――高校三年生、夏

! 水分とったか?!」

 外でタオルを干していたら、体育館の出入り口から馬鹿デカい声で飯綱にそう声をかけられた。かなり距離があるし緊急の連絡というわけでもないし、あとで聞いてくればいいのに。というか体調管理は自己責任だ。そこまでしっかり確認しなくてもいいのにな。そんなふうに思いながら「大丈夫!」と喉が痛くなるくらい大きな声で返しておく。頑張って出した声は無事飯綱に届いたらしい。両腕で大きな丸を作って、飯綱はいつもの明るい笑顔を浮かべた。
 飯綱は世話焼きだと思う。責任感が強いとも言えるけれど、一つ後輩でちょっと癖の強い佐久早の面倒もちゃんと見るし、さっきみたいにマネージャーであるわたしの体調も気にしてくれる。主将だから、なんて言葉では片付けられない気の遣いようだ。あんなふうにできる人はそうそういないに違いないと思う。
 タオルを干し終え、諸々の備品を元の場所に戻してから体育館へ戻る。今年の夏も暑い。飯綱の言う通り水分補給は生命線だ。しっかり取れるときに取る。それを頭の中で唱えてから次の仕事に移った。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




――数年後、大学三年生、夏

「あ!? ! 日焼け止めどうした?!」

 声がデカい。至近距離にある掌の顔をぐいっと押し返す。掌はそれでもなお「真っ赤になってる!」と言って無駄に騒ぎ立ててくる。もう慣れたけれど、毎回「またか」と思ってしまう。
 同い年の異性として好意を持ってくれたと思っていたのだけど、掌はどうやらわたしのことを赤ちゃんだと思っているらしい。まあ実際はそうじゃないと分かっている。でも、そう思ってしまうくらいに過保護なのだ。

「これでも塗ってるから。数日で引くから平気」
「でもお風呂入ると痛いって言ってただろ? 大丈夫だったのか?」
「痛いけど死なないから大丈夫」
「極端すぎる」

 苦笑いをこぼす。掌はじっとわたしの日焼けを見つめて「痛そう」と呟いた。これくらい自分はいくらでもやってるくせに。内心そう笑ってしまった。
 高校の卒業式のあとに告白してきた掌とはかれこれ三年目の付き合いだ。別々の大学に通っているけれど、こうして時間を合わせてできる限り会っている。大学でもバレーを続けている掌は忙しいだろうに、練習終わりだろうが試合終わりだろうが時間さえあれば顔を見に来る。無理しなくていいと言っても「え、何が?」ときょとんとされた。変な人。内心そう思ったけど「なんでもない」と誤魔化しておいた。
 海に行きたいと突然言ったわたしに文句一つ言わず、レンタカーを借りて海まで運転してくれた。電車でいいのに、と言ったけれど「最近あんまり会えてなかったから。二人になりたい」とストレートに言われるとそれ以上何も言えなくて。大学一年で免許を取って以来父親の車で練習を怠らない掌の運転は、とても落ち着いていて乗り心地が良くて好きだ。電車より車のほうが楽だし有難かったけど、やっぱり照れくさかった。
 帰ってきて、大学から一人暮らしをはじめた掌の家にお邪魔している。もう外はすっかり夜に染まっている。明日はどうやら雨らしい。星も月も見えない夜空は少し不気味に見える。
 夕飯は外で食べ、もう二人ともお風呂から上がった。あとは歯を磨いて眠るだけ、というのに掌が「ちょっと」と手招きしてきた。近付いていくと、掌の隣に座れというようにソファを軽く叩く。おとなしく腰を下ろしてから掌が手に何かを持っていることに気が付く。

「ボディクリーム? そんなの持ってたっけ?」
「いや、買った。帰りにコンビニ寄ったときに」
「え、なんで?」
「そんなに焼けてるとは思ってなかったけど、日焼けしたときは保湿がどうとか聞いたから一応」
「あんたはお母さんか」
「彼氏だろ」

 笑いながらわたしの右手を取ると、ルームウェアの袖をぐいっと捲る。まさか塗ってくれるつもり? そう驚きながら聞くと掌は「そうだけど?」と不思議そうに言った。

「やだやだ自分で塗る。絶対変なことするでしょ」
「変なことってなんだよ。自分で塗ると届かないところもあるだろ?」
「どこまで塗ろうとしてるの?!」

 ぐいぐい腕を戻そうとするけど力では敵わない。ボディクリームをたっぷり手に取った掌に「多い! 多すぎるからそれ!」と指摘するけれど「え?」と言いながらべちょっと右腕に全部つけられた。塗り込めども塗り込めども一切馴染まないクリーム。諦めずに掌は何度も何度も塗り広げている。

「ね〜多すぎるってば〜左腕に移すから離してよ〜」
「なんか」
「何?」
「これあれだな。変な気持ちになる」
「だから言ったじゃん!」

 隙をついて右腕を救出。掌は「あ、まだ塗り終わってないだろ」と言ったけれど無理に続けようとはしなかった。べたべたになっている右腕からクリームを取るように左手を滑らせる。それを右手につけてから、あ、と思わず声が出た。左の袖を捲るのを忘れていた。

「掌、袖捲って」
「ん」

 丁寧に袖を捲ってくれた。でも、その手つきがなんとなく、熱を帯びていて。なんとなく直視できない。そうっと目を逸らしながら黙っておく。
 きれいな手だと、高校生のときから思っていた。テレビの中にいる俳優やアイドルに思うことはあれど、同級生に思うことなんてなかったのに。掌の手だけははじめて見た日から今日までずっときれいだと思う。節がしっかりしている男の手だ。きれいだと言う人が多いタイプの手ではない。それでも、わたしにとっては、つい目を向けてしまう手なのだ。
 ちゃんと自分で答えは分かっている。わたしが掌の手をきれいだと思うのは、異性としての色気を感じているからだ。恥ずかしいから掌に伝えたことはないけれど。
 きれいに捲られた袖に視線を戻す。「ありがと」と軽くお礼を言ってクリームを塗っていく。両腕に塗ってもまだ多い。足まで伸ばせそうだな、なんて考えて気付かないふりをしている。


「何?」
「こっち向いて」

 囁く声に誘われるように顔を向ける。掌がじっとわたしの瞳を見つめてから、ほんの少しだけ空気を揺らすように笑う。それから右手がわたしの頬に触れてからすぐ、息遣いを近くで感じた。そのままほんの少し唇が重なって、すぐに離れていった。

「……やっぱり変なことした」
「かわいい顔してるほうが悪い」

 掌はわたしの頭をぽんぽんと軽く撫でてから立ち上がると、そのまま洗面所へ向かっていく。歯を磨きにいったのだろう。わたしもこれを塗り終わったら歯を磨こう。生まれた熱を逃すように息をついたとき、掌も同じように息をついた声が聞こえてきた。

ひとりとひとりの息遣い

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