5年分の想いが溢れていく

北信介

「あ、信介やん」

 正門をくぐろうとしたところで、幼稚園からの幼馴染の姿を見つけた。北信介。昔からドがつくほどの真面目人間で、怒鳴りもしないし睨みもしないのにいつも何となく圧を感じる。子どものころからわたしもよく叱られたものだった。まあ、すべて正当なお叱りだったので何も言い返せないのが常なのだけど。
 信介は「おう」と軽く返事をしてくれながら、後ろに顔を向ける。建物の陰で隠れていたけれど、どうやら同じバレー部の人たちと一緒だったらしい。声をかけたのは失敗だったな、と少し反省。きっと信介のことだから、もうそのうち暗くなるから送る、とか言い出すだろうから。

「俺、送ってくわ。ほな」
「また明日な~」

 思った通りだった。バレー部の人たちが続々と「さんもまた明日な~」とにこやかに帰っていく。いつの間にかバレー部の人たちにも名前を覚えられてしまっている。しかも二年生と一年生にも。信介の幼馴染というだけの何の面白みもない人間なんですけどね。そんなふうに思いつつ「ほなね~」とあえて軽く返しておいた。

「もう暗なるで送ってくわ」
「やっぱそうやんなあ」
「何がやねん」
「信介やったらそう言うかなあ、と思うて。邪魔してごめんな」

 部活の人たちとわいわい帰るほうが楽しかっただろうに。信介と並んで歩きつつそう思う。青春の一ページをわたしが切り取ってしまった。そんな罪悪感から苦笑いがこぼれた。
 信介はそんなわたしをじっと見てから、ほんの少しだけ目を細める。小さく首を傾げると「何の邪魔や?」と言った。どうやら言葉の意味が伝わっていないらしい。「みんなと帰るん邪魔したやん」と言葉を付け足しておく。それでも信介は首を傾げたままだった。

「何でもええけど、こんな時間まで何しとったんや? 、帰宅部やろ?」
「あー、まあ、うん、いろいろと」
「なんやねんその反応」

 聞かれたくないところを的確に突いてくる。さすがは信介だ。そんなふうに感心しながらも、まあ、言えない事情ではない。送ってくれるわけだしぽつぽつと話すことにした。
 結論から言うと、委員会の後に隣のクラスの男子に呼び出されて告白されていた、というのがオチだ。断ってもなかなか諦めてくれなくて、どうにかこうにか断って今に至る。生まれてこの方告白なんかされたことがなかった。はっきり言うのがなんだか申し訳なくてぼやかしたわたしが悪い。経験値のなさが情けない。自分が言ったことを思い出して、もっとうまく断れていればなあ、と肩を落としてしまった。
 まっすぐ前を見て歩いていた信介が、こっちに顔を向けた。わたしも思わず信介に視線を向ける。信介の瞳はまるで透明かと思うほど澄んでいて、素直に夕焼けのオレンジが映えている。子どもの頃から変わらないまっすぐできれいな瞳。羨ましいな、とこっそり思ってしまった。
 妙に慎重に口を開いた信介が「好きなやつでもおるんか?」と言った。信介が恋バナを振ってきた。そのことに驚きすぎて少し動揺してしまう。「べ、別におれへんけど」と無意味にどもってしまった。

「彼氏ほしいとか思わへんのか?」
「……え、信介、どないしたん? 熱でもあるん? そんなん聞いてくるん珍しいやん」
「なんでやねん」

 俺も一応男子高校生やぞ、と妙に威張って言われた。いや、普段そう思えないから驚いているのだけど。信介がやけに真面目な顔をしているからツッコミを入れられなかった。

「まあ、そらできたらほしいけど」
「やったらなんで断ったんや? 好きなやつがおるからとちゃうんか?」
「怖いで尋問やめて。好きでもない人と付き合うわけないやろ」

 苦笑い。結構な勢いで聞いてくるから驚いてしまった。何が信介のスイッチをオンにしてしまったのだろうか。正論パンチは避けたいところだ。言葉を探しながらそんなことを思った。
 昔からあまり自分に自信がない。好きな人ができても、わたしでは釣り合わないな、と思ってしまう。自分から告白をしたことはないまま。もちろん初恋もそういう性格から実らずじまい。実らないというよりは、なかったことにした、という感じだったけれど。
 自分のことを好きになってくれる人が現れたら、少しは変わるのかなと思っていた。でも、実際目の前にそういう人が現れたら、嬉しいという気持ちよりも「なんで?」という気持ちが大きかった。かわいい子がたくさんいる。優しい子がたくさんいる。人より秀でたものを持った子がたくさんいる。その中から、なんでわたし? 卑屈だけどそんなふうに不思議で、いまいち素直に嬉しいと思えなかったのだ。

