※大人編の捏造あり。




 高校二年、インターハイ本戦。一日目の日程を終えた白鳥沢学園男子バレーボール部は会場を後にしようとしているところだ。それぞれ個人の荷物を片付けたり、一年生を中心に部活の荷物を片付けたりしている。わたしも一年生の片付けの輪に交ざりつつ、指示を出したり牛島さんからこの後の動きを聞いたりして少し忙しい。ざわついている会場の様子からして外へ出るにはまだ時間がかかりそうな雰囲気だ。片付けが終わってもしばらくは待機になると思う、と牛島さんに言われたので一年生にも伝えておいた。
 同輩の川西が「お荷物お持ちしましょうか」と茶化しに来たのをあしらっていると、近くで「あー!」という聞き覚えがありすぎる大声が響いた。

いた!」
「うわ……」
「うわって言った! 今絶対うわって言っただろ!」

 白鳥沢が陣取っている席の一番後方、通路沿いにその姿を見つけた。東京代表、梟谷学園高校。その主将でありエースを務めている木兎光太郎。一応、わたしの幼馴染である。わたしが高校から宮城県へ引っ越したので会うのは二年ぶり、のはずなのだけれど。白鳥沢も梟谷もバレーの強豪なので、一応全国大会でエンカウントはしている。わたしが全力で逃げているのでなんとかがっつり会話はせずに済んでいたのだけれど、今回は防ぎ切れなかった。

じゃん! ! 久しぶりだなー!」
「あんまり名前連呼しないで。関係者だと思われるじゃん」
「幼馴染は関係者みたいなもんだろ?!」

 近くにいた瀬見さんが「ボクトじゃん。知り合い?」とちょっとびっくりしたような顔をする。そうですよね、あの人有名ですしね。知ってますよねそりゃあ。「一応」とだけ返しておく。隣にいる川西が「一応知り合いって逆にどんな 関係?」と笑ったけど、ひとまず無視しておいた。
 ちょっと気まずい気持ちになりつつも、ギャアギャアうるさいので仕方なく通路へ歩いていってやる。光太郎くんはぶんぶん腕を振り回して「なんかちっちゃくなったな?!」と失礼なことを言ってくる。小さくなってない。光太郎くんが大きくなっただけでしょ。そう呆れつつ、光太郎くんの前で立ち止まる。それにしても、本当に大きくなったな。首が痛いんですけど。

「髪伸びてる! ロングはじめて見た!」
「中学卒業してから切ってないからね。でも一応春高で見たでしょ。遠目にだけど」
「それ! 遠目にな?! 絶対俺のこと避けてただろ!」
「避けるでしょ。うるさいし暑苦しいし恥ずかしいし」
「ひどい!」

 通路で立ち止まっている場合なのか聞いてみる。梟谷は自由解散になっているそうで特に問題なし、と返答されて思わず舌打ちがこぼれた。なんだよ、時間を理由に撒けないじゃん。ぼそりと恨み言を呟いてやると「口が悪い!」と大笑いされた。
 梟谷の他の人が「知り合い? 幼馴染って聞こえたけど」と不思議そうに光太郎くんに聞いた。わたしとの関係を簡潔に説明した光太郎くんが「それでもって!」と自慢げに言って、わたしの頭をぐしゃぐしゃ撫でた。

「将来結婚する子」
「おい、待て木兎光太郎。勝手なこと言うな。あと頭触るな」
「ええ?! 約束しただろ?!」
「約束をしたと言えばしたけど、だって無理でしょ」
「無理じゃない!」
「無理無理。光太郎くんには絶対無理。感情剥き出しエースだもん。絶対無理」
「何を〜?!」

