君との思い出をずっと考えた5日間

佐久早聖臣

 付き合って十年目の聖臣くんから、プロポーズされた。突然高級なレストランに連れて行かれて、食べたこともない上品な料理が出てきて、びっくりするくらいきれいな花束をもらって、よくドラマで観るプロポーズのシーンみたいに聖臣くんがわたしの前に跪いて。何が起こっているのか全然理解が追いつかなかった。頭の回路がショートしたわたしが弾き出した答えが、「ちょっと考えさせてください」というものだった。
 人生ではじめて仮病で会社を休んだ。熱が出たと嘘を吐いた。これまで有休消化以外で会社を休んだことはない。上司はとても心配そうに「無理しないでね。つらかったら明日も休んでいいよ」と言ってくれた。あまりにも重たい罪悪感。けれど、これっぽっちも動ける気がしなかった。今日は木曜日。そして、来週の月曜日は祝日。金曜日も休んだら五連休だあ。わあ、嬉しい。ベッドに沈んだまま一人でそう笑ってしまった。
 スマホがずっと鳴っている。電話をかけてきているのはずっと聖臣くんだ。昨日、高級レストランから走り去るように逃げてしまった。そのことについて問いただされるに違いない。それが怖くて電話に出られずにいる。
 高校三年生のときから聖臣くんと付き合って、もう十年。わたしも聖臣くんも二十八歳になった。結婚とか、そっか、考える年齢だよなあ。他人事のようにぼんやり思って、勝手に涙が流れた。
 どうしても、自信がなかった。聖臣くんはどんどんバレーボール選手として活躍していって、どんどんわたしにはもったいないすごい人になっていく。付き合い始めたときからずっとそうだった。わたしには、もったいない人なのだ。何か秀でたものがあるわけでもなく、何か特別にしてあげられることもなく、何か力になれることもない。聖臣くんにはもっと相応しい女性がごろごろといるはずなのに。聖臣くんは浮気もしなければ、他の女性を好きになることもなくて。そのまま十年が経ってしまった。
 ずっと好きだったから、両想いだと知ったときは嬉しくてたまらなかった。付き合い始めてからはずっと夢みたいな毎日だったなあ。あの何も考えない子どものままでいたかった。そんなふうにまた涙が出た。
 聖臣くんが活躍するたび、聖臣くんが有名になるたび、どんどん遠くに行ってしまう気がした。当たり前だ。わたしと聖臣くんでは存在価値が違いすぎるのだから。釣り合わなくて当然だ。いつか聖臣くんにとって相応しい女性が現れて、わたしとは別れてしまうのだろうと、ちゃんと理解していた。それまでの時間は、夢の時間を過ごしても罰は当たらないよね。そんなふうに思っていた、のに。
 プロポーズ、嬉しかった、けど。わたしじゃだめだよ、とまず思ってしまった。しかも、絶対聖臣くんならやらない王道プロポーズのシチュエーション。わたしなんかのために無理しちゃだめだよ、とつらくなってしまった。もっともっと相応しい人が必ずいるのに、どうして、十年も経ってしまったんだろう。
 そう思った自分が、何より嫌いだった。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 月曜日、夜十一時半。結局金曜日も仮病で休んだ。熱が下がらない、と言えば上司はとても心配そうに「病院行った? あっしんどいから行けないよね? 何かあったら連絡してね?!」ととんでもなく心配してくれた。申し訳なさで死にそうになっている。休まなきゃよかった。そうは思っても、体の重さは全然消えないままだ。
 さすがに明日は行かなくては。仕事もたまっているだろうし、同じ部署のみんなにも迷惑をかけてしまっている。グループラインではみんな「無理しないでね」とか「何かあったら言ってください」とか、たくさん言葉をかけてくれた。それさえも申し訳なくて、どんどん気が重くなっていくばかり。
 枕がびちゃびちゃになっちゃう。苦笑いをこぼしながらどうにか体を起こす。鼻をすすって目元をこすると、余計に涙がぼろぼろと落ちていった。情けない。好きな人からのプロポーズを素直に受け止められないかわいくない女。本当、聖臣くんはわたしにはもったいない。
 顔がぐしゃぐしゃだ。とりあえずお風呂に入ろう。明日はいつも通りに会社に行かなくちゃいけない。絶対に変な顔はできない。苦笑いをこぼしてお風呂場へ向かう。出勤したら案外仕事のことで頭がいっぱいになるだろう。大丈夫。それから勇気を出して聖臣くんに連絡しよう。
 聖臣くん、木曜日から一週間は仕事があると言っていたから連絡してこないだろうと思っていたのに、毎日連絡をしてくれる。一度も出ていないのだけれど。気にしてくれるんだね、わたしなんかのこと。そんなかわいくないことを思ってしまう。それにいつも胸が痛い。
 掃除を終えた浴槽にお湯を張っていく。この水の音、落ち着くから好きなんだよね。ずっと聞いていられる。服が濡れるのも構わず座り込んで、浴槽に溜まっていくお湯を見つめた。
 聖臣くんと結婚したら、毎日幸せだろうなあ。好きな人と一緒にいられるなんて素敵なことだ。聖臣くんはなかなか家に帰ってこられないだろうけど、それでも、帰ってくる場所がわたしのところになるんだ。おこがましいけれど、とても、素敵な話だ。