「言うてくれた人、去年一緒のクラスやったんやけどさ、めっちゃ優しい人やったんよ。せやから、わたしにはもったいないわ、って断って。それで粘られてしもたんやけど」

 もっとええ子がおるよ、と言われて引き下がる人はそういないだろう。冷静になって考えれば分かるのに、告白されているときはいまいち自分が当事者であるという自覚がなくて。自分がいかに動揺していたのかを思い知らされるようで余計に情けない。
 踏切警報音が耳に刺さる。よく前を見ていなかった。いつの間にかいつも通る踏切まで来ていた。信介はわたしを見ながらもちゃんと前を見ていたらしい。驚いた様子はなかった。

「どんな男やったらと付き合えるんや?」

 電車がやってくる音。それを聞きながら一瞬視線を逸らした。信介、何か、怒ってる? 妙に怖い気がして気付かれないようにゆっくり呼吸をする。やけにまっすぐ見てくるし、瞬きを忘れているんじゃないかってくらい視線がわたしを捕らえて離さない。
 どんな人だったら、か。考えたこともなかった。好きになってくれた人にすら引け目を感じるのなら、確かにどんな人ならわたしはお付き合いできるのだろうか。もしかして一生このまま一人なのかなあ。高校三年生にしてそんなことを思う日が来るなんて。

「かっこええやつやったらええんか? 人より何かしらええとこがあったらええんか?」
「ちょお待って、そんなん急に聞かれても何とも言えへんわ」

 なんでこんなに興味津々で聞いてくるのだろうか。いつもと少し違う信介の様子に怖気付いてしまう。わたしが言葉を考えている間に電車が通過。びゅうっと勢いよく吹いた風に髪が一瞬でぐしゃぐしゃになった。信介の髪もぶわっと揺れている。
 わたしの初恋、信介だったんだよ。誰にも言ったことがないそれをぽつりと心の中で呟く。中学生のときに今日みたいに「暗いから」と送ってくれた日にはじめて自覚した。いつも正しいけど思いやりもあって、誰にでも平等で、ちゃんと何もかもをきっちりこなす信介が、憧れであり初恋だった。でも、想いを告げることはないまま。ちゃんとしすぎているからわたしでは到底釣り合わない。そんなふうに思って、この初恋はなかったことにした。した、はずだったのだ。

のことが好きなだけではあかんのやろ? あと何がいるんや?」

 確実に怒っている。そうはっきりと分かる声色だった。遮断機が上がる。恐る恐る歩みを進めるわたしと一緒に信介も歩き始める。わたしから視線を外し、顔をまっすぐ前に向けた。わたしも同じように前を向いて、きゅっと鞄を握ってしまう。
 必要なものなんかない。わたしのことを好きになってくれても、どれだけかっこよくて、人より秀でたすごいものを持っていても意味がない。わたしのとっては、信介じゃないと、何も意味はない。なかったことにしたはずの初恋がしっかり根付いたまま。知らんふりしてふたをしたつもりだったけど、いつまでもどこかに隠されているから探してしまう。そんなことは昔から薄々分かっていた。でも、それにさえ知らんふりを決め込んだ。

「な、なんでもええやん。ちゅうか、怖い。なんで怒るん」

 どうにか怒らないでいてほしくて、誤魔化すように笑ってしまう。これが信介にとっては一番の悪手だと頭では分かっているのに昔からやめられない。信介は「そら怒るやろ」と小さな声で呟く。やっぱり怒っていた。誤魔化そうとしたのもバレているに違いない。何が気に障ってしまったのだろう。信介の地雷を踏むことに関してはスペシャリストである自負がある。そろそろ返上したい冠だ。

「好きなやつのこと貶されたら怒るやろ」

 信介が突然わたしの腕を軽く引っ張った。驚いていると「自転車」とだけ言われる。前から来ている自転車に気付かなかった。結構なスピードで真横を走り抜けていく自転車にちょっとびっくりする。もしかしてながらスマホでもしていたのだろうか。信介が腕を引っ張ってくれなかったら多少接触していたかもしれないと思うほどの距離だった。
 ごめん、と苦笑いを向ける。信介は「今のはちゃんと前を見てへん自転車が悪い」とわたしの腕から手を離しながら言った。どうやら本当にながらスマホをしていたらしい。そんなに狭い道じゃないのに危ないね。そんなふうに言ったら信介が「そうやな」と、どこか不満げな声色で呟いた。
 信介の声色は大体の人にとっては「いつもと何がちゃうんか分からへん」というくらいのものらしい。あまり関わりがない人からすると感情があまり乗っていないように聞こえるのだとか。表情がない、というわけではないけれど、決して豊かなほうではない。そういうこともあって感情が読み取りづらく思われがちだ。声色だけでも結構変わるのにな、といつも不思議に思う。
 好きなやつのこと貶されたら怒るやろ。信介の台詞を頭の中で繰り返して、ちょっと固まる。好きなやつのこと、貶されたら、怒るやろ? 確かに好きな人のことを好き勝手言われたら怒るけれど、信介の好きな人って、一体?

