06

殺してよ


 とん、と肩を押された。特に何も身構えていなかった体がぐらりと揺れる。覆い被さるように追いかけてきた英太が、わたしの頭に手を回してくれた。そのおかげで床に頭を打ち付けることはなかったけれど、びっくりして体が固まっている。ぐずぐずと鼻をすすったまま、英太の顔を見上げる。何、と動きかけた唇が、柔らかい感触で塞がれた。
 ふにゃり、と体のどこかを刺された感覚だった。痛くも痒くもない。けれど、確実に刺された。そんな妙な感覚。人生で味わったことのないそれに呆けていると、英太が唇を離した。ぽかんとした顔をしているであろうわたしを見下ろして「かわいい顔すんな」と恥ずかしそうに笑って、わたしの頬を軽くつねった。

がどんなに自分のことをそう言っても、俺はが好きだ」

 わたしの顔の横に手をつくと、じっと見下ろしてからゆっくり瞬きをした。睫毛が長い。目力が強い。こんなの、大抵の女の子はころっと落ちるね。かっこいいもん、英太は昔から、ずっと。ぼけっと見上げているだけで何も言わないわたしに痺れを切らせたのか、英太がまた唇を重ねてきた。ふにゃり、とまた刺された感覚。なんだこれ。変なの。
 唇を離したかと思ったら、ぎゅっと抱きしめられた。全身に巡る英太の体温。目が回りそうなほど優しくて、愛しくて、好きなままだった。ぼけっとしているわたしの耳元で英太が「勝手にキスしてごめん」と呟いた。いや、今更過ぎる。何勝手にキスしてくれてんの。別れてるのに。

「こんなことするくらい、手放しがたいんだよ、分かってくれって」

 なんて、情熱的な言葉なのだろうか。ふにゃりと刺されたどこかを抉られるような熱。ふにゃふにゃのくせに、しっかり致命傷にはなっているらしい。痛くも痒くもないのに。不思議な感覚。未だによく分からない。
 殺されそう。直感的に思った。呪いに蝕まれてどろどろになっていたわたしが消えていきそう。そんな呪いとか不安とか何だか分からないものから、はっと目を覚ましそうになる。英太のまっすぐな言葉が、視線が、体温が、全部晴らしてしまいそう。これまでのうじうじと悩んでいた自分が馬鹿らしく思えてきてしまって、自分でも衝撃的だった。
 英太は人が嫌がることは絶対にしない。何か相手に対してするときは必ず事前確認を取る。こんなふうに、突然押し倒してキスするような人じゃない。してくれてもよかったのに。わたしにとっては嫌なことなんかじゃない。されたら、こんなふうに喜ぶのに。それでも英太は必ずする前に確認をしてきた。していいか、と。ちょっと恥ずかしそうに。それがほんの少しだけダサくてかわいいのだ。
 拒否されたら怖いとか、俺一人でするものじゃないからとか、ぐだぐだと理由を言っていたのを覚えている。もっと好きなようにしていいのに、と伝えたときのことだった。英太は「そういうこと言うな!」と恐ろしく顔を真っ赤にして照れていたからよく覚えているのだ。キスするのも、体に触れるのも、わたしは英太に望まれれば拒否しない。そう内心思ったけど、英太が不安なのなら仕方ないか、と思った。
 それを、すっ飛ばしてまで。あんなに嫌われたくない拒否されたくないと怖がっていた英太が、それを忘れるほどの情熱だった、と思う。刃物のように鋭くはないけれど、炎のように熱い。なんて甘ったるい殺害方法だろうか。そんなことをぼんやり思っていたら、わたしを抱きしめたまま体を起こした。わたしの背中を軽く手で払って「ごめん、びっくりさせた」と呟く。そっと腕が離れると、英太が優しい顔をして笑っていた。
 ぎゅっと拳を握りしめる。わたしのくだらない呪いなど、英太から見れば呪いでも何でもなかったのかもしれない。ちょっと歪な愛情。そんなふうに見えていたのかもしれない。それを上回るものが英太にはあったから、こんなふうに熱を帯びているのかもしれない。どうして、なんて疑問は英太には無意味なのだろう。理由はとっくの昔からわたしにくれていたのだ。ずっと、こうして。

「英太」
「うん、ごめん、反省してます。どうにでもしてください」
「もう一回、キスして」

 英太のきりっとしたかっこいい目が、猫みたいに真ん丸になった。ぴんとしている背筋が好きよ。でもね、ちょっと気を抜くのほんの少しだけ丸まるの。それが、もっと好き。わたししか知らない英太の丸い背中。英太のことをよく知らない女どもが思い描くカッコイイ瀬見クンには微塵にも興味がないの、わたし。上っ面だけ見ているような子に、英太を盗られたくなかった。情けなくて、結構ダサくて、かわいくて、かっこよくなろうと頑張っている。決めにいった言葉はダサいのに、ぽろっとこぼした言葉が誰よりもかっこいい。そんな、ちょっとおまぬけなところが、とても好き。
 そっと手が伸びてきた。くすぐるようにわたしの頬を撫でると、英太がはにかむ。子どもみたいな顔でいつも笑うのに、こういうときは男の人の笑い方をする。その顔も、好き。
 どろどろの泥をかぶったようなわたしはもういなかった。柔らかく刺された傷が致命傷になって死んでしまった。だから、今いるわたしは、もう呪いなんてものにはかかっていない。ただの恋をしているだけの人。どんなにかわいい子が出てきたって、どんなに才能がある子が出てきたって、英太は渡したくない。好きだから。元々、別れたいと言ったときからそれは変わっていなかったのかもしれない。どんな子が現れても、わたしは英太を手放せなかった。情けないことに。
 英太に一目惚れしたあの日のことを思い出している。水色の空にふわりと桜の花びらが舞っていた。それをバックに見る英太の笑顔は、本当にきれいだった。わたし、この人のこと、好きだなあ。そう一目惚れをした日。けれど、たとえ英太がいた背景に桜が舞っていなくても、空がなくても、今みたいな薄汚い壁だったとしても、わたしは英太に一目惚れをしただろう。最初で最後の一目惚れである恋をしただろう。優しい熱に誘われるように。そう分かるのだ。理由なんか、わたしにも分からないけれど。

「英太」
「ん?」
「別れるなんて言って、ごめんなさい」
「いいよ……って言いたいところだけど、結構傷付いたから、しばらくは反省な」

 ちゅ、とかわいらしく唇が重なる。すぐに離れていってから「うん」と返す。英太は両手でわたしの頬を包み込むととても穏やかな顔をしてじっと見つめてくる。熱い。英太の視線はいつも、胸が焦げるかと思うくらいに熱いものを植え付けてくる。少し困る。でも、それが何より、わたしの恋には効く。好きにならざるを得ないと思うほどに好きだ。
 英太が「あ」と声を上げた。びっくりして「え、何?」とまぬけな声で返す。英太は「やばい、昼終わる」と言って購買で買ったらしい昼食を広げ始める。今、お昼ご飯の心配ですか。そうですか。まあ運動部部員にとっては死活問題だろうけど。英太はそういうところがちょっとダサいんだよ。そう思いつつも笑ってしまう。まあ、それが英太らしいんだけどね。一人でそう呟いたら英太が「え、何? 食べないのか?」と首を傾げる。さっきまであんな男の人の顔をしていたのに、あの英太はどこに行ってしまったんだろうか。切り替えが早すぎるよ。一人でそう笑いつつも「何でもない」とだけ返しておいた。