04

少しだけのずる


 作ってくれたから、と食器を洗おうとしたら「先に寝てろ」と言われてしまった。わたしの分まで器を下げて、一人で洗い始める。そんな堅治の背中をぼけっと見つめて、思ってしまう。堅治、わたしさ、本当は堅治の。そこまで喉の奥で呟いて、やっぱりやめる。言ったら今の関係さえもなくなってしまうかもしれない。それが、いつだって怖かった。
 堅治がくるりとこちらを振り返った。「そういや立てないんだったよな」と言って、手を拭いてこっちに戻ってくる。本当はもう一人で立てる。さっきは不意に力が入らなかっただけだ。もうずいぶん回復している。でも、言わなかった。言わなかったら、ベッドまで連れて行ってもらえるから。堅治なんかタクシー代わりにしてやるんだ。それくらい、誰にも責められないだろう。
 またそっとベッドに寝かしてくれた。離れ際、堅治が軽く口付けを落としてくる。離れてから「何」とだけ言えば「別に」とだけ返ってくる。また洗い物に戻っていく背中を、ただただ見つめるだけ。呼び止めることはしなかった。彼女扱いしないで。彼女にしてくれるつもりなんかないくせに。そう、文句を付けてやる。
 食器を洗い終わって堅治が戻ってきた。わたしの隣に入ってくると、「あー、寒」と呟いて、勝手に抱きしめてきた。ちょっと、邪魔なんだけど。そう言っても無視。ぎゅっと抱きしめたまま眠ろうとしている。

「ねえ、勝手に触らないで。はい離れて」
「なんで。寒いんだけど」
「知らない。勝手に凍えて風邪でも引け」
「マジでかわいくねー」

 堅治がぱっと腕を離した。離すのかよ。内心そう思いながら、寝返りを打って堅治に背中を向ける。もう寝てやる。堅治なんか知らない。朝、堅治より先に起きて何も言わずに帰ってやる。そう計画していると、堅治がそっと体を寄せてきた。

「おいこら堅治」
「なんだよ、今日機嫌悪いな」
「だって邪魔だし。離れて」
「寒いんだって。いいだろちょっとくらい」

 ぴと、と足が当たった。「お前も冷たいじゃん。寒いんだろ」と堅治が呟く。寒いのは寒いけど、布団の中にいるからそのうち暖かくなる。別に堅治とくっつかなくても大丈夫だし。そう思うのだけど、声には出さなかった。

「お前の体温とか匂いとか落ち着くんだよ。ちょっとだけ我慢しろ」
「……なんでわたしが堅治のために我慢しなくちゃいけないの」
「お前がで、俺が二口堅治だから」
「何それ、意味分かんないんですけど」

 うるさい、と呟いてから、いいって言っていないのに堅治が後ろから抱きついてきた。邪魔だって言ってるのに。壁際だし、ここは堅治のベッドだし。これ以上反撃できなくて、仕方なく大人しくしておく。暖かい。じんわり伝わってくる体温はくすぐるような穏やかなもので、すぐに瞼がとろんと重たくなった。堅治は背が高くて体が大きいから、こうやってすぐ暖かくなるのだ。卑怯だ。ムカつく。
 ごそごそと体を動かすと「なんだよ、ちょっとくらいいいだろ」と堅治が眠たそうな声で言う。うるさい。寝やすい姿勢になるだけ。そう言ったら堅治はほんの少し腕を緩めてくれた。

「……結局こっち向くんじゃん」
「こっち向きが寝やすいの。勘違いしないで」
「なんだそれ」

 くつくつ笑って、堅治がわたしを抱きしめる。とくん、とくん、と聞こえてくる堅治の鼓動。とても優しい音をしていて、少し、悔しかった。

「本当、かわいいやつ」

 独り言のように呟かれたその言葉のあと、寝息が聞こえてきた。お腹がいっぱいになって眠気がすぐにきたのだろう。健康で羨ましい。眠くて眠くて仕方なかったのだ。だから、寝惚けて言っただけ。深い意味はない。抱いた女にちょっと情が湧いただけ。そうに違いない。そうに、決まっているのだ。
 ムカつく。なんでわたしばっかり。なんで、なんで。ちょっとくらいうるさくなれ。なんでこんな穏やかな心臓の音なの。ムカつく。ムカつく。ムカつく。眠りこけている堅治の腕の中は、涙が出るほど腹立たしい。瞳の端からこぼれ落ちた涙は誰にも知られないまま、ベッドのシーツに小さなしみを作る。寝惚けて姿勢を変えるふりをして、堅治に体を寄せた。鼻が堅治の胸元にぶつかる。いい匂い。堅治はわたしの体温と匂いが落ち着くと言った。でも、わたしは違う。堅治の体温と匂いは、とんでもなく、心臓をうるさくさせる。落ち着かない。落ち着かないんだ。絶対に。わたしは堅治とは違う。そう思えば思うほど涙がシーツに落ちた。