02

なし崩しえっち


「それでその後に上司、なんて言ったと思う?! お前の仕事なんだから俺が知るか、だよ?! いやわたしの仕事じゃねーわ!」
「お前相変わらずブラックやってんな」

 お風呂から上がってスキンケアをしつつ仕事の愚痴。この時間が一日の疲れを吹っ飛ばせる瞬間だ。堅治は普段から口が悪くて嫌味なことをよく言ってくるけど、正直、基本的には優しい。わたしの愚痴には必ず付き合ってくれるし、基本的に味方でいてくれる。だからわたしも愚痴が止まらなくなる。それでも堅治は、ただの一度も文句を言ったことはない。

、髪」
「ああ、ありがとー。助かるー」

 座っている堅治に近付くと、堅治の足の間に腰を下ろす。ドライヤーを手に取った堅治が「テレビのチャンネル権はやる」と言ってリモコンを渡してくれた。やった。でも、ドライやーをしてもらっているときは音が聞こえないからあんまり見てないんだけどね。そう思いつつも口には出さない。堅治に背中を向けてしまうから話もできないけど、それも仕方ない。テレビを眺めたりスマホを眺めたりしていつもお互い黙っている時間だ。
 ドライヤーのスイッチが入った音。ドライヤーの音しか聞こえないけれど、堅治の手がわたしの髪をほぐすように触る感覚はよく分かる。そこ以外に意識を割くこともないから余計に意識してしまうのだろう。堅治の手付きはいつも優しくて、正直このまま寝てしまったら気持ちいいだろうな、とよく思う。
 膝を立てている堅治の脚を肘置きにして、一応見たい番組に変えたテレビを見る。こういうのってセフレともやるものなのだろうか。彼女でも何でもない、ただセックスするだけの相手に対して甲斐甲斐しすぎる気がするのだけど。まあ、堅治はこういうタイプなのかな。
 堅治にはあと何人、こういう女性がいるのだろうか。家にはわたしの私物以外置かれていないから、しているとしてもホテルや相手の家に行っているのだと思う。一応他にもそういう相手がいると悟られないようにしているのかな。腐れ縁で女とも見ていないようなわたしとセックスするんだから、まあ、それなりに飢えているのだろう。男だしそれくらいは普通なんだろうし、別に浮気じゃない。だって、付き合っているわけじゃないんだから。
 この優しさはわたしに対してというわけではない。これからセックスする女に対してなら、誰にだってこういうことをするんだ。きっと。堅治はなんだかんだで優しい男だから。
 机の上に置いたスマホの通知が光った。メッセージだ。手に取って確認してみると、会社の同輩から。今度同輩みんなで飲み会をするからいつがいいかという確認だ。同輩と言っても部署が違う人ばかりだし、わたしは数えるほどしか仲良くしている人がいない。正直同輩だけの飲み会だと喋る人があんまりいないんだよなあ。そんなふうに少し面倒くさく感じてしまう。まあ、うまくかわせる技量がないから断らないのだけど。
 不意にドライヤーの音が止んだ。まだ髪は半乾き。不思議に思って「どうしたの」と聞くと、堅治がわたしの肩に顎を乗せる。それから「誰それ」と聞いてきた。

「会社の同輩。今度飲み会しようって」
「ふ~ん」
「え、何?」
「そいつ、仲良いわけ?」
「まあ普通に? 同輩の中では一番喋るかな。二人でご飯食べたこともあるし」
「……ふ~ん」
「何さっきから」

