06

わるいことしよ


 優しい手はわたしを暗闇から救い出すように、ひたすらに温かかった。ぐずぐず鼻をすすりながら歩く女の手を引いて歩くのは少し気が引けただろうに。堅治はただただ黙って、ネオンが茶化してくる夜道をまっすぐ歩いてくれた。いかがわしいラブホ街を抜けて駅のほうへ。どんどん呼吸がしやすくなる。どんどん夜が明けていくように見える。まだ真夜中のど真ん中だというのに。そんな不思議な感覚だった。
 駅のそばでタクシーを拾う。電車、乗らないの? そんなふうに堅治の顔を見上げると、わたしの視線に気付いてくれた。堅治は目線だけわたしに向けて瞬きをする。わたしは何も言っていない。それでも何が言いたいのかすぐに分かったらしい。「気分じゃない」とだけ言って「いいから乗れ」とわたしをタクシーに押し込んだ。
 タクシーの運転手に行き先を告げる。堅治の家の住所だ。わたしのことも連れて帰ってくれるらしい。それが、嬉しかった。

「なあ、腹減ってない?」
「……飲み会終わりにラーメン食べたばっかりなんですけど」
「俺は減った。帰ったら何か作って」
「わたしが? やだよ。インスタントか何か食べたら?」
が作ったものがいい」

 だから作って、と言ったっきり堅治は窓のほうに顔を向けて、喋らなくなった。わたしに拒否権はないのか。まあ、迷惑をかけた身だから、従うしかないのだけど。分かった、と独り言のように返しておく。わたしも窓の外に目を向けて、ただただ、流れる街の明かりを見つめ続けた。
 堅治の手がわたしの手を握り続けている。時折ぎゅっと強く握ったり、指で肌を撫でるように触ったり、意識しているのか無意識なのか分からない握り方だ。わたしはそれに何も言わない。ただずっと、同じ力で堅治の手を握り返して、息を潜めるようにしている。
 どうしてわたしとセックスしたの。一度の過ちだったなら、まだ笑って流せたかもしれないのに。わたしはその夜のことをずっとずっと隠し持って、何事もなかったように過ごせたかもしれないのに。どうしてまたわたしに触れようと思ったの。どうしてキスするの。どうして優しく触れるの。どうして、どうして、どうして。積もり積もったそれの答え合わせがすぐそこまで迫っている。わたしはそれが、少し、怖かった。
 堅治はいい男だと思う。真面目ではないけど不真面目でもなくて、チャラいというほどではないけど程良く軽くて。気楽に話せるし、なぜだか信用できる。嘘は吐くけど、相手を騙すことはしない。彼女ができたら浮気はしないだろうし、もし好きな人が他にできたとしたらすぐに彼女と別れるタイプ。長年堅治と付き合いがある人じゃないとこの感覚は分からないだろう。基本的に第一印象は悪くなりがちな人だから。可哀想なことに。まあ、全部わたしの勝手なイメージだ。本当の堅治は、堅治しか知り得ない。
 タクシーが見慣れたマンションの前に停まる。堅治がさっさと支払いを済ませようとするから慌てて財布を出すと「しまえ」とだけ言われた。なにそれ。奢られる筋合いないんですけど。そうぽつりと呟いたら「かわいくねーから黙ってろ」と笑われた。笑うな。ムカつく。かわいくねー女で悪かったな。そう拗ねつつ、仕方なく財布は鞄にしまった。
 堅治の家、なんだか久しぶりに来た感じがする。そりゃそうか、これまではほぼ毎日来てたのに、今日は二週間ぶりだ。一人で笑ってしまう。二週間も来てなかったんだ、わたし。それは一大事だ。堅治があんなにたくさん連絡してきたのも頷ける。一大事に違いなかったんだね、わたしにとっても、堅治にとっても。

「あ、やべ、冷蔵庫の中何もないわ」
「え、じゃあ何も作れないじゃん。どうすんの」
「どうすんの」
「わたしに聞かれてもね」
「小麦粉とパン粉はある」
「いや、結局何もできないじゃん。固めて食べる?」