 梟谷の人が「どんな約束?」と首を傾げた。光太郎くんはわたしの頭から手を離して、くるりとその梟谷の人を振り返った。

「オリンピックの日本代表に選ばれたら結婚するって約束!」
「無理。絶対無理。うちの牛島さんじゃあるまいし」
「俺だって選ばれるんです〜!」

 ぐりぐりとわたしの頭また撫で繰り回す。女子の頭をむやみやたらに触るなって子どものときから何回も言っているのに。聞く気がないらしい光太郎くんにはもう今更言っても無駄だ。ため息をこぼしてしまった。
 子どものころの話だ。結婚して、と言われたから当時ちょうど開催していたオリンピックのことを思い出して、それに日本代表として出たらいいよ、と答えただけのこと。子どものごっこ遊びみたいなものだ。約束ごっこ、みたいなノリのつもりだったのに。
 まさか、あの口約束が生きているなんて。はじめは驚いたものだった。わたしが引っ越すことを知った光太郎くんは「まだ結婚はだめでも彼女にはなってくれる?!」と言ってきて、本当に、目玉が飛び出るほどびっくりした。何の話、と。固まるわたしに光太郎くんは立て続けにこう言った。「だって向こうにいいやついて目移りされたら泣くだろ! 俺が!」と。いや、だから何の話。そのときはじめて知ったのだ。あのときの約束が光太郎くんの中では有効で、あのときのあの言葉はすべて本気だったのだ、と。

「あっ?! もしかして……まさか、そ、そっちにいいやつ、」
「いない。そういう問題じゃない」
「ウシワカとかだったら俺どうしよう!」
「話を聞け。あと牛島さんのことウシワカって言うな」

 はっとしてポケットに入れていたスマホを見る。時間結構迫ってる。光太郎くんに構っている暇はもうない。ほとんど準備は終わっているけどこれ以上構っていたら余計に長引きそうだ。シッシッと光太郎くんを手で追い払いつつ「じゃ。そろそろ行くから」と声をかけておく。そっちも他の皆さん待たせてるしさっさと行きなよ、という意味を込めて。

!」
「はいはい、なんでしょう」
「俺、絶対オリンピック出るから! 薬指洗って待っとけよ!!」
「いや、首じゃなくて薬指洗うって何?」

 梟谷の人が吹き出しつつ光太郎くんを引きずっていく。ぶんぶん手を振り回してくる光太郎くんに仕方なく手を振り返してやった。

「え、何、公開プロポーズ? というか彼氏いたんだ? まさかのボクトかよ」
「プロポーズじゃないし彼氏でもない。幼馴染だよ」
「いやいや、ただの幼馴染と結婚の話しないだろ」

 面白そうに笑う太一と瀬見さんを追い払って、帰り支度を進める。忘れ物の確認、この後の日程の確認。頭の中をそれでいっぱいにしてしまう。
 光太郎くんは子どものころからいつもそうだった。無理だと言っているのにやめないし、結構な確率で実現してしまう。わたしができないと泣いているのに、光太郎くんは笑ってできると言う。そんな光太郎くんが羨ましかった。わたしにとってはヒーローみたいで頼もしかったものだ。
 小学生のころ、大好きなおばあちゃんが入院してしまったことがある。わたしの家から病院まではバスで十分ほどの距離。今のわたしからすればとても近い場所だ。でも、小学生のわたしにはとてつもなく遠いものだった。小学校へは徒歩で通っていたし、バスや電車は両親としか乗ったことがない。おばあちゃんのお見舞いは母か父が一緒じゃないとできない。そう思っていた。
 学校帰り。通りがかった民家にとてもきれいな花が咲いていて、おばあちゃんにも見せてあげたいとぼんやり眺めていたら、その家の人が出てきて花を切ってくれた。すぐ枯れてしまわないように処理までしてくれたから、どうしてもおばあちゃんに見せてあげたくなった。でも、その日は両親の帰りが遅い日。病院へのお見舞いはもちろん行けないと分かっていた。
 一緒に帰っていた光太郎くんにそれを話したら「え、じゃあ二人で行こうぜ!」と当たり前に言ったから驚いた。だってバスに乗るお金を持っていないし、そもそも病院がどこにあるかわたしじゃ分からない。だから絶対に行けない。無理に決まっている。光太郎くんにそう言ったら「大丈夫だって!」と笑顔で言った。光太郎くんは通りがかった人に片っ端から病院の場所を聞いて、ひたすらに歩いた。道に迷っても、日が暮れ始めても、光太郎くんは弱音を言わなかった。やっぱり無理かも、なんてことも言わなかった。
 病院についたころには、もうとっぷり日は暮れていた。病院の受付の人に「二人だけで来たの?!」とひどく驚かれたし、ちょっと叱られた。二人ともランドセルを背負ったままだったから、学校帰りにそのまま来たと一目で分かったのだろう。わたしの母に連絡してくれたその人にお礼を言ってからおばあちゃんの病室に通してもらって、もらった花をおばあちゃんに見せた。おばあちゃんは満面の笑みで喜んでくれたし、二人だけで来られたことを手放しに褒めてくれた。そして、何度も「ありがとうね」と言った。それが、嬉しくて、嬉しくて。
 もちろん迎えに来てくれた母にしこたま怒られた。光太郎くんも帰ってからご両親に怒られたらしかった。けれど、あの日見た夕日と光太郎くんの笑顔は、確実にわたしの何かを変えてくれたものになっている。

