ぱしん、といい音がした。静かだった室内に響いたその音は、わたしの意識をハッと現実に呼び覚まさせるには十分すぎる。あ、やっちゃった。叩いちゃったよ。内心でそう反省はしたけれど、すぐにわたしは悪くないとぶんぶん首を横に振った。

「ってえな。叩くな。口で言えよ」

 左頬を押さえながらわたしに文句を言っているのは二口堅治。半年前に別れた元カレだ。元カレ、という紹介より小学校からの幼馴染というほうがいいかもしれない。悪さをするときはいつも一緒だったし、何かに悩むときも大体いつも一緒にいた。家族同然という言葉が即する関係だと思う。
 今日は堅治の部屋で二人並んでベッドをソファ代わりに座り、どうでもいい話をしていた。いつものことだ。何も変わったところはない。ネットで見つけた動画をスマホで見せ合ったり、隣にいるのに意味もなくメッセージアプリでやり取りをしたり。何も目的はない。ただ一緒に時間を過ごしているだけ。そのはずだった。
 なぜわたしが堅治のことを引っ叩いたかというと、突然キスをかましてきたからである。

「半年前に別れた元カノに許可なくキスしたら叩かれて当然だと思います」
「いかなる理由でも暴力は許容されるものではないと思いまーす」
「正当防衛だ馬鹿」

 ごしごしと服の袖で唇を拭くと、堅治が「ひっでーやつ」と笑った。笑い事じゃない。元カレにキスされても嬉しかねーんだよ。堅治が左頬をさすりつつ、ほんの少し口を尖らせた。拗ねるな。完璧に今のは堅治が悪いんだから。
 堅治と別れた理由はくだらないものだ。デートに行ったときのわたしが穿いていた靴下を「からしみたいな色」と言われてムカついた。たったそれだけ。大喧嘩になってお互いの口から「もう別れる!」と飛び出たから別れた。本当にたったそれだけの、人様に説明するのも恥ずかしいだけの理由。
 別れた次の日からお互い喧嘩をしたことなど忘れたように普通に接している。でも本当に別れてはいる。そんな不思議な空気感に事情を知っている友人でさえ困惑気味だった。元々子どものころから、ずっとそうなのだ。どんな大喧嘩をしても次の日にはお互いけろっとしている。高校生になろうが恋人になろうがそれは変わらないというだけの話。まあ、別れてはいるのだけれど。
 堅治の様子がおかしいと気付いたのはつい三日前。今日のように堅治の部屋で暇つぶしをしていると、なんだか妙に堅治が優しかった。寒いんじゃないかと膝掛けを渡してくれた。何急に、きもいよ。そう悪態をつくわたしに文句も言わなかった。ふかふかのクッションを貸してくれたり、帰りは家まで送ってくれたり。その堅治の微妙な変化は現在進行形で続いていて、先ほどもその一つの例だった。今日も今日とて堅治の部屋で暇つぶしをしていただけだったのに。

「最近なんか変じゃない? ストレス溜まってるの?」
「なんでそうなんだよ、馬鹿かよ」
「人のことすぐ馬鹿って言うの、子どもっぽいからやめたほうがいいよ」

 頭をがしがしとかく。それを見て、おや、と思った。その仕草は照れているときにすることが多い癖だったから。しかし、何に照れる場面だっただろうか。よく分からなくて言葉を出すのをためらってしまう。堅治は一瞬視線を逸らしてからまたわたしを見ると、小さく舌打ちをこぼした。

「あの、さ」
「はい」
「なんつーか……」

 珍しい。いつも思ったことをズバッとストレートに言って問題を起こすやつなのに。言葉に詰まっている。口が達者で態度が生意気。基本的にそういう人だと子どものころから認識している。今更何を言い淀むのか。何を言われてももうびっくりしないのに。
 堅治はしばらくもごもごとしていたけれど、どこかのタイミングで腹をくくったらしい。一度ゆっくり呼吸をしてから静かにわたしを見つめた。

