02

あなただけなのに


 受験勉強は孤独との戦いだ。いくら塾で先生に教えてもらおうとも、学校の授業を教室で受けようとも、友達と励まし合おうとも、孤独であることに変わりはない。わたしがやらなければ合格はできない。結果は出せない。何も残らない。そういう戦いだ。つらいけれど。
 机の端に置いてあるスマホが震えた。夜の九時半。こんな時間になんだろうか。ダイレクトメールかな。それとも友達かな。そんなふうにちらりと視線をスマホに向ける。勉強中だから触らない。見るだけ。そんなふうに自分に言い聞かせて。
 見えた通知に、白布賢二郎、という名前。びくっと肩が震えてしまってから反射でスマホを手に取ってしまった。それから少し固まって、ちょっとばつが悪くなる。受験勉強中はスマホを触らない。自分で作ったルールだ。こんなに簡単に破っていいのだろうか。少し肩をすくめつつスマホを両手で握ったまま、しばし思案。
 模試の結果が良くなかった。両親からはやんわりと鼓舞されたし、担任からは遠回しに志望校の変更を勧められたほど。まあ、元々わたしの実力より偏差値が高い大学だ。はじめから模試の結果は悪いだろうと予想していた。情けないのだけれど。
 予想はしていた、けど、ショックだった。模試の結果の無駄にカラフルな用紙を見て。志望校の合否判定はCだった。自分なりに勉強方法を変えてみたり、家だと集中できないから図書館に行ってみたり、それなりに努力したつもりだった。そんなわたしを見て両親はとても喜んでくれて、母親は夜食を持ってきてくれたし、父親は行き詰まるわたしを見て気分転換と言って外に連れ出してくれた。担任も「今の調子でいけば」と言ってくれていた。それが、一瞬で崩れ去るわけだ。結果というのは残酷なものなのだと思い知らされた瞬間だった。
 頑張らなきゃいけない。どうしても志望校を変えたくないと言うのだから、次こそは結果を出さなくちゃいけない。だから、受験勉強に集中しなくちゃいけない、のに。
 白布賢二郎。三十七画の線の集合体に心を乱されてしまう。気になって気になって、勉強が手につかなくなる。白布賢二郎。しらぶけんじろう。そんな、ただの名前を見ただけなのに、こんなにも意志が弱くなる。本当、ただただ困る。
 見るだけ。どんな内容か気になって勉強に身が入らないから、ちょっと見るだけだ。自分にそう言い聞かせてそうっとメッセージを開く。白布からのメッセージはたった一行。「お前今時間ある?」だった。
 ないよ、時間なんか。こっちは合否判定Cだったんだよ。白布に割く時間なんて一秒もないよ、馬鹿。そう言いそうになる唇をぐっと噛んでしまう。困った。ああ、なんてわたしは、馬鹿なんだろう。受験勉強で忙しいからまた今度、って返事すればいいだけ。だって頑張らなきゃいけない時期だ。よそ事を考えている暇なんかどこにもない。そんなことはわたしが一番、分かっているのに。
 白布のためなら時間を割けるよ、なんて、思ってしまうのだ。馬鹿だから。ため息がこぼれる。わたしは愚か者だ。受験勉強から逃げ出した情けない受験生。あーあ、これが敗北か。背もたれに体重をかける。ぎし、と嫌な音がしただけで、特に誰もそれを咎めはしなかった。大人しく白旗を掲げながら「多少はあるけど」とメッセージを返す。一体こんな時間に何の用なんだか。分かりもしないことを考えていると、スマホの画面が光った。着信。画面にはもちろん、白布賢二郎の名前があった。そして、当然、わたしはそれに出るしかなく。

「……何の用ですか~」
『開口一番がそれかよ。お疲れ』

 ため息交じりにそう言った白布に一応「はいはい、お疲れ」と返しておく。こういう態度になるのは前からだ。もう白布も文句を言うことはない。
 右手でパラパラと参考書をめくる。何も読んではいないけれど、一応形だけでも、というやつだ。耳元で聞こえる白布の声。それに呼吸を促されているような変な気持ち。何だか支配されているような感覚がして嫌だ。呼吸も、血流も、鼓動も、全部白布に操られているのではないかと錯覚してしまう。

『あんまりうまくいってないだろ、勉強』
「……そうだとしても放っておいてほしいんですけど」
『どれがやばそうなんだよ』

 模試の結果を素直に話すのも白布相手だけ。勉強の愚痴を言うのも白布相手だけ。だから、わたしの苦手分野を把握していて、的確にアドバイスをしてくれるのも白布だけなのだ。
 だからと言ってすべてを話しているわけではない。言いたくないことくらい誰にだってある。相手が相手だ。知られては困ることも多いし、知られたくないことも大いにある。勉強のことも、その他のことも。
 白布が何を考えているのかがよく分からなくなるときが増えた。どうしてそんな視線を向けてくるのか分からないときも、どうしてそんな言葉を紡ぐのか分からなくなるときも。きっと意味はない。白布も意味を含ませているわけではないのだろうと思う。けれど、無意識下のうちに、意味ができてしまっている。そんな曖昧な何かを感じる。何か、なんて表現もこれまた曖昧だから、輪郭が全部ぼやけてしまっているわけだ。お手上げ状態。白布が何か一つでもはっきりしてくれないと永遠に解けない設問のままだ。

「というより白布は? 余裕ですって感じですか~?」
『そんなわけないだろ』
「じゃあ人の心配より自分の心配しなって。お互い頑張ろうね」

 しん、と静かになる。いつもはすぐに何かしら言葉を返してくるのに、珍しく白布が黙った。こんな変なタイミングで黙るなんて、何か気に障ることでも言っただろうか。自分の発言を思い返してみるけれど、特に嫌なことを言ったわけじゃない、と思うけどなあ。これが白布のことを分かっていない証拠なのだろう。一応、一番仲が良い異性の友達、という自負はあるだけに、へこむ。
 耳をくすぐるような呼吸音。それが聞こえて、ざわっと心臓が揺らめいた。言葉を発するための呼吸。そうだとしても、白布のそれはわたしにとっては、心臓に吹きかけられるようなものになる。困る。本当に。

『心配くらいさせろよ』

 ほんの少し拗ねたような声。それを投げつけてから白布が「何かあったら連絡してこいよ。じゃあな」と早口で言って、プツッと電話が切れた。無慈悲に鳴るビジートーン。呆気に取られてスマホを耳に当てたまま固まってしまう。
 心配くらいさせろよ、だって。何なのあんたは。少女漫画に出てくる男かっつーの。ようやくスマホを耳から離して机に置く。そのまま机に顔を伏せて、一人、うるさい心臓と戦う羽目になってしまった。