 堅治が「絶対無理」とけらけら笑う。部屋の明かりを付けて、ぱっとわたしの手を離した。でも、不思議と寂しくはない。だってここ、堅治の家だし。手を繋ぐよりも内側に、堅治に近付いているような感じだし。
 食品のストックを見ながら堅治が「マジで何もねー」と独り言を呟く。わたしが来なくなった間、自分で買い足しなさいよ。そう思ったけど言わない。それが、なぜか嬉しかったから。わたしがいなきゃ何にもできないのかよ。そう笑ってやりたい。そのほうがわたしにとっては都合が良いから。
 がさがさ漁っていた感じが「お」と嬉しそうな声をあげた。何か生き残りがいたのだろう。後ろから覗き込みながら「何?」と聞いてみる。堅治がわたしを振り返りながら笑って「塩ラーメン」と嬉しそうに言った。

「ラーメン食べたばっかりの人間にラーメン作らせるの?」
「どうせクソまずかっただろ。口直ししとけ」
「味はおいしかったから。店長さんに謝れ」

 というか、これ手作りの料理じゃないんですけど。そう言いつつ一応塩ラーメンの袋は受け取る。コートを脱いで、鞄は堅治に預けた。わたしが作ったものがいいって言ったくせに。そう内心拗ねている。堅治はわたしの鞄を持ったままベッドに腰を下ろすと「がお湯沸かしてが麺茹でてがスープの粉溶かすんだから立派に手料理だろ」と言った。いや、違うと思う。そう言ってくれるなら楽で助かるけどね。
 お湯が沸くまでに器の準備と、お茶の準備もしておいた。わたしが買っていたお茶っ葉。最後に見たときは袋の半分くらいまで入っていたけど、三分の一くらいまで減っている。一人でもちゃんと飲んでたんだ。意外。そういえばさっき冷蔵庫の中を開けていたとき、ペットボトルのお茶が入っていなかった気がする。温かいお茶の良さに取り憑かれたか。良い傾向だ。一人で満足げに鼻歌を歌ってしまった。

「なあ」
「何」
「ここに住めば?」
「なんで」
「なんでも」

 答えになっていないんですが。ラーメンの袋をばりっと開ける。乾燥麺の端がほんの少しだけ砕けてしまう。意外とわたし、不器用なんですよ。実はね。きっと堅治は、意外とじゃねーだろ、と笑うだろう。でも、わたしは器用な子って大体の人に思われてるんだよ。意外と不器用だと知っているのは家族と堅治だけ。なんで家族の中に入り込んできてんの。おかしいでしょ。
 ぼこぼことお湯が沸き立つ音。片手鍋を取り出してコンロの上にセット。それと同時に沸いたお湯を鍋の中に入れ、コンロの火を付けた。麺を入れてしばらく待つ。踊るようにお湯が揺れて、ゆっくり麺がほぐれていくのを見ている。待っている。ずっと、何秒でも、何分でも、何時間でも。わたしはきっと、待ってしまうだろう。
 ベッドから堅治が立ち上がった音。わたしの鞄を机の上に置いた音。こちらに歩いてくる足音。それを聞きながら、箸を手に取る。ずいぶんほぐれてきた麺を箸で手助けしてやる。ほどくように、慈しむように。そんなわたしの背後に堅治が立ったのが分かった。きっと手を伸ばせば届く距離。けれど、ずっと遠く感じた距離だった。


