04

わたしだけでしょ


 夏休みに入り、いよいよ高校生活も残りわずか、なんて感傷に浸る。まあ、夏休みとはいえ受験生である三年生たちには夏期講習が待っている。うだるような暑さの中、高校まで通うのは正直遠慮したいところだ。重たい足を引きずるように高校へ向かい、青春の二文字などどこにもないくらい暗い気持ちで正門をくぐる。受験、延期されないかな。そんな馬鹿みたいなことを考えて、ようやく小さく笑えた。
 希望者のみの夏期講習にも関わらずかなりの人数が参加しているらしい。もちろん中には塾の夏期講習に参加する子もいれば自主勉強で受験を乗り切る子もいる。人それぞれの方法で受験シーズンを駆け抜けているわけだ。わたしも最初は母親の勧めで家庭教師を付けられる予定だったけれど、やっぱり学校で勉強するのが一番集中できる気がした。母親とも相談して、最終的に学校での夏期講習に参加することになった。
 文系と理系、志望大学のレベル、本人の学力レベル、それらをすべて加味してクラス分けと授業振り分けがされている。振り分けられた教室に入ると、どうやら友達は一人もいないらしい。でも、勉強をしに来ているのだから友達がいなくても関係ない。お喋りをしに来ているわけじゃないのだから。
 席についてノートとペンケースを出す。汗が止まらない。まあ、夏だからね。みんみんうるさい蝉の鳴き声と、じりじり照りつける太陽。暑いに決まっている。教室に空調は付いているけれど、それでも、暑いに決まっているのだ。
 シャーペンを握ると、ペン先が小さく揺れてしまう。それが目に見えてしまうと自分にがっかりした。ああ、わたし、怖いんだ。模試の結果が悪かった。いまいち勉強がうまく進んでいない。どんどん周りに置いていかれる感覚がする。わたしだけ、とんでもなく、だめになっていく気がする。問題文を読むたび。途中式を書くたび。答えが見つからないたび。日に日に積もっていく塵のようなそれが、ずっしりと重たい。



 ○



 夏の日陰は恐ろしく暗く見える気がする。まるで辺り一帯の影すべてを飲み込むような暗さに紛れて、一人でこっそり昼食を摂っている。母親が作ってくれた色とりどりのおかずが詰まったお弁当。夏休みだというのにいつもと変わらないお弁当を渡してくれた。それを見て、箸を握る手に、嫌というほど力が入った。
 このお弁当を、無駄だった、と母親が思うときが来るかもしれない。こんな結果になるならお弁当なんか作ってやらなきゃよかった、と母親に思われるときが来るかもしれない。かわいい彩りのお弁当。母親はわたしがおいしく食べることだけを考えて作ってくれたに違いない。それなのに、わたしは、勝手にお弁当を一人で黒く塗り潰してしまうのだ。お母さん、ごめんね。心の中で呟いた言葉は、一生誰にも届かない。わたしの中で煤けて一生取れない汚れになるだけだ。
 人気の少ない外廊下の階段に座り込んでいるのだけれど、どうやら位置的に運動部が使う水道が近くにあるらしい。誰かが歩いてきた音が聞こえて、こっそり外を覗き込んでみた。そうして、びっくりしてしまう。まさに今蛇口を捻って顔を洗っているのが、白布だったのだ。バレー部の体育館は少し離れているはず。どうしてここの水道を使っているのだろう。位置的にバスケ部辺りが使っていそうなのに。不思議に思って様子を窺っていると、離れた位置から「白布先輩!」というかわいらしい声が聞こえてきた。
 ポニーテールがゆらゆら揺れるかわいらしい子。先輩、と呼んだところからして後輩。二年生か一年生かは分からない。でも、着ているユニフォームが女子バレー部のものだ。女子バレー部は結構知り合いが多いし、何度か体育館を覗いたこともある。これだけ見たことがないのなら一年生の可能性が高い気がした。
 無愛想で女子にも容赦がない白布に声を掛けるなんて、あの子結構な猛者だな。そんなふうに覗き見していると、その子がぺこぺこしながら「急に呼び出しちゃってすみません」と言ったのが聞こえた。それに白布が「いいけど。何?」と実にクールな返答をする。この状況、もしかして。遠くから様子を見ているだけのわたしでも大体察してしまう。そうして、なぜだかドキドキしてしまった。
 思った通り、後輩の女の子が真っ赤な顔で「白布先輩のことが、あの、好きです。付き合ってください」と言った。きゅっと拳を握って、じっと白布のことを赤い顔で見つめて。ああ、かわいいなあ。遠くから見ているだけのわたしがそう思うのだ。もろに喰らっている白布からしたらものすごくかわいく見えているだろう。
 そっか、白布のことを好きになる女子もいるんだな。そういう人を一人は知っているけれど。失礼ながらそんなことをぼんやり思う。同じくらいぼんやりした視線を向けてただただぼうっと白布を見ている。白布はタオルで首を拭きながら「あー」と低い声で言って、その子から視線を外した。そうして、視線を外したまま「好きなやついるから、ごめん」と言う。
 あーあ、振っちゃったよ。もったいない。かわいい後輩なんてみんな憧れの彼女の属性じゃん。付き合えばいいのに。そう思う自分がいる反面、ほっとしている自分もいる。ほっとしている、というと喜んでいるとか安心しているとか、そういう感情になるだろう。でも、わたしは一瞬で落ち込んでしまう。ほっとする、なんて。だって、あんなの、誰のことだか分からないのに。ほっとできる確実な要素なんてどこにもない返答だったのに。本当、思い上がるなよ、自分。そんなふうに、またほの暗い気持ちになってしまった。