5時間だけあなたがいない世界

白布賢二郎

 付き合い始めて二年目の冬。高校からは別の学校に通うになり、会える日も少なくなってしまった。そんな中、白布くんとはじめて喧嘩をした。これまで喧嘩なんて一度もなかったのに。
 喧嘩のきっかけは土曜日の出来事だ。わたしはいつもより部活が長引いて、もうずいぶん暗くなった中を帰らなくてはいけなくなってしまった。同じ部活の子たちはみんな反対方向。もう慣れたつもりだったけど、ちょっと怖いな。そんなふうに思っていたら野球部の男子が声をかけてくれた。方向が同じだから途中まで一緒に帰ろうか、と。その人は一年生のときに同じクラスだったし、それなりに会話をしたこともある。怖い、という気持ちには嘘がつけなくて、少し恥ずかしかったけどお願いすることにした。
 日曜日である今日の朝。珍しく白布くんから連絡があった。連絡をくれたことが嬉しくて、わくわくしながらメッセージを開いてみると、たった一言。「昨日一緒にいたやつ、誰?」だけだった。急にそう聞かれていまいちピンと来なくて、ちゃんと考えてから「いつのこと?」と素直に聞いてみた。どうやら、白布くんからしたらそれが、まるでわたしが隠し事をしようとしているように思えたようで。「言えないような相手ってことな。分かった」と返信があった。
 余計に混乱してしまったわたしは謝ってから正直に、いつのことで、どんな相手のことで、どこのことなのか、ともう一度聞いてみた。その数十秒後に白布くんからの着信。恐る恐る出てみたら「昨日の夕方、一緒に駅にいた男」と言われて。それでようやく何のことかを理解できた。帰りが遅くなってしまったこと、暗くて怖かったけど頼れる人がいなかったこと、たまたま声をかけてくれた人がいたこと。そのことを白布くんに話した。
 白布くんは静かにわたしの話を聞いたのち、少しだけ黙ってから「ふうん」と低い声で言った。嘘は一つもない。わたしは本当のことしか話していないから、白布くんにもそれが伝わっただろうと安心した。でも、次に白布くんから飛び出た言葉が「それにしてはやけに楽しそうだったけどな。付き合ってるみたいに」だった。
 わたしが、誰かと楽しく話すのは、いけないことなのだろうか。もやもやとしたそんな気持ちが一瞬で体中に広がった感覚。怖いと思っていたところに声をかけてくれた人と、楽しくお話ししちゃいけないのだろうか。せっかく一緒に帰ってくれているのに、隣を歩くだけで黙り込んでいろってことなのだろうか。そんなふうに反発心が出てしまう。送ってくれた男子とは漫画の話で盛り上がっただけだ。好きなジャンルが似ていたからお互いのおすすめを教え合っていただけ。それの、何が悪いのか。
 一緒に帰ること自体が良くなかった、というのであれば。わたしだって、できれば、白布くんと帰りたいよ。そう思う。でも別々の学校だし、そもそも白布くんは寮に入っている。そんなことは何があっても無理なのだ。暗いのが怖くても、一人で帰るのが寂しくても。白布くんがいないのなら別の誰かと帰るしかない。そう、何度わたしが寂しい気持ちになったかを白布くんはきっと知らないだろう。
 わたしが誰と帰っても、誰と楽しく話しても、白布くんには関係ない。そう言ってしまった。思ってもいないのに。飛び出ていったわたしの言葉に白布くんが「そうかよ」とだけ言って、あっさり電話が切られてしまった。それが、五時間前の話。
 時刻は午後二時半。いつもなら日曜日のこの時間帯は好きな漫画を読んだりスマホを見たりして楽しく過ごしている時間帯だ。でも、ちっとも楽しくない。さっきからずっとベッドに丸まって泣いているだけ。お昼ご飯の時にお母さんが呼びに来てくれたけど、体調が悪いからと嘘を吐いた。お腹なんて空いていなかった。何をするにも、何を考えるにも、白布くんの声がちらついて。
 枕元に置いているスマホが鳴った。誰からの連絡にも出る元気がない。放っておこう。布団にくるまったまま無視を決め込んでいると、着信音が鳴り止んだ。ぐず、と鼻をすすって一応相手が誰かを見ておく。画面に表示されていたのは白布くんの名前。電話だった。余計に元気がなくなった。
 そんなふうにスマホをまた枕元に置こうとした瞬間、また着信音。今度は通知を知らせるものだ。画面には白布くんからの新着メッセージ。別れ話だったらどうしよう。そんな心配をしながらも、内容が気になって。迷いに迷ってメッセージを開いた。そこには、一言だけ。

