※未来捏造、大学生設定
※元の短編は2018年に書いたものです。




「突然来てしもてすまんな」
「う、ううん、大丈夫やよ」

 珍しいこともあるものだ、と内心ずっと驚き続けている。 北くんが律義に靴を揃えている間ににやけてしまいそうになる口元をきゅっと引き締めておく。 わたしの部屋に北くんが入るのは、実に三ヶ月ぶりだ。 いつ北くんに見られても恥ずかしくないようにといつも掃除を欠かさなかった自分を心から褒めたい。
 北くんから突然連絡があったのはつい十五分前のこと。 わたしが住んでいるアパートの最寄り駅は所謂飲み屋街になっているのだけど、北くんはそこで高校時代の部活仲間たちと飲み会をしていたのだそうだ。 北くんを部活仲間たちがあの手この手で引き留め、最終的に終電を逃した、というわけだった。 北くんだったら有無を言わさず帰りそうなものだけど、本当に珍しい。 そうして北くんはわたしに連絡をしてきた、というわけで。 素直に嬉しかった。 それはもう、るんるん気分になるほど。 北くんはいつも一人でなんでもできてしまうから、わたしは助けられてばかりだ。 そんな北くんに頼られたことがあまりに嬉しくて、連絡が来てからわたしはずっと浮かれているのだ。
 来客用に置いてあるクッションに座ってもらって、つい数分前に準備しておいたお茶を出す。 北くんはなんだか申し訳なさそうな顔をしてお礼を言ってくれた。 三ヶ月前もこういう顔をしてそのクッションに座ってくれていたっけ。 前に来たときも事前の約束だったわけじゃなかったなあ。 いつでも、どんなときでも、当たり前のように来てくれていいのに。 こっそりそう思いながらわたしはいつもの定位置に座る。
 お酒はあまり飲んでいないのか、北くんの顔色はいつも通りだ。 飲み会だと聞いていたので酔っ払った北くんが見れるかも、なんて少し期待していたけど。 そういうところは北くんらしくちゃんと自己管理できているのだろう。

「あ、そうや、服探したんやけど……ごめん、ちょっと大きいサイズのジャージくらいしかなくて……」
「いや、ええよそんな気遣わんで。 このまま寝させてもらうわ」
「えっ。 ええよ、遠慮せんといて。 お風呂沸かすで、」
「こっちが急に押し掛けたんやし、ほんまに何にもせんで大丈夫やで。 入れてくれただけで助かっとるし」

 結局、これである。 北くんは小さく丸まってじっと一点を見つめるだけで動く気配がない。 たぶん寝て起きたらすぐ帰ってしまうのだろう。 ちょっとくらい、くつろいでくれて全然いいのに。 わたしの部屋だと落ち着かないのだろうか。 も、もしかして、掃除が行き届いてないのが気になる、とか、なのだろうか。 お風呂に入ろうとしないのも自分が掃除していないお風呂に入るのに抵抗があるから、とか?! 服を借りてくれないのも、動こうとしないのも、抵抗があるからなのかな?! 一度マイナス思考になると止まらなくなるのがわたしだ。 止まらなくなったマイナス思考を全力でフル回転させてしまい、最終的に「何も求められてないのだから何もしないほうが迷惑にならない」という結論にたどり着く。
 北くんが来るって浮かれた自分が恥ずかしい。 北くんからすれば終電を逃して仕方なく来ただけだし、自分の家に帰れるものなら帰りたいだろう。 ああ、恥ずかしい。 北くんの性格上仕方のないことだと分かっていても、恥ずかしいものは恥ずかしい。

