03

ことばがほしいの


 放課後の図書室。夏休み目前の室内はちょっと蒸し蒸ししているけれど、そこまで気になるほどではない。自習をするのに打って付けの静かな空間だ。けれど、集中できると同時にどこか脅迫じみた静寂が襲ってくる。そう感じるのはきっと、知らず知らずの間に自分を急かしている自分がいるからだろうと分かっている。もっと問題を早く解け、もっと難しい問題を解け、もっと、もっと、もっと。そんなふうに自分で自分を押し潰そうとしながら耐えている。
 近くの席に女子生徒二人がやってきた。先ほどまでの静かな空間を壊すようにこそこそと話し始める。今はそれが逆に救いだ。勉強に関係のない話で大いに盛り上がってくれ。多少雑音があるほうが集中もできるから。そんなふうにぼんやり二人の会話に耳を傾けつつ、じっと問題集を見つめた。

「バレー部、残念だったね」

 そんな言葉が投げつけられたように聞こえた。思わず顔を上げてしまう。バレー部。それは女子部なのか男子部なのかどちらなのだろう。シャーペンが完璧に動きと止めると同時に、二人組のもう一人が「ねー。ずっと優勝が当たり前だったのに」と言った。その言葉で男子部のことを言っているのだと分かった。うちの男子バレー部は県内屈指の強豪校で毎年全国大会に必ず行っていた。去年までは。
 白布は男子バレー部に所属している。去年も今年もレギュラーとして試合に出ているということくらいはわたしも知っている。けれど、そういえば最近はあまり部活の話を聞いていない気がする。バレーに詳しくないわたしとあまり自分の話をしない白布。必然的に部活の話になることはなく、最近の部活はどうだとか試合がどうだったとか、そういうことは三年生になってからは余計に知らない。わたしが勉強に集中しすぎて周りが見えていないから。そういう面もあるかもしれない。
 残念だった、というのは、どういうことなのだろうか。何か大会でもあったのだろうか。そう考えて、ふと、二年生のときは白布の口からいついつに試合があるとか、そういう程度の話は聞いていたな、と思い出した。でも、三年生になってからは一度もそういう話を聞いたことがない。

「春高も厳しいんじゃない? 牛島先輩ってやっぱすごかったんだね~」

 その言葉で大体を把握した。運動部の夏といえばインターハイだ。夏休み中に大会があるらしいので、その予選大会があったのだろう。そして、男子バレー部は、インターハイに進めなかった。彼女たちの話からそこまでは理解した。
 白鳥沢に入るために死ぬほど勉強をした、と白布が二年生のときに教えてくれた。英単語を覚えながらお風呂に入って溺れかけたことがあるらしく、そのエピソードには大笑いしたっけ。他にも死闘の受験エピソードを教えてくれたけど、わたしが最後に思った感想は、どうしてそこまでして白鳥沢に入りたかったのか、だった。白鳥沢は進学校だし、県内の私立高校の中ではかなりレベルが高い。運動部のレベルも高いし、文化部も全国区の実力のあるところが多い。入学できるのならば誰もが目指すような高校だとは思う。白布が将来のことを考えて必死になって入った、というのは分からなくはない。でも、白布はバレー部に入った。県内屈指の強豪である、厳しい練習が約束されたバレー部に。正直、白布は有名な選手というわけではないと聞いていたからそれがよく分からなかった。そこまでバレーが好きだったのだろうか。いまいち白布からそれは伝わってこない。勉強が得意で将来のために難関校に入った、というだけなら理解できる。でも、勉強時間をごっそり奪っていく運動部に入部。これがよく分からないままなのだ。考えれば考えるほどわたしは白布のことをよく知らない。そう思い知る。
 わたしはというと、白鳥沢には推薦入試で入っている。しかも単願推薦で。まあそれなりに勉強は好きだったし、素行不良というのにも縁遠かった。中学の成績がそれなりに優秀だったのと、わたしの中学がたまたま白鳥沢の推薦枠を持っていた。毎年その枠を争って受験シーズンはやたらと生徒の素行が良くなるらしく、担任の先生が苦笑いをしていたのを覚えている。そんな中で先生が選んでくれたのがわたし。そんなわけで、特に必死に努力をすることもなく、するすると難なく県内屈指の進学校に潜り込んだというわけである。
 白布はどうして死ぬほど必死に勉強をして、白鳥沢に入りたかったのだろう。白布は確か豊黒中出身だったはず。取り立てて賢いイメージもなければ荒れているイメージもない、ごくごく普通の公立中学だ。成績は良かっただろうから先生に勧められたのだろうか。それともご両親だろうか。でも、なんだかそこまで白布が必死になるイメージがなくて。
 わたしは白布のことをやっぱりよく知らない。白布が言葉にしてくれないというのもあるけれど、今目の前にある自分の問題にいつも追われてしまって、白布のことを理解しようとしていないのかもしれない。ちょっとへこむ。小さくため息をついてしまった。

「何ため息ついてんだ」
「……びっくりした。図書館ではお静かにどうぞ」
「小声で喋ってんだろうが」

 いつの間にか背後に白布がいた。びっくりしすぎて心臓がドッドッと痛いほど鳴っている。白布はわたしの手元を覗き込みながら「それくらいお前普通に解けるだろ」と不思議そうにした。分からなくて手が止まってるわけじゃない。気になることがあったから、と思い出してハッとしてしまう。慌てて勉強道具を片付ける。まずい、あの女子二人組の話を白布が聞いたらさすがにへこむに違いない。ここは退散したほうが絶対に良い。そんなことを考えているなど知らない白布が「帰るのか?」と首を傾げる。
 勉強道具を一式鞄に押し込んで、立ち上がる。それから白布の手首を掴んだ。「は?」と素っ頓狂な声を上げた白布を一旦無視して、逃げるように図書室を後にした。

「おい、何だよ、どこ行くんだ?」
「白布も勉強しに来たんでしょ? 図書室だと喋れないし移動しよ」
「まあ……いいけど」

 不思議そうにしつつも着いてきてくれるらしい。そっと手を離して胸をなで下ろす。これであの会話を白布が聞くことはない。わたしはどういう結果だったのかは知らないけど、あの会話の内容からしてあまり触れないほうがいいに決まっている。
 思い返してみると、わたしと白布は本当に言葉が足りない二人だ。お互いど真ん中にあることには触れず、周りをかりかりと引っ掻くような会話しかしていない。それでも仲は良いと思っているし、もちろん今後も白布とは友達でいたい。そう、これも、ど真ん中にあることには、指一本触れていない言葉だ。

「そういえば部活は?」
「オフ。夏休みからまたギチギチに練習メニュー組まれてるから、今のうちに休んどけって感じのやつだけど」
「うわ~ファイト~」
「もっと感情を込めろ」

 けらけら笑ってやりつつ、前髪を右手で直す。ちょっと空気が湿っている。そのせいで肌に髪が少し張り付いてしまっていた。指先でちょんちょんと直していると、それを白布がじっと見ていることに気付く。「何?」と手を止めて聞いてみると、白布が前髪をつまんだままのわたしの右手を、人差し指でぷすり、と突いてきた。

「……え、何?」
「ペンだこ」
「ああ、そりゃできるでしょ。受験生ですから」

 じっと見つめる瞳は、いつもの射殺さんばかりの鋭いものではない。どこかぼんやりしていて、なんだか気が抜けているというか。もしかしたら疲れているのだろうか。そう少し心配になった。
 白布の指先がわたしの中指のペンだこに触れる。やんわり冷たい指先は、ピリッと静電気のようなものを感じさせるくらい細やかで、煩わしくて、忘れがたい感触がした。