05

君の物は僕の物


 堅治の家に行かなくなって、二週間が経った。最後のあの日、わたしは計画通り堅治より早く起きて、堅治が起きないうちに家を出た。そのことについて堅治からは「声くらい掛けてけよ」とメッセージが来ていた。でも、それも無視。その日から「今日来んの?」「なんで来なかったんだよ」「仕事?」「残業してんの?」と事あるごとにメッセージが届くけれど、無視している。だって、約束をしているわけじゃない。付き合っているわけでもない。別にわたしが堅治の家に行く理由はないのだ。堅治にとってはセフレが家に来なくなって、性欲の吐きどころがなくなったのだろうけれど。
 会社の同輩たちとの飲み会。予想通りちっとも楽しくなかった。大きなため息を吐きつつお店の外で空を見上げると、一番よく話す同輩がこそっと声を掛けてきた。「なんか、思ったより盛り上がらなかったな」と苦笑いをしながら。わたしも同じように笑って「そうだね」と返す。同輩はこそこそしたまま「料理も少なかったし、小腹減ってない? うまいラーメン屋あるから二人で行こうぜ」と言う。それいいね。わたしもちょうど何か買って帰ろうかと思っていたから。そう言ったら「じゃ、決まりな。うまく抜けようぜ」と悪戯っぽく笑われた。
 解散してから、二人でタクシーに乗るからと言って、みんなから離れた。同輩は「こっから歩いて五分くらい」と言いながら夜道を歩いて行く。そのあとで「あ、一応言っとくけど、ラブホ街みたいなところの手前にあるので」とバツが悪そうに言った。そんなつもりはないから安心して、と恥ずかしそうに笑われたので「分かった」とわたしも笑っておいた。
 二人で歩きながら仕事の愚痴を話した。でも、なんか、違う。本音を言えない。堅治の前ではむちゃくちゃなことばかり言っていたから楽しかったのに。まあ、堅治は会社の人じゃないから何言ってもいいし、当たり前か。そんなふうにぼんやり思っていると、同輩がおすすめするラーメン屋さんに到着した。なんか、思っていたより小洒落た店だ。もっとTHEラーメン屋って感じをイメージしていたのに。そんなふうに思いながら、同輩に続いて入店した。
 小洒落た見た目に似合う小洒落たラーメン。店内はカップルや女の子二人組がたくさんいる。こういうのが好きなんだ。なんか意外かも。面食らいつつメニューを見て、とりあえず一番スタンダードっぽいものを頼んでおいた。
 横並びのカウンター席だと距離が自然と近くなる。肩がぶつかるくらいの距離だ。同輩は特に気にしていない様子で楽しそうに話している。わたしはちょっと、気になるけどなあ。そう思いつつも避けたら嫌な思いをさせそうで、とりあえず気付かないふりをしておくしかない。
 程なくして目の前に置かれたラーメンは、小洒落たきれいなラーメンだった。同輩は「うまそう~」と言って箸を手に取り、麺をすする。そうして「うまっ」と笑った。わたしも箸を手に取って、手を合わせて「いただきます」と言って、麺を一口。おいしい、のだろうけど。そう、素直においしいと思えない自分がいた。きっと、本当に、普通においしいラーメンなんだと思う。いくらでも食べられそうなほどさっぱりした塩ラーメン。なんだかいい香りがして、工夫されているのがよく分かる。きらきらしたスープは文句なしにきれいだ。
 でも、なんか、違う。わたしが好きなラーメンはこういうのじゃなくてもっと、薄暗い部屋で食べる背徳感のあるラーメンで。三分お湯で茹でて粉のスープをかき混ぜたら出来上がる、簡単で単純なのに、しみるようにおいしい、塩ラーメンで。それを一緒に食べながら笑ってくれる人が隣に、いて。
 なんだかんだ言いつつも、小洒落たラーメンを完食した。別に普通においしかった。そんなに、印象に残らなかっただけで。同輩の話もあまり覚えていない。ぼんやりしている。それが、やっぱりムカついた。
 お会計はいつの間にか同輩が済ましてくれていた。申し訳なくて財布を出すと「これくらいいいって。俺が誘ったんだし」と笑う。あんまりしつこく言うと悪い気がして素直に「ありがとう」と言う。同輩は「うん」と言ったあと、少し間を空けた。

