06

だいすきなあなた


 図書室は階段を三階まで上がり、左に曲がったところにある。突き当たりには非常ドアがあるのだけど、基本的に下校時間になったら施錠される、ということになっている。もう今日も鍵がかかっていたけど、白布がサムターンのツマミを回し、ドアを開けた。先生に見つかったら怒られるやつだ。そう呟いたわたしに、普通に閉めて帰ればバレないだろ、と白布は何でもないように言った。
 ちなみにドアを出た先は階段があるだけ。でも、秘密の場所って感じがしてわたしは結構好きだ。空と街並みが見える、ひっそりした空間。青春を感じる。たまにお昼をここで食べることもある。大抵一緒にいるのは白布だった。いや、むしろ、この場所に来るときはいつも白布が一緒だった気がする。
 久しぶりに来たなあ。ぼんやり外を眺めながら呟く。ドアを背もたれにして地べたに座り込んでいるわたしの隣で、同じく座り込んでいる白布も「俺も」と言って、一つあくびをこぼした。十月末。肌寒い風に少し肩を震わせると、白布が「寒いのか」とこっちを見る。寒いよ。こんなところに連れてきたのは誰だ。そう睨んでやったら笑われてしまった。いや、笑うな。人が寒さに耐えているというのに。

「で、何なの。お望み通り来てあげましたけども」
「お前本当感じ悪いな」
「白布にだけは言われたくない」

 白布が「はいはい」と半笑いで言うと、着ていたカーディガンを脱いだ。ぼけっとそれを見ているわたしの肩にそれを掛けると「貸してやるから文句言うな」とだけ言った。いや、白布がシャツだけになったじゃん。寒いじゃん。さすがに気になるんだけど。ぼそぼそと言うと白布は「寒くない」とだけ言って、空を見上げた。
 ドアの前に座って二人でぼうっとしているだけ。なんでここに呼び出されたのか未だに分からない。なんだよ、なんかもっとこう、言いたいことがあるのかな、とか、期待したじゃん。ムカつく。いつもいつもそうだ。いつも、わたしばかりが期待している。白布は一つも言葉をくれないというのに。
 じっと白布の横顔を睨んでやる。なんで呼び出したのか、その理由だけ教えてよ。そう目で訴えかけているのだ。ただ話すだけなら教室でもいいのに、わざわざ人気のない場所に呼び出してきた。何か明確な理由がなければこんなところを指定してこないはず。でも、白布はちっとも、何も言ってくれない。

「視線が痛いんだけど」
「睨んでるからね」
「睨むな」
「無理」

 びゅうっと強い風が吹いて、お互いきゅっと目を瞑ってしまう。風が治まってから目を開けると、もう白布は先に目を開けていた。

「お前さ」

 白布の声は、きれいだと思う。ひんやりしていて、よく澄んでいる。しんしんと積もる穏やかな雪のようで、柔らかな音を奏でるヴィオラのようで、わたしは、とても。うん。とても。とても。
 頬を撫でる風に髪が攫われそうになり、思わず手で押さえる。そんな冷たい風を暖めようとするような優しい日差し。今日は良い天気、と十分に言える空模様をしている。天色の空ははじめて見る空とは思えない懐かしさがあって、どこまでも高くて仕方がない。そんな空の下で聞く白布の声は、恐ろしく、落ち着いていた。

「大丈夫か、本当に」

 スパン、と切れ味の良い刃物で真っ二つにされる。白布はわたしから視線を外して「最近なんか、ずっとへこんでるだろ」と付け加える。後頭部を軽く指でかきながら「だから、まあ、気になったっていうか」と呟いた。
 白布はいつも言葉が足りない。でも、ほしい言葉は大抵くれる。遠回しだろうが、伝わりにくかろうが。でも、たったひとつだけ、どうしてもくれない言葉がある。態度で示しているつもりなのだろうと思う。それでも、わたしは、言葉がほしかった。
 こんなことは世迷い言だ。きっと数年後には笑い飛ばしてしまうだろうし、大人が聞いたら一時の気の迷いだと笑うに違いない。でも、わたしは言わずにはいられない。受験とか、自分の将来とか、親に迷惑をかけたくないとか、そういうのを全部かなぐり捨ててしまっていいと思うほど、わたしは、白布のことが、とても。
 強く吹いた風に、きらりと涙がさらわれた。顔を上げた白布がぎょっとした顔をして「なんだよ、どうした?」と顔を覗き込んでくる。目にごみが入ったのかとか、まずいことを言ったのかとか、どうでもいい心配ばかりしてくる。心配するようなキャラじゃないくせに。こんなふうに呼び出してわざわざ「大丈夫か」なんて聞くキャラじゃないくせに。わたしには、キャラじゃないことも、してくれるのだ。それだけでもう答えだ、と白布は言いたいのだろう。でも、全然答えじゃない。わたしはそれでは、答えだと思えないんだよ。

