ツイていない。ぽつりと呟いて見上げた空は、どす黒い雲に覆われた荒れ模様。びゅうびゅう強い風が吹いて大粒の雨が降り注いでいる。突然荒れた天気に対応できる準備は何一つなく、大急ぎで駆け込んだお店の軒下で立ち尽くしている。
 春先の冷たい雨は体を凍えさせるには十分すぎた。もうコートが必要なさそうだと思ったから、羽織っているのはブレザーのみ。カーディガンは洗濯に出してしまっていたので着てこなかった。それでも雨さえ降らなければ寒さに震えることなんかなかったのに。そんなふうに空を睨んでしまう。通り雨だろうし、しばらく我慢すればどうにかなるだろう。そう一人でため息をつきつつ空を睨むのはやめてやった。

「あれ、さん? 傘持ってないの?」

 突然聞こえた声にびくっと震えた。視線を左のほうへ向けると、傘を差している古森くんの姿があった。その姿を確認してからさっと目を逸らしてしまう。なんで、古森くんが声をかけてくるの。そんなふうに内心呟いて。
 一週間前。二年生に進級したばかりの放課後、古森くんに声をかけられた。連れて行かれたのは人気のない中庭。そこで、わたしは人生ではじめて、告白をされたのだ。
 一年生で同じクラスだった古森くんとは特別仲が良いというわけではなかった。何か用があれば話す、くらいの関係。悪い印象もなければ特別良い印象もない。そんな相手でしかなかった古森くんからどうして告白されたのか分からなくて、動揺したまま「ごめんなさい」と断った。それ以来、古森くんとは言葉を交わしていなかった。

「天気予報、晴れだったもんね。置き傘してなかったの?」
「あ、う、うん」
さん電車だよね? 俺も駅に行くから一緒に行こうよ」

 古森くんがわたしに近付いてきて、お店の軒下に入ってくる。一度傘をたたむと「ちょっとだけ持っててくれる?」とわたしに傘を渡してきた。よく分からなかったけど、ひとまず傘を受け取っておく。古森くんは肩にかけているスポーツバッグを開けて中を探り、ぐいっと何かを引っ張り出した。黄色と黄緑色。バレー部のジャージだとすぐに分かった。

「ブレザー脱いでこれ着たほうがいいよ。どうぞ」
「え、いや、でも」
「いいからいいから。寒いでしょ?」

 にっこり笑ってずいっと手渡されてしまうと、なんだか断りにくくて。恐る恐るジャージを受け取ると、古森くんはわたしが預かっていた傘をさり気なく持って行った。それから「鞄、持つよ」と右手を伸ばしてくれる。渡していいものかどぎまぎして悩んでいると、古森くんが不思議そうに首を傾げた。「さん?」と言いながらわたしに少しだけ顔を近付けてくるものだから、慌てて鞄を渡す。古森くんは小さく笑って鞄を受け取ってくれた。
 濡れたブレザーを脱いで、ちょっとためらいつつ古森くんのジャージを広げる。本当に着てもいいのかな。わたし、古森くんのこと、振ったのに。気まずい気持ちをぐるぐるこねくり回していると、古森くんがわたしが片腕にかけたブレザーを回収してくれる。「シャツは無事?」と朗らかな顔を向けられたので「あ、うん」と慌てて返事をした。

「着ないの? 風邪引いちゃうよ?」
「あ、あの……これ大事なジャージなのに、わたしが着ても大丈夫?」
「いいよ。さんだから」
「……そ、そう、ですか」
「うん」

 どうしてそんなにまっすぐにわたしを見てくれるのだろう。自分を振った相手なのに。普通ならそっぽを向いて拗ねたり、気まずい顔で目を逸らしたりするんじゃないだろうか。こんなふうに優しくしてくれるのも戸惑ってしまう。
 古森くんのジャージをそっと着る。背が高い古森くんのジャージはとても大きくて、すっぽり体が包み込まれてしまった。知らない匂いがするのが気恥ずかしくて古森くんの顔を見ることができない。ジャージを借りなくてもとっくに体はぽかぽかと暖まっていた。

「あ、鞄、ありがとうございます……」
「うん。あ、ジャージの前、締めたほうがいいよ」
「は、はい」

 わたしがジャージのファスナーを閉めようとしていると、古森くんが傘を開いて「どうぞ」と声をかけてくれた。ファスナーを閉めつつ傘に入ると古森くんが歩き出してしまう。あの、鞄とブレザー。そう声をかけても古森くんは「ん?」と笑ってはぐらかしてくる。
 よく、分からない。わたしは古森くんを振ったのに、どうして優しくしようとしてくれるんだろう。気まずい顔をして見なかったふりをして通りすぎてくれたらよかったのに。優しくされるとわたしばかりが気まずい気持ちになってしまう。それを煩わしく思う自分がいて、罪悪感も生まれてしまった。

