休日の夜。 部活から帰って来た時間を狙って蛍の部屋に押し掛けた。 夕飯は食べて来たけど、月島家の食卓にいれてもらってしまった。 もう少しだけ時間を考えればよかったなあ、と反省しつつ。 案の定、蛍は不機嫌になってしまって。 蛍が不機嫌であることには知らんふりをして、いつも通りちょっかいをかけまくった。 怒りながらお風呂に行ってしまった蛍を笑いつつ、またしても勝手に部屋にお邪魔してベッドに寝転んでいる。 帰ってきたらまた怒るんだろうなあ。 そう思いながら。
 まあ、案の定怒られたよね。 蛍はもう洗面所で髪を乾かしてきたらしく、もうすでに眠る準備は完璧という様子だ。 せっかく幼馴染が遊びに来てるのにもう寝ちゃうのね。 そう拗ねたふりをしたら当然のように「寝るからどいて。 帰って」と言われる。 冷たい幼馴染だ。 でもそういうところ、好きだなあって思うのだから、わたしは本当にどうかしている。
 別々の高校だからね、わたし、どんどん蛍のこと知らなくなっていくんだよ。 心の中でぼそりと呟くけど、もちろん蛍には聞こえるはずはない。 でもどうしようもない事実なんだ。 中学のときは当たり前のように知っていたことを、もうわたしは知らない。 その事実が鋭く尖って突き刺さるんだ。 いとも簡単に貫くんだ。




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「これ、どういう状況なわけ? 帰れって言ったよね? 聞いてなかったの? 耳ついてないの?」
「絶好調で安心するー!」

 昔からばかだとは知っていたけど、本物のばかだ、こいつ。 うんざりしつつもう無視することに決めた。 飽きたら帰るでしょ、そのうち。
 帰れと言ったはずなのにはまだ居座っている。 こっちは練習で疲れてるから寝たいのに迷惑なやつだ。 寝てしまえば話し相手もいなくなって帰るだろうと思ったのだけど。 あろうことかは僕の隣に入って来たのだ。 追い払おうにもへらへら笑って「よく一緒に寝てたじゃんか〜」と言って出て行かない。 何年前の話だよ。 少なくとももう五年はないだろ。 いや、何年前が最後とかそういうの、本当どうでもいいんだけど。
 むかつく。 嫌でも自分のものではない体温が薄ぼんやり分かってしまう。 むかつくんだけど、本当に。 別にこんなの知りたくないんだけど、本当。 壁に顔を向けてひたすら眠ることだけを考える。 眠るだけ。 眠ればいいだけの話だ。 がいてもいなくても変わらない。 頭の中で何度も呟いていると、もぞもぞと何かが動いているからかシーツが擦れる音がした。 その数秒後、ぴと、とスウェット越しの背中に何かが触れる。

「……何してるの」
「え、大きくなったなあと思って」
「意味分かんないんだけど。 勝手に触らないで」
「触りま〜す」
「営業時間外で〜す」

 は笑いながら「ひどーい」と言うが手を離さないままだ。 むかつく、ものすごく。 そんなのこっちも思ってるよ。 、小さくなったなって。 いや、まあ、現実的に考えて僕が大きくなっただけだけど。 縮むなんてことはありえないから。 たまに山口と並んだを見たときとか、僕の服を勝手に着ているを見たときとか。 ぎょっとする。 こいつ、こんなに小さかったっけ、って。 小さくても構わないけど、なんか、こう、不安になる。 僕が知らない間に何かにさらわれていかないか、とか、くだらないこと。 気ままに生きてるはいつか僕の前からいなくなるのではないか、とか。 本当、くだらないにもほどがあるようなことばかり。
 知らないことが増えていくばかりなのに、なぜだか増えていくものばかり。 意味が分からない。 分かりたくもない。 分かってしまうその日が永遠に来ないことを祈る。 キャパシティを超えて増え続けるものはやり場もなければ捨てる場所もない。 だから超えないようにただただ耐えるしかない。 超えたそのときを想像しないように努めるしかない。 それなのに、こいつは。

「どんどんわたしが知らない蛍になってっちゃうね」

 静かな声だった。 僕としかいない部屋では、その声は鮮明に僕の耳に届いてしまう。 人の気も知らないで。 昔からそうだよ、は。 そもそも一番厄介なのは、僕も知らない僕をのせいで見つけてしまうこと。 そんなの知りたくもなければ見つけたくもないのに。 むかついて唇を噛んだ瞬間、ぷつっと、溢れだすような感覚があった。