「おい」

 びっくりしすぎて浴槽に思いっきり頭を打ち付けた。立ち上がろうと浴槽の縁に手をつこうとしたら滑って床に強打。体は崩れ落ちるし、滑った手が当たってシャワーが全開になった。
 その状態のまま、恐る恐る顔を上げる。そこには当たり前のように聖臣くんがいて、体が完全に固まった。え、なんで、ここに。あ、そっか、合鍵持ってるから、来てくれたんだ。いつもは必ずチャイムを慣らしてから入ってくるのに。こんなふうに勝手に入ってくるのはわたしがいないときだけだったはず。バスルームにいたから音が聞こえなかっただけかもしれないけれど。
 いや、というか、聖臣くん、ずぶ濡れになってる。わたしが手を滑らせたシャワーが完全にお腹に直撃していた。な、なんてことを。絶対に聖臣くん怒ってる。どうしよう。

「あ、ご、ごめん、なさい、止めます、すぐに止めるので!」

 泣きたい。いや、さっきまで泣いていたけれど。ようやくほんの少しだけ前向きになれるかもって思っていたのに。半泣きでシャワーを止めようと手を伸ばしたら、わたしの前でしゃがんだ聖臣くんが、その手を掴んだ。
 しゃがんだせいで聖臣くんが頭からずぶ濡れになってしまう。そんなことなど気にしない様子で、聖臣くんはわたしの手を握ったまま、小さく深呼吸をしていた。急に、どうしたんだろう。それに仕事はどうしたんだろう。しばらくこっちに来られないって言っていたはずなのに。握られた手が痛いけど、そんなことより、聖臣くんのことが気になって仕方がない。

「なあ」

 シャワーの音と、浴槽にお湯が溜まっていく音。それに混ざって聖臣くんの声がバスルームに静かに響く。きつく握られた手を聖臣くんが引っ張ると、いとも容易く引き寄せられた。ぎゅっと抱きしめられると、濡れた聖臣くんの髪が頬に張り付いた。聖臣くんはわたしの首元に顔を埋めて、また小さく深呼吸をしていた。

「逃げるなよ」

 小さな声だった。主語も何もない。それ以外の言葉は何一つなかったけれど、わたしには意味が分かってしまう。
 勘違いをしてしまいそうな十年だった。わたしにとって。この大きな体に、わたしなんかのちっぽけで小さな体はいつも包み込まれてしまう。きっとこの腕に中の温もりを知っているのはわたしだけなのだ、なんておこがましい勘違いをしてしまう。知っているのはわたしだけかもしれない。でも、知っていいのはわたしだけじゃない。わたしじゃないもっともっと相応しい人が、ここに包み込まれるべきなのに。わたしだけが、知っていていいのだと、勘違いをしてしまう。
 たった五日間で覚悟が決まるわけなんかない。聖臣くんと結婚するという覚悟も、聖臣くんとお別れするという覚悟も。わたしにはどちらも決められなくて。こんなに好きだから、わたしなんかじゃ釣り合わないと思う。でも、こんなに好きだから、別れたくないとも思う。面倒な女なのだ、わたしは。
 でも、やっぱり。わたしじゃ相応しくない。この腕の中の温もりを再確認して、体の大きさを知って、聖臣くんの声を聞いたら、そう思った。あんなに素敵なプロポーズが似合ってしまう人だ。どんな女性でもいちころで落ちる。絶対うまくいく。ちょっとだけ無理をしているように見えたけど、それが何より嬉しかった。わたしのためにやってくれてるんだな、って、思ったから。
 素直にそう言った。わたしじゃ釣り合わないよ、と。あんな素敵なプロポーズをしてもらえるような女じゃないよ、と。いつか振られるだろうと思っていたことも、聖臣くんがもう遠い人すぎてわたしには荷が重いことも、全部。夢はいつか覚めるものだから。包み隠さずに話した。
 決死の告白だった。必死だった。言葉を紡ぐことってこんなに大変だったのだと、二十八年生きてきてはじめて思ったほどに。