「古森くん、鞄とブレザー……」
さんってなんで部活入らなかったの?」
「えっ? 入りたいものがなかったから、だけど……?」
「家に帰ってからとか休みの日は何してるの?」

 にこにこ笑って会話をしてくれる。古森くんの口調はとても穏やかだけどどこか楽しさを感じられるもので、聞かれたことにはつい答えてしまう。無理やり途切れないようにしている会話じゃなく、自然と途切れない会話のテンポはとても心地良い。
 鞄とブレザーは古森くんが持ってくれたままになっている。持ってもらったままだと悪いから返してほしいのに、さっきからはぐらかされてばかりでなかなか言い出せない。このまま持ってもらって、いいのかなあ。どこまで突っ込みを入れていいのか分からなくて戸惑いっぱなしだ。
 わたしがあわあわしている間に駅に到着してしまった。傘をたたんだ古森くんが「さんってどっち方面だったっけ」と聞いてきた。電車の方面を答えると「残念。反対だね」と言って小さく笑った。それからようやく鞄とブレザーが手元に帰ってくる。持ってくれてありがとうと古森くんに伝えつつ、借りているジャージを脱ごうとファスナーに手を伸ばす。それを遮るように古森くんが「さん」と声をかけてきた。

「帰ったらすぐお風呂入って温かくしなきゃだめだよ。風邪引いちゃうから」
「あ、う、うん。ありがとう」
「じゃ、もう電車来ちゃうみたいだから。ここで」
「え、古森くん、ジャージ、」
「あとこれ。はい」

 無理やり握らされるように傘を押しつけられた。びっくりして思わず持ち手を握ってしまった瞬間、古森くんがぱっと手を離した。そうして「じゃあね」と手を振って、ぴゅーっと走っていってしまう。え、傘、なんでわたしに? まだ雨降ってるのに! そう追いかけようと走ってホームに続く階段に足を向けた瞬間、電車が到着した音が聞こえた。古森くんが乗る電車だ。どうしよう、間に合わない!
 焦っている間に、電車から降りてきた人が続々と階段を上がってくる。走って階段を下りることができなくて、あわあわしている間に、電車が走り去った音が聞こえた。やっぱり間に合わなかった。ジャージも傘も借りたままなのに。古森くん、最寄り駅から家までどれくらいかかるんだろう。傘がなくても大丈夫な距離なのかな? そもそもこんな雨の中ではたとえ歩いて五分でもびしょ濡れになることは必至だ。どうしよう。なんで貸してくれたんだろう。
 駅のホームにたどり着いたけれど、当然のように古森くんの姿はない。少し息が上がってしまっている。ほとんど人がいなくなったホームで項垂れて呼吸を続けていると、びゅうっと強い風が吹いた。古森くん、大丈夫かな。風邪引いちゃったらどうしよう。そんな心配をしつつも、立ち尽くしていてもどうにもならない。諦めて自分が乗る方面のホームへ向かった。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




「あ、さんだ。おはよう」

 朝、古森くんを教室前で待ち伏せた。バレー部の朝練終わりの古森くんは何事もなかったようにわたしに手を振っている。隣を歩いていた佐久早くんはわたしを通りすぎてさっさと教室へ向かっていった。

「昨日大丈夫だった?」
「わたしは大丈夫だけど……あの、ジャージと傘、ありがとう。傘は古森くんのクラスの傘立てに戻しました」
「本当? わざわざありがとう〜」
「あと、これ。ジャージ。ちゃんと洗濯してあるので……」
「えー、そんなのいいのに。ありがとう」

 なんで古森くんにお礼を言われているのだろうか。申し訳ない気持ちのまま「こちらこそありがとう。ごめんね」と頭を下げる。古森くんはジャージを受け取りながら「なんで謝るの」と不思議そうに笑った。

「あの、古森くん」
「うん?」
「その……なんで優しくしてくれるの? だってわたし……」
「なんでって、さんだからだよ?」
「え」
「あと自分が得したいっていう下心もありかな」

 得って、何かあったっけ。困惑しながら首を傾げる。だって、古森くんはわたしに声をかけたことでジャージを貸す羽目になったし、傘まで貸す羽目になった。駅まで相合い傘をしなくちゃいけなくなったし、話し下手なわたしに話題を振らなくちゃいけなくなった。何一つ得をしているとは思えないのだけれど。
 古森くんが小さく吹き出した。くすくす笑ってから咳払いをすると「気にしないで」とわたしを見て言う。なんで笑われたんだろう。告白された瞬間から、古森くんのことがよく分からなくなってしまって困る。

さん」
「は、はい」
「もう少しだけ頑張ってもいい?」
「……うん? 何を?」
「秘密」

 いたずらっぽく言われてしまった。何のことだかよく分からない。部活とかかな? 分からないまま「えーっと、頑張ってね?」と伝えたら、古森くんがまた吹き出した。

幾つもない愛のかたち


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