「一個聞きたいんやけど」
「ど、どうぞ」
「俺になんかしてほしいことある?」
「…………はい?」
「前聞いてきたやろ。 なんかしてほしいことあるかって」

 はっとすぐに思い当たった。 あれをまさかこのタイミングで蒸し返されるとは思わなかった。 あのときは少しむきになっていたところがあったし、あとで思い出したときにはなんて恥ずかしいことを言ったんだろうって反省したっけ。 高校のときから付き合っているのになあ、と思うとゆるやかな焦りになってしまって。 あんなことを口走ってしまった、と、いうわけで。 ちょっと期待していたようなことは起こらなかった……いや、別に何かを期待してたわけじゃないんだけど。 予想以上に恥ずかしかった、けど、嬉しかった。 ちゃんと彼女なんだなあと思えたというか。
 高校三年生の春に北くんから告白されたとき、驚いたし信じられなかった。 どうして北くんがわたしなんかに、というのが素直な感想。 あまりにもいつも通りの表情と声のせいで余計に信じられなかったのかもしれないと今では思う。
 北くんにしてほしいことなんて山のようにある。 手を繋いでほしい、とか。 抱きしめてほしい、とか。 キスしてほしい、とか。 そういうことが山のようにあるけれど、それをお願いされた北くんがどう思うのかがちょっとだけ怖かった。 あまりわたしに触ったりしてこないから、そういうことに抵抗があるのかもしれないし。 でも半分以上は言うのが恥ずかしい、という理由なのだけど。
 言っても、いいのかな。 嫌がらないのかな。 なんやこいつ恥ずかしいこと言うな、とか思わないかな。 北くんがそんなこと思うわけないって分かってるのだけど、どうしても心配になってしまう。

「はは」
「へ、なんで、笑うん……?」
「前、素直にいろいろお願いしたん、今更めっちゃはずいなあ思うて」
「えっ、せやけどわたしめっちゃ嬉しかったし……」
「そらよかったわ」

 穏やかに笑って一口お茶を飲んだ。 北くんはさっきより少し落ち着いた様子で頬杖をつく。 手で隠しながら欠伸をこぼした。

「俺も、に言われたら嬉しいやろなあって思うただけやし、あんま気にせんでええよ」

 優しい視線が向けられる。 それにほんの少しどきっとしてしまいつつ、ああ、わたしも同じだなあと笑ってしまった。 北くんに何かを求められることが嬉しい。 何かをお願いされることが嬉しい。 北くんも同じなのだと思うと、浮かれてはしゃいでしまいそうなくらい嬉しかった。
 言っても、いいのかな。 嫌がらないかな。 気持ち悪がらないかな。 いろんな不安がかすかにある中で、ほんの少しだけきゅっと唇を噛む。 言う。 お願いする。 北くんに、言うんだ。

「い、嫌やったら、ええんやけど……」
「何でもええよ」
「…………ぎゅって、抱きしめて、ほしい……」

 北くんが目を丸くした。 キスして、なんてはじめに言えなくて一つ手前のお願いを言ってしまった。 情けない、くそう、千載一遇のチャンスだったのに。 あのとき北くんも同じことを言ったから、これなら確実にしてくれると思ったのだ。

「そんくらいお安い御用や」

 笑ってくれた。 ほっとしてゆっくり北くんに近付くと「はい」と声をかけてくれてからぎゅっとしてくれた。 ぽんぽん、と背中を撫でられるのはちょっと子ども扱いされているみたいだけど、優しい手つきが嬉しかった。
 自分が欲張りなのかもしれないと、不安になることが多々ある。 ほしいものもやりたいことも、してほしいこともたくさんあって。 北くんはあまりそういう欲がないように見えるし、欲まみれのわたしを知ったらどう思うかなって。

「他は?」
「……北くん、わたし、な」
「うん」
「……北くんのこと、好きやから、その」

 欲張りでも、やっぱり、してほしくて。 もう言うしかないなら、言わなきゃって、ようやく腹を括れた。 言ってみてだめだったら冗談にすればいい。 ちょっとへこむけど。 北くんの顔をじっと見て、こっそり深呼吸をする。 どんな反応するのかな。 全然予想が付かない。 本気で拒否されたら本気でへこむなあ。 そんなふうに思って、少しだけ笑えた。

「キス、して、ほしいん、やけ、ど……」
「……」
「えっと……嫌やったらせんでええよ」

 無表情すぎて何を考えてるのか分からないけど、たぶん、静かな拒否、かな? ちょっとへこみつつへらりと笑う。 恥ずかしいこと言っちゃったな。 空回ってしまったらしい。 浮かれすぎだなあ、今日はずっと。
 照れ笑いしつつ「冗談やで、気にせんといて」と北くんの腕をぽんぽん叩く。 するりと腕から抜け出してお風呂の準備をすることにした。 何もなかったように振舞えば恥ずかしくない。 うん、恥ずかしくないし別にへこんでない。 そう自分に言い聞かせる。