は優しいししっかり者やし、努力家やんか。何を卑屈になるんか俺にはよう分からへん」

 また前を向いて信介が歩き始める。慌ててわたしも追いかけるように隣を歩くと、信介がちらりとこちらを見た。「やから、あんま自分を悪く言うもんやないで」と笑う。
 ぽつりと、こぼれ落ちたように信介が「中二のときに」と話し始めた。中学二年生。もう五年も前の話だ。それをまるで昨日のことのように思い返して話す信介は、なんだかとても、晴れやかな顔をしているように見えた。

「お前、泣いてくれたやんか。俺がユニフォームもらえへんかったこと」

 わたしもよく覚えている。信介は中学時代、バレー部でユニフォームをもらったことがない。わたしからすれば誰よりも真面目に、真摯にバレーボールと向き合っていたのに。どうしてそれが形として現れないのか。そうわたしはとても悔しかった。でも、信介はわたしの前でそれをどうとも言わなかったし、何なら笑って「うまいやつがもらうもんやから」と当たり前のように言った。そんなことはわたしも分かっている。分かっていたけど、それでも、悔しかった。思わず信介の前で泣いてしまったことはわたしにとっては黒歴史だ。

「それからずっとや」
「え?」
のこと好きなん」

 飛行機が飛んでいる音が聞こえた。ゴオゴオといううるさい音。他にも車の音やカエルの鳴き声、強く吹いた風の音。人によってはうるさいと思える音がたくさん周りに溢れている。わたしの耳には唯一、信介の声だけがとても透明できれいな音に聞こえた。
 完全に思考が停止していた。目の前のものを見つめることで精一杯で仕方がない。立ち止まってしまったわたしを、信介が立ち止まって振り返ってくれる。数秒わたしを見つめたのちに小さく笑みをこぼして「言うてしもたわ」と呟く。風に紛れて飛んでいってしまいそうな声だったけど、ちゃんとわたしの耳に届いた。
 わたしよりきっといい子がいる。別の人が相手だったらわたしはそう言っただろう。現にそう思っている。だって、わたしは、信介が言ってくれたみたいに優しくもないし、しっかり者でもないし、努力家でもない。信介のことが好きだから特別扱いをしてしまっただけ。信介がちゃんとした人だから真似をしようとしていただけ。信介の近くにいても恥ずかしくないように自分なりに頑張っただけ。全部、信介がいなければそうしていなかったから、わたしは信介が思うような人ではないのだ。

「試合、見に来てな」

 はじめはベンチやと思うけど、と信介が笑った。背番号一番、しかもキャプテンマークがついているユニフォーム。それをもらったと聞いたとき、信介のおばあちゃんと二人で自分のことのように喜んだことを覚えている。信介がもらったものだから、嬉しくて当たり前なのだ。
 信介がユニフォームをもらえなくて、なぜだかわたしが泣いてしまった日のことを思い出す。それからの日々をじわじわと思い出していって、ぎゅっと拳を握った。信介は嘘を言う人ではない。変に気を遣う人でもない。ただただいつも誠実でまっすぐな人だ。わたしは誰よりもそれを知っている。だから、今の言葉のすべてが、わたしだけに向けられたとてもまっすぐな言葉なのだ。きっと言うつもりはなかったであろうものが信介の口からこぼれ落ちたのだろう。
 信介が「早よ行くで、暗なってまうやろ」と笑った。少し照れ隠しをするようなかわいい笑い方だ。それでも立ち止まったままのわたしを、困ったような顔をして見つめる。「忘れてくれてええから」と信介が言った瞬間に、それまで聞こえていた他の音すべてかこの世から消えたみたいに、自分の心臓の音だけしか聞こえなくなった。
 わたしはうまく、伝えられるだろうか。この溢れて洪水を生み出しそうな気持ちのすべてを。五年分の想いを何よりも熱くて優しい言葉にしてくれた信介に、わたしは、ちゃんと伝えられるだろうか。考えれば考えるほど答えが見つからなくて、先に涙になってしまった。それに慌てた信介が、珍しく狼狽した様子で「ごめんな、びっくさせてしもうたわ」とおろおろしているのを笑ってしまう。この涙はそうじゃないと、なんて伝えよう。答えは見つからなかった。でも、涙を拭いながら、ようやく息を吸えた。