「大丈夫、じゃない」

 言葉が溢れた。言うつもりのなかった言葉がどんどん溢れ出ていく。もう勉強したくない。受かる見込みがないと分かっているのに無理に続ける勉強がつらくて仕方がない。本当は志望校を変えたいけど、自分で言い出したところだから変えたらかっこ悪い気がして変えられずにいる状況がつらい。恥ずかしい。情けない。学校に来るのもつらい。友達が良い成績をとって喜んでいるのを素直に祝福できない自分が嫌い。何もかもを素直に受け止められなくなるほど、受験がつらい。勉強したくない。もう、正直、やめてしまいたい。
 勉強に集中しようと思えば思うほど、思い出す瞬間がある。白布が後輩の女の子に告白されていたときの光景。好きな人がいるから、と白布が断った、あの唇の動きが忘れられない。あの唇の色が忘れられない。一体誰のことを思い浮かべながら言ったの。それが頭にこびりついて取れないまま。
 ぽたり、と地面に落ちた涙がしみを作る。もう何もかもが嫌になってしまった。何一つうまくいかない。鼻をすすりながら吐き出したわたしの言葉は、白布の耳に届いてはいるだろう。
 わたしの頬に、白布の親指の腹が触れた。きゅっと涙を拭き取るように親指が頬を撫でるからびっくりして、白布の顔を見てしまう。涙は止まった。ただただ瞬きだけをして、白布の瞳を見ていると、どこかばつが悪そうな顔をした白布が一つ息を吐いた。涙を拭いたその指で、そのままわたしの頬を軽くつねる。そうしてぽつりと「泣くなよ」と情けない声で呟いた。
 ぱっと手を離した白布が、わたしから目を逸らして空を見上げた。そうしてなぜだか早口で「春高予選、負けた」と言った。突然の話題に面食らってしまったけれど、わたしのことを無視して白布が勝手に一人で話し始める。準決勝の試合、終盤までリードしていたしペースも掴んでいたのに、たった一つのミスで一気に状況が変わり、ペースを乱されチームがばらけ、それを立て直せないまま敗退した、と。よく分からない専門用語みたいなものも遠慮なしにぶち込んだ説明を、とんでもない勢いでされた。何のことか八割理解はできなかった。でも、その試合が、白布にとって、とても悔しいものだったことは、伝わってきた。
 受験勉強も行き詰まりを感じていて、毎日がしんどい。ただでさえ不甲斐ない結果で部活を引退したばかりだから余計に。白布はそう呟く。それでも全力でやった結果で、何一つ手を抜いた場面はなかった。だから悲観することばかりではない。そう付け加えてから、ちらりとわたしのほうを見た。

「正直、結構へこんでる」
「そっか……」
「だから、抱きしめていいか」

 口がぽかんと開いてしまった。びっくりして体が硬直してしまっている。白布は眉間にしわを寄せて「なんだよ」と文句を付けてきた。なんだよ、はこっちの台詞だと、思います。どうにかこうにか口を動かして、一つ息を吐き出す。白布はわたしの一挙一動を見逃さんとするようにじっと見つめてきていて、呼吸がしづらく思えるほどだった。