 笑いをこぼしながら画面をタップ。来週は予定があるから再来週中ならいつでもオッケー、と打ち込んでいく。できれば週末は避けてほしいけど、まあ飲み会をするなら大体週末になるだろう。予定入れないようにしないと。
 そんなことを考えている間も画面を覗き込んでいたらしい堅治が、しばらくして顔を上げた。興味がなくなったのだろう。さして気にせず返信を打ち込み続けていると、突然、堅治の手がわたしの頬に触れた。びっくりして振り返ろうとするより先に、ぐいっと引っ張られて無理やり向きを変えられる。あまりに突然のことすぎてスマホが手から滑り落ちた。ごとっ、と鈍い音を立てて床に落ちたスマホ。横目に見えたけれど、堅治がそれを手に取って、柔らかいクッションの上にぽいっと投げていた。何すんの、と言おうとした口が動くことはなかった。
 乱暴な口付けに、思わず手で抵抗してしまう。堅治はわたしの頬に手を添えたまま、反対の手でわたしの両手を器用に掴んだ。大きい手。力も強いからすぐに抵抗できなくなった。それでも手に力を入れて抵抗してみるけれど、そんな抵抗はほとんど意味がない。
 わたしの後ろに座っていた堅治が、わたしの体を上手いこと操りながら体勢を変える。いつの間にか上に乗られて、床に押し倒されてしまう。頭を打つ、かと思ったら頬に添えられていた手が後頭部を支えてくれたから痛くはなかった。なんで、優しくするの。ただの腐れ縁兼セフレでしょ、わたしなんか。優しくしなくたって、したいことをしたいようにするだけの存在なのに。そう思うと、瞑る瞼に力が入ってしまう。
 唇が一度離れて、またくっつく。たぶんだけど堅治はキスがうまいと思う。いつも、キスされるだけで力が入らなくなるから。今日も次第に掴まれている両手の力が抜けて、もうしばらくしたら堅治に掴まれなくても抵抗しなくなっていた。
 唇が離れると、堅治の呼吸の音だけが聞こえる。そっと目を開けると、わたしをじっと見下ろす堅治が「なあ」と静かな声で呟いた。

「そいつともう寝た?」
「……え?」
「そいつとはヤったのかって聞いてんだよ」
「し、してない! ただの同輩とするわけないでしょ!」
「じゃあそいつに誘われたら?」
「しないよ! 嫌に決まってるじゃん!」

 堅治がわたしを見つめたまま、ほんの少しだけ笑った。それから「ふ~ん?」と満足そうな声で言ってから、また口付けを落とした。今度は優しく、触れるだけのキスだった。そっと離れてからは首元に唇を当てる。そのくすぐったい感覚に体が震えるのと同時に、ちょっと困惑してしまった。

「ね、ねえ、もうするの? まだ髪も乾いてない、のに」
「嫌なら嫌って言えば」
「い、嫌、っていうか……」
「何」
「……せ、背中、痛い」

 堅治が目を細めた。面倒って思われただろうか。どきりと心臓が悲鳴をあげそうになったけど、その口元がほんの少し緩んでいるのに気が付いた。それに瞬間、ぐっと抱きしめられる。そのまま抱き上げられると、あれよあれよという間にベッドに着地。優しく倒されたからこれっぽっちも痛くなかった。抱きしめていた腕の力を緩めて顔を上げた堅治が「これでどうなんだよ」とほんの少し、機嫌の良さそうな声で言った。
 なんか、上機嫌だ。思い当たる節がないけれど。今までなかったくらい乱暴な口付けもよく分からなかった。いつもする前は髪を最後まで乾かしてくれるし、触る前も一言くれた。キスするときもそうだった。それなのに、今日は何だか、いつもと違う。そんなふうに感じた。

「俺以外のやつと寝たことある?」
「……な、なんで、そんなこと聞くの」
「俺はない」
「え?」
「俺はお前以外の女、抱いたことない」

 嘘だ、と言おうとした口が塞がれた。堅治の脚が動いているのが分かる。わたしの脚の間に膝を入れて、開かせようとしている。その動きが自然でいつもされるがままになってしまう。
 はじめてしたとき、彼氏ができたことがないと言ったわたしを堅治は笑った。マジかよ、と言って。手を繋いだこともキスしたこともないなんて可哀想、とも言った。だから、堅治には元カノと言われる存在がきっといたはずなのだ。だって、自分も経験がないなら、あんなふうに笑えないだろうから。堅治に言われたくないってわたしに反論される要素があるとき、堅治はあんなふうに言わない。だから、彼女がいたはずなのだ。きっとそうに決まっているのだ。直接聞いたことはないけれど。
 堅治の手でいろんなところが暴かれていく。どんどん、どんどん、奥まで。けれど、最後の最後、固く閉ざされた扉の向こうは暴かない。手を掛けることもない。それがいつも、少し、悲しい。