「ただの幼馴染≠ニは言ってないでしょ」

 わたしにとって光太郎くんは、特別な存在なのだ。昔からずっと。






▽ ▲ ▽ ▲ ▽







 通勤バッグからICカードを取り出す。今日も一日頑張った。お疲れ様、自分。そんなふうに心の中で自分を褒めてから一つ息を吐く。
 社会人って結構大変だ。上司の機嫌一つで一日の良し悪しが決まってしまう。仕事の進み具合によってプライベートの時間が増減する。自由なんてものはあまりない。できることよりできないことのほうが多い。嬉しいことよりしんどいことのほうが多い。そんな日々。
 白鳥沢学園高校を卒業して、宮城県内の短期大学へ進学した。短大を卒業してから宮城県内の一般企業に就職し、職場の近くで一人暮らしをはじめた。まあ、よくある普通の人生だ。なんの変哲もなければ面白みもない。普通すぎて特に説明することがないほど。
 職場の最寄り駅から電車で三駅。家賃が安くてバストイレが別、近くにスーパーとコンビニがあって、駅から歩いて十分以内という条件を満たしている自宅への道を歩く。薄暗い道を街灯がほんのり照らしている。一本隣の道を車が走る音。名前が分からない鳥の鳴き声。そんな音を聞きながらぼんやり何を食べようか考える。昨日作った煮物が残っているから、何か副菜を作らないと。そんなふうに。
 違うことが、本当は頭の中を支配している。最近はスマホを見ていないしテレビを観ないようにもした。なるべく情報が入ってこないように遮断していたのだ。職場の人が芸能人の誰々が結婚したとかなんとか話しているときも、わたしだけ何が何だか分からなかった。
 来る東京オリンピックの特集が連日報道されている。まだ先の話だというのに続々と出場選手が発表され、合宿がはじまっただのなんだのと騒いでいるらしい。マイナースポーツだろうがメジャースポーツだろうが関係なく選手の特集が組まれている。そして、男子バレーボールの出場選手もそろそろ登録されると聞いた。
 いつも笑顔で、悩んでいる顔やつらそうな顔を見せる人ではなかった。脳天気で恐ろしく楽観的でプラス思考で、そのくせどこか核心を突いてくる。普通の人にはない何かがある。そんな人。そうだとしても、オリンピックに出るなんてことは、多くの困難があるだろうし悩みも一つや二つでは納まらない。すごい人がごろごろいるところで己はさらにすごいのだと示さなくてはいけない。わたしの想像ができないほどのものだと思う。だから、わたしは、無責任に「できる」なんて言えなくて。
 マンションの階段をあがっていく。夜は誰かとエレベーターで乗り合わせるのが怖いから階段を使っているのだけれど、これが割と健康によかったらしい。今では四階までは息が上がらないくらいになった。わたしの部屋は五階。もう少しで息が上がらないまま自分の部屋にたどり着ける。体力がついてきていることに毎日喜びを覚えている。
 今日はお気に入りの入浴剤を入れてゆっくりお湯に浸かろう。いつも控えめにしか使っていない化粧品をひたひたに使って、大好きな音楽を聴きながら眠ろう。そんなことを考えながら五階まで階段をあがり、部屋に向かって体の方向を変えた。