「……戻り、たいんだけど」

 ハテナ。首を思いっきり傾げてしまう。戻りたい。どこに? シンプルにそんな疑問を投げかけてしまうと、堅治ががっくり項垂れる。ぼそりと床に向かって「ふざけんな……」と吐き捨てたのが聞こえた。突然そんな悪態をつかれたら床ちゃんびっくりしちゃうじゃん。カワイソー。形がやけにきれいなつむじをツンツンと指でつついてやる。琥珀色が混ざったような茶色の髪。つやがあっていつ見てもムカつく。わたしよりきれいな髪してんじゃないよ。そんなふうに何度憎く思ったことか。
 堅治の髪がさらりと揺れた。顔を上げた堅治はなんだか居心地が悪そうな顔をしている。わたしのことを恨んでいるような顔。そんな顔をされる理由はないのに。「なんでしょうか」と笑いつつ鼻をつついてやる。いい気味だ。そう噛みしめておく。
 わたしの堅治の関係には続きがある。わたしと堅治は幼馴染で元恋人という関係で間違いはない。ただし、別れたことがあるのは一度だけではない、という補足が本来は必要。そしてさらに補足。いつもよりを戻すきっかけはわたしが作っていた、というのが最終補足。
 今回はわたしが最終補足の通りに動かなかった。よりを戻したいと言わなかったのだ。これまでは早くて一週間、長くても二か月で言っていたのに。

「え? なんて? 聞こえな〜い」
「お前マジでふざけんな」
「聞こえないし心に響いてこないんだもん。言われなかったのと一緒でしょ」

 ふふん、と得意げに笑ってやる。わたしだってやり返すときはやり返します。堅治はいつも、わたしがよりを戻したいと言うとからかってきたから。いつも悔しかった。悔しいけど、好きだから仕方がない。そう割り切って甘んじてからかわれていた。だから、その仕返し。
 堅治がわたしの頭を片手で掴んだ。そのままわしゃわしゃと撫で繰り回すように左右に動かす。乱暴すぎる。犬じゃないんですけど。そうクレームをつけると「犬ならもっと優しく撫でるわ」と反論が入った。いや、わたしのことも優しく撫でなよ。動物には優しいところは嫌いじゃないけれど。

「……好きだから、もう一回、付き合え」
「暴君か」
「悪いかよ」

 悪いに決まってんじゃん。暴れる君主と書いて暴君なんだから。けらけら笑いつつ「ま、いいよ」と口が勝手に返していた。我ながらちょっと軽かったかも。
 びっくりした。正直すごく、すごく、ときめいた。好きなんて言ってくれると思わなかったから。今すぐ飛びついて撫で繰り回してやりたい気持ちだ。そんなことをして痛い目を見るのは自分だとよく分かっているからしないけれど。
 堅治がちょいちょいと手招きしてきた。あーあ、ずっと仕返ししてみたかったのが叶ったからか、やけに堅治がかわいく見える。かわいさの欠片もないデカい図体の生き物なのに不思議だ。にこにこしたまま、すす、と静かに近付いて「なんでしょうか、ダーリン」なんてちょっとふざけてやる。堅治は「ふざけんなハニー」と一応ノってくれた。これもなかなか珍しい。こういううざいノリ、本当に機嫌が良いときしかやってくれないのに。

「抱きしめろ」
「何? どうしたの? 今日めちゃくちゃかわいいけど大丈夫?」
「うるせーなさっさとしろ」

 はいはい、お望み通り。座っている堅治の膝に対面で座ってやる。ばっと両腕を広げて「どんと来い」と言ってやると、堅治がちょっと嫌そうに「マジでムードねえ〜」と言いつつも体を預けてきた。わたしたちの間にムードなんて元々ない。諦めろ。笑いつつ抱きしめてやる。

「堅治きゅんはおちゅかれでちゅね〜」
「気持ち悪いことすんなマジで……萎える……」
「大好きな彼女に向かってそれはなくない?」
「大好きな彼氏の好みを把握しろ馬鹿」

 赤ちゃん言葉NGね。覚えときます。わははと笑いつつ堅治の頭を撫でてやる。わたしの胸元に顔を埋めている堅治が一つ息をついたのが分かった。本当にお疲れか? 珍しい。部活で何かあったのだろうか。

「硬いブラつけんなよ……」
「おい、なんか静かだなと思ったらお前」
「いてーんだってマジで。なんだよこれ凶器か?」
「あ、怒ったぞ。お前はわたしは怒らせたぞ」

 堅治が顔を上げた。わたしの胸は枕じゃないです。文句を言う権利はお前にはありません。デコピンをかましてやると、そのあとに、堅治の右手がわたしの頬をすべった。親指の腹がゆっくりわたしの頬を少しだけ押す。ふにふにと少しだけ触った手が離れてから、今度はそっと顔が近付いた。あっという間に唇が奪われて、すぐに解放される。瞬きひとつの間の犯行だった。

「怒ってるように見えないけど」

 勝ち誇ったような顔をされた。相変わらず、いけ好かない。ムカつく。でもたぶん永遠に好きなんだろうな。なぜかそう分かってしまう自分がいた。

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