「はあ?」

 その一言だった。聖臣くんはわたしを一旦引き剥がして、信じられないものを見るような目をしていた。その表情にわたしはびっくりして固まってしまう。伝わらなかったのかな、と言葉を尽くそうとするのだけど、聖臣くんが「いい、もういい、本当にいい」と遮ってきた。どうやら呆れられたらしい。苦笑いがこぼれてしまった。でも、本当のことだよ。百人中百人がそう言うんだよ。聖臣くんはそれくらいすごい人なのに。
 聖臣くんが深いため息をつきながら、またぎゅっと抱きしめてきた。わたしの耳元でもう一つ大きなため息をついてから「ふざけんな」と情けない声で呟いた。

「お前が相手じゃなかったら、あんなクソ恥ずかしいこと誰がするかよ」

 馬鹿、と忌々しそうに言われてしまった。そのままの勢いで、わたしが店から逃げていった後に見知らぬ店員さんから「気を落とさないでください」と気遣われたこととか、最後に出てきた二人分のデザートを一人で食べたこととか、行き場を失った指輪をしばらく見られなかったこととか、いろんなことを一気に話された。聖臣くんは「全部お前のせいだからな」とわたしを抱きしめる力を強めて吐き捨てた。

「この五日間、俺がどんな気持ちだったか分かるか」

 無心で練習に打ち込んでいたらチームメイトから怖がられたとか、ホテルに帰るために歩いていたら躓いたとか。いろんな恨み言を言われる。ふとした瞬間にわたしが逃げていった背中を思い出しては、どうしようもなくむなしかったと。聖臣くんはぽつぽつと話してくれた。その最後に、わたしを抱きしめていた腕を離す。それからポケットに手を入れて、もうすっかりずぶ濡れになっているリングケースを取り出した。

「俺との十年間が全部、夢だったみたいに言うな」

 ほとんど押しつけられたみたいに、リングケースを握らされた。わたしの手が開かないようにきつく、きつく聖臣くんの両手が押さえつけている。手が痛い。でも、それよりも、わたしの言葉が聖臣くんを傷つけたという事実が、何より痛かった。
 聖臣くんが五日前に着てきてくれた服はわたしが似合うと言ったものだった。選んでくれたレストランは、わたしが好きなドラマに出てきたところだった。渡してくれた花束はわたしが好きな花ばかりだった。今、渡してくれているリングケースは、わたしが憧れていたブランドのものだ。落ち着いて見てみれば、全部、わたしだけのために、聖臣くんが準備してくれたものだった。

「今この瞬間も、夢だって言うのか。

 わたしの名前を呼ぶ声が好きだ。何があっても、どんなことがあろうとも、わたしだけに向けられたものだと分かるから。こんなふうに絞り出したような声ははじめて聞いた。でも、やっぱり、わたしに向けられたものであることに間違いはなくて。
 今この瞬間も、夢だと言うのか。聖臣くんの問いかけをもう一度自分の中で繰り返して、きゅっと唇を噛んだ。夢でもこんなシチュエーション、見たことがない。こんな夢はどんなに深く眠りについても見られない。
 もうお互いびしょ濡れだね。鼻をすすりながら笑ってしまう。聖臣くん、服が濡れるの何より嫌いなのに。髪が濡れたままなのも好きじゃないのに、今はいいんだ。今だけはいいんだ。そう思ったら抱きしめ返す腕が勝手に強くなった。