「あ、!」

 当たり前のようにそこにいた。ドアにもたれかかっていた体を起こして、こっちに手を振って満面の笑みを浮かべている。

「……不審者なんだけど」
「だって連絡しても返信なかったから!」
「あー……最近スマホ見ないようにしてたから気付かなかったのかも。ごめん」

 いや、普通に会話をしているけど、ここ、宮城県なんですけど。何してるのこんなところで。本当なら今頃は東京にいるはずなんじゃ? そんな疑問を思い浮かべつつも、きゅっと口を真一文字に閉じるよう心がける。そんなわたしを見て、光太郎くんは「なんか嫌なことでもあった?」と首を傾げた。
 別に嫌なことなんか一つもない。たとえ仕事で失敗していたとしても、上司に怒られたとしても、意地悪な先輩にこき使われたとしても。今日は、何一つ、嫌なことなんかなかった。不思議と、そう言い切れる。
 バッグから鍵を取り出そうとした左手を、光太郎くんが握った。「あのさ」と言った唇は赤くて、とてもはつらつとしているように見える。ああ、何か、とてもいいことがあったのだろうなあ。そう分かるほどに。

「約束、覚えてる?」

 小学生のときも、中学生のときも、高校生のときも、大学生のときも。光太郎くんは少なくとも一年に一度は必ずこの質問をしてきた。いつも明るく元気に。けれど、この日ははじめて、その声がいつもと違っていた。空気が揺れている。とてもとても慎重に、大事なものを手に取るような声だった。
 指先を掴まれている。その手がとても熱くて驚いた。光太郎くんでも緊張するんだ。中総体だろうがインハイだろうが春高だろうが、この先のどんな試合だろうが、ただの一度も緊張している姿なんか想像さえしたことがない。幼馴染の手を握って、幼馴染に何かを告げるだけなのに、緊張するんだ。それが、とても。

「覚えてるよ。でも、光太郎くんじゃ無理だってば」
「無理じゃない」

 いつもの返しと違って、とても静かな声だった。いつもなら楽しそうに言い返してくるのに。

「結婚して」

 はにかむように顔が緩んだ。子どもみたいな顔に、瞬きを忘れてしまう。光太郎くんはずっと変わらない。ずっと、ずっと。無理なことなんか一つもなくて、嫌なことは全部吹き飛ばしてくれて、いつでも眩しくて、ずっとわたしの特別のまま。
 バレーボール選手として活躍している光太郎くんの姿を、実はあまりちゃんと見たことがない。国際大会の代表選手に選ばれたことも本人か人伝に知るばかり。試合が中継されていてもあまり見ないままだった。
 見ていられなかったからだ。光太郎くんが活躍するたび、光太郎くんが注目されるたび、期待してしまって。一人で勝手にテレビの中にいる人にどきどきしてしまうのが恥ずかしくて、見ていられなかった。いくら光太郎くんでも、ころっと気持ちが変わっているかもしれない。昨日は変わっていなくても今日は変わっているかも。今日は変わっていなくても明日には変わってしまうかも。そんなふうに考えたくなくて、バレーボールに関する情報を見ないようにしてきた。

「俺、オリンピック出るよ」

 光太郎くんがポケットから何かを取り出した。見なくても分かる。リングケースだ。わたしにそれを見せてから、左手を掴んでいた手を離す。そっとリングケースを開けてから、もう一度「結婚して」と無邪気なのに静かな声で言った。
 決してこのために光太郎くんは頑張ったわけじゃない。もちろん、これは一つの過程であって結果ではない。オリンピックに出ることは光太郎くんにとって一つの目標として存在していて、このための手段だったわけじゃない。そう分かっていても、わたしは、子どものころの約束が果たされたことが。

