消しゴムのカスを丁寧に集めるタイプだと思っていた。基本的に穏やかで、真面目で、大抵のことはそれなりにこなす。そういう人なのだろうと、勝手に思っていた。

「何か別のこと考えてない?」

 はっとすると鼻がぶつかりそうなくらいの至近距離で、苦笑いをこぼしている昼神と目が合った。思わず昼神の顔を右手でぺしんと緩く叩いてしまう。近い。そう呟いたわたしを昼神が「キスしようとしてるんだからそりゃ近付くよ」と笑って、右手を掴んでベッドに押しつけた。
 少し動くだけでぎしっと軋むベッドが心臓に悪い。わたし、昼神とテスト勉強をしていたはずなのに。ベッドの近くに置いてある机の上。そこには申し訳程度に広がっている教科書とノート、参考書、文房具。健全な学生の勉強会を装ったその光景が、この状況をいけないことだと強調しているように思えてしまう。

「なに考えてたの。教えてよ」

 わたしの右手を何度も握り直して、昼神が楽しげに笑う。楽しそうにするな。なんかむかつくから。そう睨んでも昼神には効かない。わたしがいくら睨んだり脅したりしてもいつも子犬と戯れるようにしてきて余計にむかつく。だから、もうあまり昼神には反抗しないようにしている。
 つい五分前までは真面目な学生として、机に向かっていたのに。分からない問題があったから昼神に助けを求めた。わたしのノートを覗き込んだ昼神がシャーペンで要所要所を指しながら解説してくれた。問題は無事に解けたのだけど、そのあとに昼神が「今日記念日だね」とわたしの顔を覗き込んできたのだ。記念日。そう言われてはじめてそれを思い出したわたしを昼神が「忘れちゃってたね?」と笑った。そこから、この部屋は学生の健全な勉強会の場から外れてしまった。だから、全部、昼神が悪い。

「……昼神がイメージしてたのと違うなって考えてた」
「えー傷つくなあ。幻滅した?」
「いや、そういうわけじゃないけど」

 手を繋ぐとかキスするとか、そんなの屁でもないタイプなのだろうと想像していた。ましてや相手はわたし。昼神が緊張したり動揺したりする要素はこれっぽっちもないだろう。わたしはこういう経験がないから全部昼神に任せておけば大丈夫。大人しくしていよう。そんなふうに、昼神に肩を掴まれたときまでは思った。
 わたしの顔を見つめる昼神の顔を見たら、首を傾げそうになった。なんか緊張してる。顔が赤いし、ちょっとだけ目が泳いでいる。話すといつも通りなのに、表情だけがいつも通りじゃない。そんなふうに感じた。
 それで、思い出した。そういえば昼神、消しゴムのカスを適当に手で払って捨てていたな、と。わたしがイメージしていた昼神はきれいに一つにまとめてあとで捨てるタイプだったから意外だった。えー、そんな適当に捨てるタイプなんだ? 結構嫌いじゃないよ。なんて。消しカスはちゃんと掃除するべきだというのは分かるけれど。

「もっとこう、無駄に余裕があるタイプかと思ってた」
「そんなわけないでしょ。それに高校生でこういう状況に慣れてるのも嫌じゃない?」
「確かに」

 なんかムードがなくなったし、もう昼神もそのつもりはないだろう。そう思って起き上がろうとしたら「ん?」と笑顔で通せんぼされてしまった。あ、まだやる気なんですね。それも意外。
 右手がわたしの頬に触れた。さっきまでよりはいつも通りの表情をしている。するりと頬を撫でて、そのまま髪に触れた。何してんの。ぼんやり昼神の顔を見上げていると、昼神が苦笑いをこぼした。

もイメージと違うよ」
「わたしってどんなイメージだったの?」
「うーん。もうちょっと照れてくれるかと思ってたかな?」

 そう言われましても。わたしも苦笑いをこぼしてしまう。自分もきっとこういう状況になったら照れるんだろうと予想していただけに、どうして今こんなにも冷静なのかとびっくりしている。もちろんはじめての状況だし、昼神のことが好きだという気持ちはある。照れたり緊張したりするのが普通だとわたしも思う、けど。

