、おお〜……自分から言っといてなんだけど照れる……」
「あと対応力があるところ。これはまずいって状況になっても何をしたらいいかをちゃんと考えて自分から動けるところも昔から変わらない。まずい状況にならないようにはできないみたいだけど」
「ちょっとディスってない?」
くすくす笑いながら太一が体の向きをこちらに変えた。枕に少し沈んだ横顔は、なんとなく血色が良くなっているように見える。
夜という時間は不思議だ。闇が寄り添うように暖かく感じることもあれば、すべてを突き放すように冷たく感じることもある。静かな空気は心を落ち着かせることもあれば底知れぬ恐怖を感じさせることもある。
きっと太一は、夜に呑まれてどこにも行けなくなっていたのだろう。誰だってそういうときはある。そういう夜は誰にでも訪れるのだ。
かわいい人。内心でそう思う。ほんの少し光る瞳がわたしのことだけを見ている。それがあんまりにもかわいいから話し続けてしまう。一つだけ教えて、なんて控えめに言ったくせに。本当にかわいい人。思わず小さく笑ってしまった。
太一にとっての夜は冷たいものではなくなっただろうか。包み込むような温もりを感じる時間になっただろうか。明日からの夜は真っ暗闇じゃなければいい。ほんの少し明るくて、一色でも好きな色がどこかにあって、目を閉じても一人きりではない。そんな、どこの誰にでも訪れる、不思議な夜になったならいい。半分瞼が閉じているまぬけな顔を見てそう思った。