「ならいろいろ教えてあげようか、昔から頭が悪くてかわいそうな幼馴染に」

 むかつきの沸点を超えると人って笑ってしまうものなんだな、はじめて身をもって実感した。 がしっと掴んだの手首は想像以上に細くてぎょっとする。 折れるんじゃないの、これ。 そう思いつつも離さない。 そのまま背中を向けていたのほうを向いてやると、はぎょっとした顔で驚いていた。 驚くのかよ。 そう思いつつ余計ににこりと顔を作って見せると、は困惑した様子で「どうしたの?」とだけ言った。

「もう二度とベッドに入ってきたりむやみに体に触ったりしないで」
「……なんで? というかそれ苦情じゃんか〜」
「本物のばかかよ」
「小声で言っても聞こえてるよ」
「僕も男なんだけどって言ってるの」

 まあ言ったところで分からないんだろうけど。 ため息が出る。 昔から頭は悪いし空気は読めないしこちらの意を汲まない。 そういうやつだと分かっている。 別にそれでも構わないけど、むかついたときはむかついたとはっきり言わせてほしい。 これまで黙ってやっていた分が一気に出てしまった自覚はある。

「でもわたしだから別にどうでもいいでしょ? 関係ないじゃんか〜」

 救いようのないばかだった。 呆れて言葉も出ない。 あまりにもむかついたから空いている手でその頬をぶすっとついてやる。 それでもは「なに?」といたって変わらない表情と声のまま。 なんだよ。 知らなくていいとは思ったけど、知らなさすぎるだろ。 あまりにも察しが悪い。 それが何を意味しているのかは分かりたくもないし、それに自分がいらついているのが何よりもむかつく。
 まぬけな顔。 一応どういう状況なのかを考えているらしいが、答えにたどり着けるわけがない。 の頬に触れていた指を離す。 それからの肩を掴むと、その華奢な肩がびくっと震えたのが分かった。 むかつく。 ……そうじゃない。 本当は。 知らんふりをしているのは僕も、も。 そんなこと分かっていたけど、分からないふりをした。 なんだよ、なんなんだよ。 気付いてしまった、みたいな顔をしろよ! その顔一つしてさえくれれば、それだけで、もう。
 知らんふりを続けるに顔を近付ける。 さすがにの顔が少し強張ったのが分かる。 でももう遅い。 引き返してなんてやらない。 僕は今、最高潮にむかついているから。
 と、思ったのに、ほんの少し強張った顔と体に力が入ったことが分かってしまうと、舌打ちがもれた。 むかつく。 なんだよ。 の顔から外れて首元に軽く歯を立てる。 の体が一瞬びくっと震えたけれど、それ以上の反応はなかった。

「……次はないから、もう二度としないで」

 ぱっと手を離す。 そのままベッドから追い出すようにぐいぐい押してやるが、が妙に静かだ。 怖がらせすぎたのかもしれない。 布団をかけ直して知らんふりしてまた眠りにつくことにする。 もう知らない。 これ以上何かをするつもりもない。 それこそばかだ。 そのまま静かに出て行ってくれればいいよ。 もう二度と来てくれなくてもいい。 二度と、僕と話さなくてもいい。 サイテー男だって言いふらせばいいよ。 なんなら僕の家族に言ってもいいよ。 投げやりな気持ちがむかつきを強めていく。
 これっぽっちも物音がしない。 もまったく話さない。 驚きすぎて呆けているといったところだろう。 ばかなやつ。 「早く出てってよ」と声をかけると、どうやら立ち上がったらしい音が聞こえた。 それにほんの少し安堵してしまう。 情けなく思いつつも絶対のほうを見ないように気を付け続ける。 早く出て行けよ。 そう何度も念じたのに、僕の願いは空しくも、かすかにベッドが軋む音とベッドに誰かが手をかけた感覚がした。 誰か、なんて言い方をしたまた知らないふりをしようとした。 僕も僕だ。 自分がばかなんだという自覚をしてしまって、心からむかついた。

「……も、もし、それでもいい、って言ったら、どうなるの……?」

 ねえ、本当さ、ばかだよね、君って昔から。


数えきれないものをくれてやる