「割と大丈夫だった」
「へこむな〜」

 昼神はわたしの顔の真横でがっくり項垂れる。全体重を乗せるな。重たい。内心そう文句を垂れつつ笑うに留めておく。へこまれても割と大丈夫だったもんは大丈夫だったんだ。勘弁してください。わたしを下敷きにして完全にベッドにうつ伏せになっている昼神の肩を叩く。さすがにこれ以上190cmは支えきれません。そういう意味だと昼神はすぐ分かってくれたらしい。体を起こすと、またわたしを見下ろした。
 好きな人の知らなかった一面を見たら嫌になっちゃうって子、結構いると思う。蛙化現象とかいうやつ。店員さんに横柄な態度を取ったとか、食べ方が汚かったとか、私服がダサかったとか。挙げ句の果てには両思いになった途端に嫌になる、なんてこともあるとテレビで観た。
 そういうのって、生活の端々に出ているとは思うんだよね、普段から。猫を被っていたパターンもあるとは思うけど、好きだ好きだと目をハートにして追いかけていたときは、そういうものがただ意識に入ってきていなかっただけなんじゃないだろうか。見えていたとしても好きな人として見れば全部かっこいいし全部かわいい。そんなふうにしか捉えない。でも、彼氏ないし将来を共にする人として見れば嫌なところになってしまう。だから、蛙化現象ってやつは結構くせ者だ。
 目の前にいる昼神幸郎は元々はわたしにとっては好きな人で、今は彼氏。立場が変わってから知らない一面、意外な一面を今しがた知ったところ。これまでも何度かあったし、これからもそういう場面にはたくさん遭遇するだろう。もしかしたら一生続くかもしれない。
 どういうところが好きかと聞かれると、いつも困る。どういうところ、というか。そんなふうに言葉が詰まるのだ。

「でも、そういうところも好きかも」

 にこにこと嬉しそうに笑った。子どもみたい。なんかかわいい。そうちょっと笑っている隙に唇が奪われた。
 知らなかった一面があるからといって、意外な一面があるからといって、まあ、どうでもいい。そう言ってしまうと冷たく聞こえるだろう。けれど、別にわたしはその一点だけで昼神を好きになったわけじゃない。もちろんそれが原因で相手を好きじゃなくなる子を批判したいわけではない。わたしはそうならない、というだけだ。
 何をしても何をされても、昼神らしいなと思える。まあ、もちろん他人に嫌な思いをさせるようなことをしたら話は別だけど。そうじゃないことに対しては、こう、アップデートするだけというか。昼神はぺらぺら自分のことを話すタイプじゃない。だからこそ知らなかった≠知る瞬間には少し感動さえ覚える。
 唇が離れた。まだにこにこして嬉しそうな昼神がいる。わたしとキスしたくらいで、何をそんなに嬉しそうにするんだか。そう思うとほんのり照れてしまう。昼神はそれを見逃さない。わたしの頬を両手で包んで「やっと照れた」と余計に嬉しそうな顔をした。

「たまに俺のこと好きなのかなって思ってたの、知ってた?」
「え、知らない」
「じゃあ覚えといて。たまに不安になってるから」

 わたしも自分のことをぺらぺら話すタイプではない。不安というワードを出されると素直に申し訳ない気持ちになった。でも、好きとかなんとか言うタイプでもない。どうしたものか、と苦笑いをこぼしてしまう。
 でも、不安だと言うならば。両手を伸ばして昼神の首元に回す。ぎゅっと抱き寄せたら、無抵抗のまま抱きしめさせてくれた。やっぱり重たい。けど、別に嫌じゃない。どちらかと言えば心地良い。

「ちゃんと好きです。覚えておいてください」
「……え〜、たまに復習させてね?」

 ぱっと腕をほどく。昼神がまた体を起こしてからまた唇が重なった。キスされるのも嫌いじゃない。まあ、当たり前か。彼氏であり好きな人でもあり続けるんだし。素直に目を閉じておく。それにしてもかわいくないな、わたし。ちょっと反省した。
 一生こんなふうにお互いの内側全部を理解することはないまま、一緒に過ごしていくんだろう。案外そういう関係がわたしは気に入っている。きっと昼神も。知らないことでもイメージ違いなことでも、それを見られたことを嬉しく思うというか。これまで自分が思っていた相手の虚像をどんどん塗り替えていくのは結構面白い。
 お互いに、たくさんお互いの屍を超えてきたね。物騒な表現をしてみる。いや、さすがに屍はなかったか。抜け殻くらいにしておいたほうがよかったかもしれない。
 あのころはこう思っていたな、なんて振り返って思い出す日がいつか来るかもしれない。今日までのわたしは昼神のことを消しゴムのカスはちゃんと一つに集めるし、キスするのも押し倒すのも余裕でできる人だと思っていた。今日からは新しくアップデートされた昼神と過ごしていく。そう思うと、なんだか一生、好き≠ェ止まらないんだろうと悔しくなった。

心中未満


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