「うん?」

 ちょいちょい、と手招きをされる。 戻って来いとのことらしい。 何言われるのかな、と少し怯えつつ平常心を装ってそそくさと北くんの隣に座り直した。 そっと北くんに視線を向けてみると、じっと見つめられていることに気が付く。 もしかして、怒られる? たまに危ないことをしてしまったり、北くんに気を遣いすぎたりすると軽く怒られることがある。 うーん、さすがに怒られるほどのことを言ったつもりはない、けど。 結構これまで無自覚でやったことを叱られてきたから、気付かないうちに何かしてたのかな。
 ドキドキしながら北くんの言葉を待つ。 ちょっとだけ、期待しながら。

「あんな」
「は、はい」
「俺、男やねん」
「…………うん、せやね……?」
「そんでのこと好きやねん」
「あ、ありがとう」

 嬉しい、けど、なんだろうか。 ちょっと困惑しつつ「どうしたん?」と首を傾げてしまう。 北くんはじいっとわたしを見つめたまま少し言葉を探しているように見えた。 珍しい。 迷いなく的確な言葉をすぐに出せる印象だったのだけれど。 北くんでも迷うことがあるのだな、なんて当たり前なのに感動してしまった。
 一瞬だけ視線を逸らされたように見えた。 けど、すぐにこっちに戻ってくる。 じいっと観察するような瞳の中に、なんだかまぬけな顔をした自分がいる。

「あんまそういうん言われると、なんちゅうか、いろいろあれやから。 気付けやんとあかんで」

 ものすごく曖昧な表現をされたような気がする。 いろいろあれだから、とは? 北くんにしては言葉がふわふわとしていて、何を言いたいのかよく分からなかった。 首を傾げてしまいつつ、「どういう意味?」と素直に聞いてみた。 北くんはピクっと一瞬反応してからまた言葉を探し始める。 うまく説明しようとしてくれているみたいだけど、本当に何を言おうとしているのだろうか。 いろいろあれ。 気を付けないといけない。 なぞなぞみたいだな、なんて。

「いろいろはいろいろや」
「えっと、ごめんな、北くん。 よう分からへんのやけど……?」
「……要するに」

 静かな声が好きだなあ、とこっそり思う。 いつも落ち着いていて、無駄がない。 聞いていて落ち着くし、気が引き締まるというか、なんというか。 なんといったらいいか分からないけど、とにかく、好きだなあ、と思う。

「あんまかわいいことばっか言われると、我慢できへんくなるでってこと」
「……我慢、しとることがあるの?」
「まあ、そらそうやろ」
「なんで我慢せなあかんの?」
「…………ちょお待って。 あんま深堀せんでええとこやから」
「嫌や、知りたい」

 珍しく我儘を言ってしまった。 だって、そんなの、はじめて聞いたから。 期待してしまう。 欲張りなのはわたしだけじゃないのかな、って。 そんな期待をまっすぐに向けてしまうと、北くんがそうっと目を逸らした。 ちょっとだけ赤い耳を嬉しく思ってしまうわたしは、やっぱり恥ずかしいやつなのだろうか。

「わたし、北くんにやったら何されてもええよ」
「……そういうんがあかんって言うとんのやけど」
「なんであかんの?」
「……風呂、借りてもええ?」
「え、あ、うん?」
「言うとくけど、今のはが悪いで」

 ぼそりと呟いてから北くんが立ち上がる。 「あっち?」と廊下のほうを指差したので、わたしも立ち上がってお風呂場の場所を教えた。 諸々何がどこにあるかを説明してから、「あ、お湯張ってない」と思い出して苦笑いをこぼす。 北くんがお風呂掃除もしてくれると言い出したので、少し恥ずかしくなりつつもお願いすることにした。
 「悪いけど先風呂もらうわ」と言う北くんに「全然ええよ」と返してから部屋に戻った。 それにしてもお風呂はいいって言ってたのに、突然だったな。 話の流れ的にもお風呂に入る流れじゃなかったと思うんだけど。 そんなふうに首を傾げていると、かすかにシャワーの音が聞こえてきた。


愛し尽くした世界の中で