たった5分で天国まで行けるね

二口堅治

 深夜二時。冷蔵庫からペットボトルの水を取り出した。喉が渇いて仕方がない。キャップを開けて一口飲むと、冷たい水が自分の中へ落ちていくのがよく分かった。息を吐きつつキャップを閉め、また冷蔵庫にペットボトルを戻した。一つ伸びをしながら、横目でちらりとベッドを見つめる。即行で寝られてほんの少しだけ拗ねている。寂しいじゃん。なんて。
 ペットボトルを片手に持ったまま、ベッドの端に静かに腰を下ろす。ベッドが軋むかすかな音が部屋に響いた。夜に染まっている部屋の中だとあまりにもうるさい音だ。眠りこけているアホ面が起きてしまうのではないかと少し焦ったけど、何事もなかったように規則正しい寝息が続いている。鈍感なやつ。まあ、昔からだけどな。
 窓の外に目をやる。夕方頃から降り始めた雨がまだ降っていた。窓ガラスにぶつかるたびに繊細な音を立てている。特に好きな音というわけでもないのに不思議と心地よく聞こえる。これが土砂降りだったらただの雑音なのだろう。それでも、しとしとと降り注ぐ雨の音は、嫌いではなかった。
 もう明かりがついている家はない。ひっそりと寝静まっている窓の外は別世界のように真っ暗だ。月が見えない夜空は吸い込まれそうなほどの暗闇が広がり、見つめていると何かが蠢いてるような気味の悪さがある。
 真っ暗だと眠れない、といつもごねられていた。仕方なく小さな間接照明を買ったのは約二ヶ月前。一緒に大手インテリアショップに行って選んだ。球体型の月みたいに明るいライト。かわいいからこれがいい、と笑った顔がかわいくて、葛藤の末それにしたことを覚えている。暗くないと眠れない俺と、暗いと眠れないやつ。できるだけ明るくないのにしろ、と言う俺を完全に無視してそこそこ明るいものを選んできた。今でも根に持ってるんだからな。そう、眠りこけているそいつのことを見つめながら笑ってしまう。実際ライトを付けて眠るようになってからはあまり気にならなくなった。そう言ったら「よかったじゃん」と笑っていたっけ。いや、それもこれも俺の順応性の高さのおかげだろ。分かってんのか、なあ。そんなふうに軽く髪を撫でてやった。
 それにしても起きないな。ちょっと笑ってしまう。すやすや気持ち良さそうに眠りやがって。俺の枕まで使ってんじゃん。真ん中で寝るなよ。相変わらず寝相悪いな。そんなふうに思いながら顔にかかっている髪を払ってやる。髪、伸びたな。切ろうか伸ばそうか迷っている、と話していたのはもう一ヶ月も前のことだ。どっちがいいかな、と聞かれたから長くても短くてもどっちでもいい、と答えた。そうしたらなぜだか拗ねられて困ったことを覚えている。どっちもかわいいから好きにしろってことだろうが。なんで拗ねたんだよ。未だによく分からないままだ。
 じっと顔を観察していたら、小さく「ん~」と声が聞こえた。起きるのかと思ったが、眉間にしわを寄せてもぞもぞと寝返りを打っただけだった。おい、また俺のほうに寄ってってるぞ。本当に俺の場所がないんだけど。つーか、ここ俺んちだぞ。家主を追い出してすやすや眠りやがって。掛け布団も完全に持って行かれている。本当、仕方ないやつ。
 きっと、永遠に俺がこうして寝顔を見ていることなど知らないままだろう。眠るのは俺のほうが遅いし、起きるのは俺のほうが早い。一度眠るといつもの時間まで起きないタイプだから、こうしているときに起こしたことはただの一度もない。あんまりにも起きないからたまに心配になるほどだ。
 意外と好きなんだよ、この時間。起きているとピーピーギャーギャーうるさいやつが、恐ろしく静かに穏やかな寝息を立てているのが面白い。面白いし、何より、見ていて落ち着く。寝ていないのに寝ているのと同じくらい休まるというか。死んでも本人には言わないけど。調子に乗るから。
 だから、これからもずっと、起きるなよ。こっそり頬をつついておく。子どもみたいにもちもちした肌しやがって。いつまでも触ってしまうだろうが。笑いながら責任転嫁してやった。無防備に眠りこけてむにゃむにゃしているやつが悪い。たとえ、こんなふうに眠りこけるまで抱いたのが俺だとしても。俺は何も悪くない。よって、頬をつつくことは無罪。何をしても俺は無罪だ。一人で得意げに笑って気が済むまで頬をつついてやった。
 寝惚けて変なことを言うのが好きだ。起きた途端に「ぱんけーき……べしょべしょ……」と呟いたことがある。どんなパンケーキだよ、蜂蜜でもかけすぎたのか? そう大笑いしてやった。どれだけ馬鹿にしても不思議そうにするものだから余計に笑ってしまったな。それでもしばらくは寝惚けていたのが余計に面白くて。何度が動画を撮ってやったのを見せたらめちゃくちゃに怒られたっけ。何を言われても消してやるつもりはないが。
 でも、寝惚けて他の人の名前を呼ぶのは嫌い。俺と間違えて呼んだわけじゃなくて、夢の続きを綴るように口からこぼれ落ちただけだとしても。女友達だろうが家族だろうが俺が知っているやつだろうが、俺以外の名前はあまり聞きたくない。寝惚けているときだけじゃなくてどんなときでも。俺以外の名前はできれば言ってほしくない、なんて我が儘は永遠に閉じ込めておく。無理なことは百も承知だからだ。
 いつも以上にノーガードになるのが好きだ。普段から何をしても基本的に嫌がらないけど、寝起きは本当に何も嫌がらない。ふざけて胸を触ったりお腹をつまんだりしてもぽやっとした顔を向けてくるだけ。かわいいんだよな、あの顔。最終的にキスをしたら一気に目が覚めるところも好き。でも、一度だけその顔を別の男に向けた場面に遭遇したことがある。飲み会でダウンしたところを、俺が知らない間に介抱してくれた青根に対してだ。ぽやっとした顔でじっと青根を見ていたところを目撃してしまって、さすがにムカついたな。介抱してくれていた青根には申し訳なかったけど。後で聞いたら俺と間違えた、と謝られた。俺と青根をどうやったら間違えるんだよ。そう怒ったけど、内心、本来は俺の前だけなんだな、と喜んでしまった。
 と、まあ。ただ寝顔を見ているだけなのに、こんなにも感情が尽きない。本当に不思議なやつだよ、は。付き合いはじめる前も、付き合い始めてからも。ずっとそれは変わらない。ただ寝顔を見ていただけの五分。それを改めて心から思った。変なやつ、から、変わってるやつ、になって、最終的に不思議なやつ、になった。永遠に変わらないのだろう。
 。声に出して呼んでみる。物思いに耽っていたら少しだけ声が聞きたくなったから。やっぱり起きないからもう一回。今度は少し耳に顔を近付けて。。俺の声に瞼がほんの少しだけ動いたけれど、開くことはない。なんか、夢に負けた気分。腹立つわ~。でも、やっぱり笑ってしまった。