03

真夜中ラーメン


 ぎし、とベッドが軋んだ音で目が開いた。ぼんやり見た先では堅治がベッドから降りて、冷蔵庫へ向かっていく後ろ姿。水を飲みに行くのだろう。その後ろ姿を見つめて、鈍く痛む体をくすぐったく感じた。
 堅治が冷蔵庫からペットボトルの水を取り出した瞬間、小さくくしゃみが出てしまった。こちらを振り向いた堅治が「寒い? 大丈夫か?」とほんの少しかすれている声で言う。起きていると気付かれてしまった。ちょっと残念。そう思いながら「ちょっと寒い」と返しておいた。ペットボトルの水を持ったままこちらに戻ってくると、布団を肩までしっかり掛けてくれる。ぽんぽん頭を撫でて「服持ってくるから待ってろ」と言って、またわたしに背中を向けた。
 なんなの。ぽつりと布団の中で呟く。意味分かんない。ずっと。一年前の冬からずっとずっと、意味が分からない。酒の勢いで一度だけそういう間違いをした、というだけで終われば分からなくはない。だって、腐れ縁だろうが何だろうが、一応男女だ。密室に二人きりならそういう間違いがあっても変じゃない。でも、それからずっと、恋人じゃないのに体だけ繋がっているなんて、変だ。なんでわたしと堅治がセフレなんて関係になるんだろう。変だ。したくなったら言えば、と口走ったのは、わたしだけれど。
 だって。わたしは、嫌じゃなかった。堅治にキスされるのも、触れられるのも、求められるのも。嫌じゃなかったから。どうしてなのか。そこは、知らんふりをしてしまう。だって、理由が分かったところで堅治との関係は変わらない。腐れ縁でたまにセックスをするだけの仲。そこは、変わることはないのだから。
 優しくされると泣きそうになる。そういうの、本当は好きな子にしたいくせに。彼女にしたいくせに。そう思ってしまうから。わたしは予行練習でしかない。彼女にはこういうことをするんだな。それをいつもいつも目の当たりにして、まだ顔も名前も知らない誰かの踏み台になるしかないのだ。

、服。起きられるか?」
「……うん」
「ほら、手。大丈夫かよ。俺のせいだけど」

 そう笑いながら堅治がわたしの手を引っ張ってくれる。この手はいつか、わたしじゃない誰かに触れる。わたし以外の女の子を抱いたことがないと言ったあれは、本当だったのだろうか。本当だったとしたら、はじめてしたあの日から、わたしは練習台として見られているのかもしれない。なんて虚しいことだろうか。虚しすぎるから、もし将来堅治に彼女ができたら、生産者として顔写真を堅治に貼り付けておかなければ気が済まない。わたしが育てました。わたしとたくさんセックスをしたからこの人は上手になりました。そんなふうに、マウントを取ってやらなきゃ、気が済まない。
 もそもそと堅治の服を着ていると、「なあ、腹減ってない?」と堅治が言ってレトルトが入っている棚を開けた。確かに、小腹は空いているかも。そう答えたら「醤油か塩か味噌」と言われる。ラーメンのことだとすぐに分かった。だって、そのストックはわたしが買い足したものだから。

「……夜だし、さっぱり塩で」
「お、気が合うじゃん。俺もその気分だった」

 棚から出した塩ラーメンの袋を破りながら台所へ歩いて行く。諸々の準備をしているところからして、わたしの分も一緒に作ってくれるらしい。行為の後はいつもそうだ。余計に優しくなる。だから、いつも、泣きそう。
 ふと、胸元に赤い痕が付けられているのを見つけた。必ずいつもどこかに一つ、痕をつける。今日は胸元。この前は自分で見ても分からなかったから背中側のどこかだったんだと思う。その前は内太腿。その前は首元だった。全部、自分で見える範囲に付けられたものはどこだったか覚えている。指を差して正確な場所を示せる。それくらいちゃんと、覚えているのだ。わたしは。
 時計の針は深夜の二時半を差している。こんな時間にラーメンなんて。太るじゃん。ぽつりと呟いたわたしに堅治が「俺はぽっちゃりしてるほうが抱き心地が良くて好き」と笑った。別に堅治に好かれたくないし。強がりでそう答えておく。食べても太らない、と子どもの頃からよく言っていた堅治は、高校生の頃からずっとかっこいい体をしている。スポーツマンって感じの。これを見たら女の子みんな、虜になっちゃうね。いつもそう思う。
 麺を茹で終わった堅治が、スープの後入れ粉を入れてよくかき混ぜる。出来上がったラーメンを二つの器に分けて移した。二つ一緒に持ってこちらに戻ってくると、テーブルの上に静かに置く。今度は箸を取りに行くらしくまた背中を向けた。いい匂い。普通にお腹空いてきちゃったな。そう思いながらベッドから降りようとした瞬間、そのまま床に座り込んでしまった。

「え、どうした?」
「なんか、力入らなかった……」
「マジか」

 箸を持って戻ってくる。箸をテーブルに置いてからわたしに近付くと「両腕、広げて」と言われた。大人しく両腕を広げると、堅治がそっと抱きしめてくる。腕を堅治の首に回すと、ふわりと体が持ち上げられた。お姫様かよ。思わずそう笑ってしまうくらい、優しい動作だった。
 そっとテーブルの前で下ろしてくれた。「ありがとう」と言ったら「ん」とだけ返ってくる。その声も優しく聞こえるものだから、なんとなく目を逸らしてしまった。

「いただきます」
「……いただきます」
「箸持てる?」
「さすがに箸は持てる」

 堅治はけらけら笑いながら「食べさせてやろうと思ったのに」と言って箸を握る。箸と体力は関係ないでしょ。わたしもそう笑いながら箸を握った。どこのスーパーにでも売っている、どこでも手に入る大手メーカーのインスタントラーメン。何度も食べたし、特別なものなんて一つもない。それなのに、今まで食べたどんなラーメンよりおいしく感じてしまう。柔らかな味が鈍く痛む体にしみるというか。じんわり熱が体中に伝わるのも、口の中にあっさりしたスープの味が広がるのも、びっくりするくらい心地よく感じてしまった。

「……あ~最近食生活の乱れを直してるところだったのに……おいしい……」
「お前そんなことしてたのかよ。何、体調悪いとか?」
「いや、そろそろ気にし始めたほうがいいかなって」
「何いい子ちゃんやってんだよ」

 楽しそうに笑う堅治が麺をすする。いい子ちゃんって。自分の体を気遣って何が悪い。今からいろいろやっておいたほうが将来元気でいられる時間が長いし悪いことじゃない。そんなふうに反論したら「はいはい」とだけ返ってきた。なんだこいつ、ムカつく。軽く肘で小突いてやると、堅治が「やめろって」とやり返してきた。

「あ~あ、これでわたしが将来足腰悪くなって外にも行けなくなって物忘れが激しくなったら堅治のせいだからね」
「塩ラーメンの罪重すぎるだろ」
「全部堅治のせいなんだから責任取ってよね」

 そう堅治の顔を見て笑おうとしたら、呼吸が止まってしまった。堅治がすごく、真面目な顔をしていたから。固まってしまったわたしを見つめたまま、堅治が口を開く。「そんなもんいくらでも取ってやるよ」と言ったあと、そっと、キスをしてきた。塩ラーメンの味なんですけど。全然、嬉しくない。嬉しくなんかない。心の中でそう文句を付けておいた。