『近所の公園にいるから』

 わたしの家から近所の公園までは走ったら五分ほどで着く。ぼさぼさの髪を一つに結んで、着替えて家を飛び出した。母親からは「体調悪いんじゃないの?!」と声をかけられた。でも、今はそれどころじゃなくて。「ごめんそれ嘘!」とだけ言った。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 白布くんとはもともと、そこまで話したことがあるわけじゃなかった。中学二年生で同じクラスになって、体育祭の男女混合リレーで同じチームになったことがきっかけで仲良くなった。わたしからのバトンを受け取るのが白布くんだったから、バトンパスの練習でよく話した。第一印象はちょっと怖そうな人だったっけ。
 体育祭、男女混合リレー本番。みんなあんなにちゃんと練習していたのだ。わたしのせいでそれを無にしたら、と思ったらガチガチに緊張してしまって。いよいよわたしにバトンが回ってきた。絶対こけるのだけはだめだ。そう気を張って走った結果、二人に抜かれた。それに緊張が振り切って、白布くんにバトンを渡そうとした瞬間、バトンを落としてしまったのだ。
 終わった、と思った。慌ててバトンを拾おうとしたら、慌てすぎてそこで足が滑って転んだ。白布くんの顔が見られないまま「ごめん……」と呟いてバトンを渡したら、白布くんがバトンを受け取りながら言ったのだ。「大丈夫。どうにかする」と。
 たぶんあの瞬間、わたしは白布くんに恋をしたのだろう。そのときは気付いていなかったけど、その日から白布くんのことをずっと考えてしまって、気付いたら目で追ってしまっていた。それから紆余曲折を経て白布くんに告白、その後一週間答えを保留されてから、付き合うことになった。
 そんなことを思い出しながら公園の前について、そうっと木の陰から覗いてみる。すぐに白布くんの姿を見つけてしまった。モノトーンのスポーツウェアを着ている。もしかして部活だったのかな。終わってから来てくれた、とか?
 白布くんのことをずっと考えているはずなのに、白布くんがもうどこにもいないような時間だった。たった五時間。白布くんと会えない日がこれまでも続いていたし、会えてもほんの数時間なんてこともよくある。それでも、こんな気持ちになったことはなかった。やっぱり、喧嘩したままは、嫌だなあ。ぼんやりそう思った瞬間に「おい」という呼びかけが聞こえた。

「いつまで隠れてんだよ」
「あ、し、白布くん……」

 白布くんがいつの間にかすぐ後ろにいた。少し顔を見てからすぐに目を逸らす。気まずい。あんなふうな言い合い、したことがない。なんて言えばいいのか分からない。正直逃げてしまいたかった。
 黙り込むわたしに、白布くんがため息を吐いた声が聞こえた。このままだと嫌われてしまうかもしれない。それでも、どうしても自分が悪いことをしたと思えなくて。なんと言えば白布くんは分かってくれるのだろう。そう思ったら唇を強く噛んでしまった。

「悪かった」

 不意にそんな声が聞こえてきた。びっくりして顔を上げたら、白布くんがとんでもなく恥ずかしそうに「ちょっと焦った。だからごめん」と言う。焦った、とはどういうことなのだろう。よく分からなくて相変わらず黙りこくってしまう。

「別々の学校になって正直会う時間も減ったし、元々そういうことを器用にできるタイプじゃないから、嫌になられたのかと思って」

 バツが悪そうに言う白布くんを瞬きも忘れて見つめてしまう。嫌になられたのかと思って、って、どうして? 白布くんが忙しいことはよく分かっているし、わたしが時間を合わせられないときだって何度もあった。お互いそれぞれの生活があるのだから合わないことがあるのは当たり前だ。白布くんが器用だろうが不器用だろうが、できないことはできない。それだけのことだし、お互い様なところが多いのに。そんなふうに思っていたなんてはじめて知ったから驚いてしまった。

「暗くて一人で帰るのが怖いって頼られても、俺は一緒に帰ってやれないから……なんというか、あの一緒にいたやつに、勝手にムカついたというか」

 白布くんはぽつぽつとそう言った後、最後にもう一度「だから、ごめん」とわたしの目を見て言ってくれた。わたしもようやく声が出せて、「わたしも嫌な言い方してごめんね」と言えた。白布くんはわたしから目を逸らして「いや、は悪くない」と言って軽く頭をかいた。
 部活はオフだけど体育館は開放されているそうで、部活の人たちと自主練習をしていたそうだ。そのときに先輩からなんとなく様子がおかしい、と指摘されたらしい。何でもかんでも絡んでくる先輩だそうで、しつこく理由を聞かれたのだという。全部かわしていたそうなのだけど、最終的にはあまりのしつこさに負けて「彼女と喧嘩しました」とだけ答えた、と白布くんは忌々しそうに教えてくれる。結局そのことが部員のほとんど全員に広まり、「仲直りしてこいよ」と体育館を追い出された、というわけだった。

「丸一週間はからかわれる」
「あはは、頑張ってね」
「他人事かよ……」

 謝るためにわざわざ会いに来てくれた。そういうところがとても好きで、好きで、たまらない。
 白布くんが「どこか行くか」と言った。でも、軽装で来てしまっている。しかも大急ぎで来たものだからうっかり上着を忘れていた。ちょっと肌寒い。一回家に帰って着替えてからのほうがいいかなあ。そんなふうに思っていたら、白布くんがスポーツウェアの上着を脱いでわたしに貸してくれた。「走って帰るからいい」と言って。
 でも、さすがに借りるのは忍びなくて。返そうとしたのに白布くんが「いい、着てろ」と脱ごうとするわたしの手を掴んだ。そのあとで「貸すから、返すための約束はから連絡してきて」と、とんでもなく照れくさそうに言う。思い起こせばわたしから会う約束を取り付けたことはない。白布くんのほうが忙しいし、きっと疲れているだろうから連絡をするのが申し訳なくて。もしかして、ちょっと気にしていたのかな。そう思ったら嬉しくて、嬉しくて。五時間分の切ない気持ちはもう跡形もなく消えていた。