「……あの、さ」
「うん?」
って今、彼氏いるんだっけ?」
「いないけど?」
「じゃあ、その、俺と、」

 その瞬間、わたしのスマホがポケットの中で鳴った。飲み会中、マナーモードだと通知に気付かないから音が鳴るようにしていたのを忘れていた。慌ててポケットからスマホを出すと、堅治の名前。着信だった。何よ、別にわたしが堅治の家に行かなくたって、いいでしょ。そう画面を睨んでいると同輩が「出ないの?」とやんわり笑った。さすがに着信を堂々と無視する姿を見られるのが嫌だったから、仕方なく出ることにした。
 耳に当てた瞬間に「やっと出た!」と堅治がちょっと怒っているような声で言う。耳が痛いんですけど。声のボリュームを下げて。そう文句を付けておくと「お前なあ!」とまた怒った。

『連絡してんだから一回くらい返せよ! 死んだかと思ったわ!』
「なんでそんなこと言われなきゃいけないの。忙しかったんだから仕方ないでしょ」
『これまで忙しくても返信してきただろうが!』
「はいはいごめんごめん」
『お前今どこ? 何してんの?』
「飲み会終わり。同輩とラーメン食べて帰るところだけど?」

 堅治が黙った。何よ。何とか言いなさいよ。ちょっとふて腐れつつそう言うと堅治が「今どこ。迎えに行く」と言った。いや、なんで堅治が迎えに来るわけ? 一応堅治の家から電車で二駅の近い場所ではある。でも、一人で帰れますけど。そう半笑いで言うと「いいからどこにいるか教えろ」と、少し怖い声で言われた。
 仕方なく店の名前を教えていると、同輩がこそっと「俺送ってくよ?」と言ってくれた。堅治に「同輩が送ってくれるからやっぱいい」と言ったのだけど、「いいから教えろ。一歩も動くな」とまた怖い声で言われる。堅治に聞こえないようにスマホに手を当てて「ごめん、なんか怒ってるからこのまま迎えに来てもらうね」と苦笑いをこぼしてしまう。

「……その人って、男?」
「え、そうだけど」
「彼氏じゃないんだろ? が嫌なら断ったら?」
「ま、まあ、嫌っていうか……ちょっと面倒なやつってだけだよ。大丈夫」
「俺が言おうか?」

 なんでそうなる?! 面倒な展開に思わず苦笑いがこぼれる。大丈夫、と言うのだけど同輩は微妙な表情のまま。良い人をここで発揮しないでほしい。ここは黙って立ち去ってくれればいいのに。そう思っていると、店の名前を聞いて場所を検索していたであろう堅治が「お前!」と大きな声で言ったのがスマホから聞こえた。慌ててスマホを耳に当てると「ここラブホ街の近くだろ?!」と焦った声で言われた。

「そうだけどそんなんじゃない! おすすめのラーメン屋があるからって」
『こんな小洒落たラーメン男が好きなわけないだろ! お前を口説いてあわよくばラブホに連れ込もうとしてんに決まってんだろ馬鹿か!』
「そ、そうだとしても堅治に関係ないじゃん」
『お前は俺のなんだから関係あるだろ!』
「はあ?!」

 絶対動くな、と言い残して堅治が電話を切った。おい、話は終わってないぞ。何勝手に切ってんの。そうかけ直すけれど出てくれない。あの馬鹿、絶対こっち向かってるじゃん。ため息が出た。

「大丈夫か? 電話の人めちゃくちゃ怒鳴ってたけど……」
「あはは、大丈夫。ごめんね、変な感じになっちゃって」
「なんか危なそうだったし、一回ホテル入って様子見る?」
「は?」
「いや、そういうつもりじゃないから! 入るだけ!」
「いやいや、大丈夫だって言ってんじゃん。本当に良いから!」