「何」
「彼女になって」
「なんで」
「……かわいくね~」
「悪い男には言われたくない」

 傷付いた。とても。この一年間は、わたしにとっては永遠に続く寒い冬のようだった。好きな人に抱かれているのに、永遠に想いが通じることはないのだろうと泣いた日々。堅治が何を考えているのか分からなくて頭が痛かった日々。男の人なんて女なら誰だって抱けるんだ、と思う自分もいれば、堅治はきっとそうじゃない、と思う自分もいた。いつもわたしの中には二人のわたしがいて、いつもいつも喧嘩ばかりしていた。
 でも、ただのセフレを迎えに、走って来てくれるなんてことは、ないでしょう。ねえ、もう一人のわたし。執着だったとしても、情だったとしても。ただの性欲の捌け口なだけではなかったと、思っていいでしょう。少しは特別な存在だったのだと思っていいでしょう。もう、そろそろ、自分を抱きしめてあげてもいいでしょう。
 ぎゅっと、堅治の腕がわたしのことを抱きしめた。「火使ってるから危ないんだけど」と言うと「かわいくねー、マジで」と堅治が小さな声で呟く。でも、腕は離さない。ぎゅっと後ろから抱きしめてくる力は強いけど、やっぱり痛くはなかった。

「彼女になって」
「なんで」
「……お前さあ」
「言ってくれなきゃならない。一生」

 堅治が悪い男なら、わたしは卑怯な女だと言われるだろう。抱かれたら、少しくらい女として見てくれると思った。だから、わざと一年前のあの日、堅治に抱かれた。家に行く前から決めていた。忘年会がどうとか話の流れとか、そういうのは全部嘘。わたしは元々あの日、堅治に抱かれるつもりで家に行ったのだから。一回そういうことになったら堅治なら、と思っていた。でも、そうじゃなかった。ただ体を重ねるだけ。そんな関係になったことをとても後悔していた。
 後悔していた反面、それでもいいと思う自分もいた。だって、好きな人に抱いてもらえるのだ。こんなに幸せなことはない。キスもしてくれるし、名前も呼んでくれる。抱きしめてくれる。笑ってくれる。ただ、付き合っていないだけ。心がないだけ。そう思っていたけど、それでももう構わなかった。こっそり捨てきれずにいた片思いが、歪な形であれ一応実ったのだ。いつ終わってしまうか分からない関係だったけど、それでも、わたしは構わなかった。ただ、毎日少しずつ傷付いていくだけ。知らんふりをすればどうということはなかった。
 日に日に、期待した。あんまりにも堅治の体温が優しいから。声が優しいから。表情が優しいから。とてもとても、愛おしそうにわたしを見るから。もしかして、なんていつも思った。ずっとずっと思い続けては、はっきりした言葉はないまま。空振りの連続。それでも、期待は消えてくれなくて。
 コンロの火を消す。三分経った鍋の中の麺はゆらゆらと楽しげに泳いでいるように見えた。粉スープを入れてかき混ぜる。しっかり混ぜてから二つに分けてそれぞれ器に入れる。ああ、なんて簡単なことか。簡単なのにおいしいのだから、この世は幸せすぎて困ってしまう。
 一連のわたしの動作を邪魔するように強く抱きしめてくる堅治が、一つ息を吐いた。首元に当たってくすぐったい。それでも、嫌じゃなかった。もっとして。そう言いたくなるくすぐったさだ。

「好きだから、彼女になって」

 堅治は知らない。二回目に抱かれたあの日、堅治のとてつもなくうるさい心臓の音を聞いたわたしがどう思ったかなんて。三回目に抱かれたあの日、堅治の瞳からこぼれ落ちた涙の熱さがわたしの心臓をどうしたかなんて。その手が、その呼吸が、その鼓動が、その体温が。わたしに教えてくれるたびに、わたしが何度言葉を紡ぎそうになったかなんて、堅治は知らないのだ。
 幼稚園からの幼馴染で、腐れ縁で、初恋の人で、片思いの相手で、はじめて抱かれた人。わたしにとっての堅治はそんな存在。どうでもいい、なんてことはない、ただの特別な人。たぶん堅治にとってのわたしもそういう存在なのだと思う。たぶん。きっと。いや、絶対。