「……その前に、わたしに、言うことがあると、思うんですけど?」
「なんだよ」
「な、なんだよって言われても」
「いいのか嫌なのか、どっちなんだよ」

 その手前の言葉が、わたしは、ほしいんだけど。じっと顔を見つめてくる白布の顔が赤くなっているように見える。そういう顔もするんだね。知らなかった。ぼんやりそう考えていると、また強い風が吹く。冷たい風が白布の髪を揺らす。それを手で払いながら白布が「どっちなんだって聞いてんだけど」と、拗ねたような声で言った。
 そんなもの。答えはひとつに決まっている。それ以外はわたしの中にない。そんなことは、とっくに、白布も分かっているはずだ。
 特別だった。わたしにとって白布は。はじめて会ったときから、これまで出会ったことがないタイプだったし、妙に気になる存在だった。話せば話すほど興味が湧いて、もっともっと知りたくなった。そうして知っていくたび、どんどん、白布から目が離せなくなった。ずっとそうだ。わたしにとって白布は、特別な存在なのだ。
 勉強がつらくて泣いてしまいたかったあの日、受験をやめたくて泣いてしまいたかったあの日、自分が嫌いでたまらなくなったあの日。白布が、抱きしめてくれたら、わたしは、素直に泣けただろうと思うのだ。子どもみたいにわんわん、恥ずかしげもなく。弱音を吐いて、どこまでも我が儘に。わたしには白布が必要だった。そうに違いないのだ。
 手を伸ばせば届くほど、すぐそばにいる。それでも、お互いの手を取ったことはない。手を取ろうと伸ばしたこともない。でも、もう今日は、手を伸ばしてもいいのだろうか。先に手を伸ばした白布に応えていいのだろうか。
 恐る恐る、左側に座っている白布のほうに、左腕を伸ばしてみる。地面についている右手の袖をきゅっと摘まむと、白布の右手がぴくりと動いたのが分かった。言葉はない。たぶん、白布は最終確認をしてきているのだろうと思う。本当にいいのか。嫌がっているわけではないのか。そんな無駄な確認を。
 しばらくお互い無言で固まっていたけれど、白布がそっと右手を動かした。わたしの左手首を掴んでくるから、白布のシャツの裾から指が離れる。そのまま白布の右手がわたしの左手を捕まえると、そっと指が絡まり合った。繋いだ手がそのままぐいっと引っ張られると、体が白布のほうへ傾く。白布の左手がわたしの右肩を掴み、引き寄せるようにされると、わたしはもう白布の腰辺りに右腕を回すしか、バランスを保つ方法がなかった。
 繋がれたままの手を、白布の指が優しく撫でる。何度も繋ぎ直すように動く手がくすぐったくて、恥ずかしくて、とてもじゃないけど涙が堪えられなかった。白布はわたしの首元に遠慮なく顔を寄せて、静かに呼吸だけをしている。一言も、言葉はない。それでも、この熱い体温が、少し湿っている手が、かすかに聞こえてくる鼓動が、全部を教えてくれていた。
 言葉はここにあった。でも、やっぱり、言葉としてほしいよ。だから、思わず溢れた。「好き」。それに白布がほんの少し肩を震わせた。そのあとにわたしの背中に回している左腕に力が入る。「知ってる」。そうじゃない。言わないなら鼻水つけてやる。そんなふうに脅しても白布は「いいよ」と小さく笑って言うだけ。言ってくれなきゃ不安になるのに。ずっとずっと、その言葉ひとつだけがほしかったのに。ぐずぐず泣いているわたしを見かねてか、白布が「分かった、分かったから泣くな」と困ったような声で言った。

「俺も好きだよ」

 ぽつりと呟いたあとに「だからこうしてんだろうが」という余計な言葉がくっついてきた。繋いでいる手の指で思い切り皮膚をつねってやると「やめろ」と白布がおかしそうに笑う。その直後、ほんの少しだけ、白布が鼻をすすったような音がした。
 照れ隠しのようにわたしの背中を軽く叩くように撫でつつ、白布がぽつぽつと「しんどかったら頼ってこい」とか「つらいときは電話してこい」とか「何かあったら何でも言え」とか、そういう〝らしくない〟言葉をたくさんくれた。さすがに恥ずかしくなってきて、「そっちもな」とだけ返しておく。白布はそれを、きれいな声で、笑ってくれた。