 同輩はなぜか引かない。ひたすら「心配だから」と繰り返した。いやいや、なんでそれでラブホに入るってなるの? おかしいでしょ。提案するなら今すぐ帰宅、しかないでしょ。ラブホに入るなんて選択肢はこの世のどこにもないんですけど。
 わたしの右手首を、同輩が掴んだ。びっくりしているわたしをぐいぐい引っ張って「危ないから。来たらやばいだろ」と言う。いや、だから大丈夫って言ってるじゃん! そう抵抗するけど男の人に力で敵うわけがない。ずるずるとラブホ街の入り口に引っ張られていく。いやいや、無理無理、なんでこんなところあんたと入らなきゃいけないわけ! 堅治とも来たことないんだけど!
 自然と頭に出てきた堅治の名前に、自分でツッコミを入れる。いやなんで堅治の名前が出てくるの。堅治とも付き合っているわけじゃないんだから、ラブホなんか入ったことあるわけないじゃん。当たり前でしょ。
 ずるずる引っ張られる腕が痛い。これ、手首絶対赤くなってるんだけど。乱暴すぎでしょ。本当にわたしのことを心配している人の力じゃない。なんとしてでも連れ込んでやろうって人の力の入れ方だ。優しさがないから。堅治みたいに、強いけど痛くない、優しい力の入れ方じゃなかった。
 一番手前のラブホの入り口で押し問答。同輩は「俺が無理やり連れ込もうとしてるみたいに見られるから!」と言うけど、まさにその通りだ。わたしは入りたくないと言っているのに! 「でも危ないから仕方ないだろ!」と言う同輩にブチギレそうになってしまう。今この場において一番危ないのはお前なんだけど! 入り口近くの交通標識の柱にしっかり腕を絡めて抵抗を続けている。通りがかる人がこそこそしているけれど助けてくれる様子はない。カップルの痴話喧嘩に見えているのだろう。まあ、場所が場所だから仕方がない。腹立たしいけれど。

!」

 堅治の声がしたその瞬間、力が抜けた。ずるりと柱から腕がほどけてしまったけど、その手を、温かい手が握ってくれた。痛くない。優しい手だ。それとほぼ同時に、ずっと痛いくらい強くわたしの手首を掴んでいた同輩の手が離れた。

「馬鹿かお前本当に、だから言っただろうが!」

 わたしを抱き込みながら堅治がそう言うと、顔を同輩のほうに向けた。「で、お前誰? 何してんの?」と堅治が聞くと、同輩は「いや、俺は別に」とばつが悪そうに言って、そそくさと走って駅のほうへ逃げていった。
 しばらく同輩の背中を睨み付けていた堅治が、大きく息を吐いた。「マジでふざけんな」と言って、わたしの首元に顔を埋めた。

「まずラーメン屋見たら分かるだろ。あんなもん女口説くためのところに決まってんの。それにお前ラブホ街の近くって知ってたならホイホイついてくな、馬鹿か」
「ねえ」
「なんだよ」
「わたし、堅治のものじゃないんだけど」

 勝手に自分のものにしないで。勝手に抱きしめないで。知らない間に涙が出た。少し怖かった。仲が良いと思っていた同輩の、男の顔を見た気がして。無理やり力ずくで分からせようとしてきて。怖かった。でも、堅治の声を聞いたら、安心した自分がいた。それが、とても、ムカつくほど、つらかった。
 堅治がわたしを抱きしめて背中を撫でる。その優しい手付きもムカつく。彼女にしてあげなよ。好きな子にしてあげなよ。腐れ縁でセフレなだけのわたしにすることじゃない。そう泣き喚いたら、堅治は「でかい声でセフレとか言うな」と言った。

「とっくに全部俺のものだから。文句言うな」
「最低。離して。堅治になんか何一つあげるつもりない」
「もうお前が持ってるものも全部俺のものなんだよ、残念だったな」

 わんわん泣くわたしを堅治が笑う。最低。女の子泣かしといて笑うとか、最低な男だ。そう非難しても笑うだけ。堅治は、ずっと、笑うだけ。

「俺の全部やるから、もう泣くなって」

 そう、笑うだけだった。