「……光太郎くん」
「うん」
「あのね」
「うん」
「それ、まだ発表されてないよね?」
「へ?」
「まだ正式発表してないよね? いつ聞いたの?」
「え、今日の朝に……」
「光太郎くん。それ、偉い人にまだ内緒だよって口止めされなかった?」
「さ、された……」
「そうだよね。偉い人は光太郎くんは絶対言っちゃうって分かってたから言ったんだろうね」
「そう、かも……?」
「だから、わたしに言っちゃだめだよね?」
「はい……」
「それになんで宮城にいるの? 昨日まで東京にいたよね?」
「はい……」
「ずっとスマホ鳴ってるね? 絶対関係者の人からだよね? ちゃんと誰かに宮城に行くって言った?」
「イイエ……」

 とりあえず電話に出させた。光太郎くんはしょんぼりしたまま電話に出た。「ハイ……今宮城に……え、プロポーズしたくて……」と元気がない声で話し、最終的に「すぐ戻ります……ハイ……」と言って電話を切った。かなり怒られたらしいことは内容を聞かずとも分かる。当たり前だ。もう大人なんだからそれくらいは分かってよ。ため息をつきつつそう呟くと、光太郎くんは「ごめん……」としょんぼりした声で言うだけだった。しゅん、と耳が下がっている大型犬みたいだ。そう思うとちょっと笑いそうになる。
 子どものころ、わたしは理不尽なわがままで母に怒ったことがある。今となっては笑い話なのだけれど、わたしは母にこう言った。「どうして一年早く産んでくれなかったの」と。一年早く産まれていれば、光太郎くんと同級生になれたのに。そうわたしは母に怒ったのだ。
 大人にとっての一歳差と、子どもにとっての一歳差は意味がまったく違う。子どもにとっての一歳差は世界ががらりと変わるほど大きなものだった。光太郎くんの友達をわたしは誰一人知らないし、光太郎くんが何をしているか何も知らない。わたしが知らない間に光太郎くんには大事なものができていくし、光太郎くんを大事に思う人もたくさんできていく。光太郎くんを特別だと思う人はわたしだけじゃない。そして、光太郎くんにとっての特別な人も、きっと、わたしだけじゃない。絶対に一等賞は取れない。
 なんとなく愛着があってわたしを好きだと思っているだけ。そう思った。だって、わたしは特別な何かを持っているわけじゃないし、何かしてあげられるわけでもないから。光太郎くんと違って、わたしには何もない。あるのは気持ち一つだけだった。
 子どものころの口約束なんて、大人になったら思い出話でしかない。ずっと一緒にいようね、と約束したのに縁が切れた友達が何人かいる。大人になってからの口約束なんてものは余計にそうだ。今度ご飯行こうね、と言っても実現した回数のほうが少ない。約束なんてものは所詮その程度のもので、絶対的に守られるわけではない、のに。

「だって約束したから……」

 無邪気に小指を絡めて、指切りをしたことを覚えている。ゆびきりげんまん、うそついたらはりせんぼんのーます、ゆびきった! 歌うように光太郎くんが言ったのを、昨日のことのように思い出せる。子どものころは何一つ言葉の意味を理解していないから笑って無邪気にそう指を切った。わたしも光太郎くんも。
 あの日の指切りが、光太郎くんの中にずっと残っていた。わたしがあの指切りをどれほど嬉しく思ったか知らないだろうに。わたしがあの指切りを、今も思い出していることさえも、知らないだろうに。

「光太郎くん」
「はい……」
「あのね」
「うん?」

 まだ耳が下がった大型犬みたいな顔のまま、光太郎くんがわたしを見た。不思議そうに小首を傾げている。
 わたしね、光太郎くんが、初恋なんだよ。そう言ったらどんな顔をするだろう。おしゃれとしてでも、おもちゃのものでさえも、左手の薬指には指輪をはめたことがない。意味は分からなかったけど、光太郎くんが洗って待ってろって言ったから。そう言ったら、どんな顔をするんだろう。
 わたしの顔を覗き込んで見当違いな謝罪ばかりしてくる。なんて言おう。どれから言おう。そう考えていたら自然と笑ってしまった。

うわさのコウタロウくん


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