「わたし、堅治に出会ってなかったら、もっとまっすぐで清く正しく美しく生きる女だったはずなのになあ」
「おい、人のことをクソ野郎扱いするな」
「嘘も吐かないし、付き合ってない人とセックスもしないし、夜中にラーメンも食べないし、人を試さないし、自分のことをもっと大事にしただろうなあ」
「クソ野郎じゃん。特に最初二つ」
「でも、好きになっちゃったもんは仕方ないよなあ、と思うよ」

 ラーメンが伸びる。早くテーブルのほうに行け。そう足を蹴ってやる。クソ野郎はお互い様だ。今更そこをどうこう言っても仕方ない。そう言うと堅治は小さく笑った。
 仕方なく堅治を引きずりつつラーメンを持ってテーブルのほうへ移動した。重たいし、堅治が食べるって言うから作ったのに。その体勢じゃ食べられないでしょ。ちゃんと食べろ。そう言っても堅治が離れる気配はない。仕方なく手を合わせて「いただきます」と言って、わたしが食べ始める。お腹いっぱいなんだけど。あの小洒落たラーメン、量は少なかったけど野菜とか卵がしっかり入ってて満腹感がすごかったんだよね。
 堅治がようやく顔を上げた。するりと腕をほどいて、何をするのかと思ったら、ラーメンを食べているわたしを覗き込むようにテーブルに頬をつけて寝そべる。じっと見つめてくるので「何」と笑ったら、堅治は「彼女になって」とまた言った。

「わたしが好きなブランドの化粧品買ってくれたらいいよ」
「おい悪女」
「今度デパート行こうよ。何買ってもらおっかな~」
「マジかよ。上等だわ、受けて立ってやる」
「冗談だよ、馬鹿」
「分かってるっつーの、馬鹿。そんなことで彼女にできたら苦労しねーわ」

 食べる、と言って顔をあげた。ようやく食べるつもりになったらしい。箸を渡してやると堅治がラーメンの器を自分に寄せて、ずるずると麺をすすりはじめる。小綺麗な顔をしているくせに食べ方が男って感じがするところが、まあ、なんか好きなんだよね。そこだけじゃないけど。

「ねえ」
「なんだよ」
「わたし、ドライブデートしてみたい」
「は? そんなんで満足すんなよ。ドライブデートついでに高級レストラン行くぞ」
「別に高級レストランはいらないんですけど」
「夜景も見るからな」
「堅治って意外とロマンチスト?」
「うるせーよ。俺にだって憧れのデートプランくらいあるっつーの」

 インスタントの塩ラーメンをすすりながら、ロマンチックなデートプランを披露するな。いろいろぶち壊しだから。というか堅治が高級レストランに夜景? 意外すぎでしょ。そう笑ってしまったら「俺が行きたいとこじゃねーよ」と拗ねられた。だって憧れって言ったじゃん。そう背中を突いてやったら「お前と行ってみたいところ」と訂正された。他の憧れのプランもどんどん出てくるから、わたしが圧倒されてしまう。わたしたち、セックスはしたけどデートはしたことがなかったから、なんか、照れる。一人でそんなふうに思っていると「で」と堅治がわたしの顔を覗き込んだ。

「好きだから彼女になって、って言ってんだけど」
「……いいよ」
「なんで」
「性格悪……」
「うるせーよ」

 堅治がスープを飲む。食べるの早すぎでしょ。そう呆れていると、堅治の肘がわたしの腕をつついた。催促。それに、こっそり笑った。

「堅治のことが大好きだから、いいよ」

 堅治がむせた。ごほごほと苦しそうに咳をして、一旦箸と器から手を離す。雰囲気ぶち壊しなんですけど。最低なんですけど。そう背中をさすってやると「お前のせいだ馬鹿」と涙目で非難された。その情けない顔がかわいかったからキスしてやった。それに余計にむせた堅治は、はじめてキスした少年みたいに真っ赤になった。後退って、口元に手を当てる。そんな堅治ははじめて見たから、余計にかわいく見えて、大笑いしてしまった。