「あのさあ、何回言ったら分かるわけ?」

 帰って来るなり蛍はそうため息をついて言う。 窓の外はもう真っ暗だ。 蛍のお母さん曰く、最近帰りがちょこちょこ遅いのだそうだ。 そう嬉しそうに言ったおばちゃんにわたしは「ふーん」と少し素っ気なく返してしまったっけ。

「ベッド、寝転ぶのやめてって言ってるでしょ」
「えーいいじゃん」
「君が帰ったあとにシーツを直すの誰だと思ってるの」

 蛍は荷物を机の上に置いてからこちらをじろりと睨む。 「着替えるんだけど」と言われたので「はーい」とそっぽを向いておく。 女の子かよ。 内心そう笑いつつ蛍の枕に顔を埋めて黙って待つ。
 あんなに昔はかわいかったのに。 ぼそりと呟く。 蛍には聞こえなかったみたいだけど、何か言ったのは分かったらしい。 「何か言った?」と聞かれた。 それに「んーん」と返したら「というか見えてるけど、パンツ」と呆れ声で言われる。 片手で適当にスカートを直していたら蛍がばさっと乱暴に掛布団をかけてくれた。 もう振り向いても良さそうだったので蛍のほうに向き直す。 椅子に座って頬杖をつきつつ「で、今日は何時はなに」とまた呆れた声で言われてしまった。

「忠元気?」
「別にフツーだけど」
「そっか」
「本人に聞けば?」

 相変わらず冷たいなあ。 そう笑ったら蛍は軽くわたしを睨んだ。 「やめてって言ってるのにやめない君を許してあげてるだけ優しいと思うけど?」と言うと、鞄を開けてノートを取り出した。 予習をするのだろう。 人を小馬鹿にしたりやる気がないふりをしたりする。 テスト勉強をちゃんとしているのをすごいと言ったら「別にこれくらいふつうでしょ」と呆れた顔をする。 でも、なんだかんだ言って真面目にちゃんとやる。 そういうところ、昔から好きだよ。 蛍は知らないだろうけど。
 蛍が書く字が好き。 蛍が聴く音楽が好き。 蛍が話す声が好き。 たまに悪ノリするところも、意外に甘い物が好きなところも、興味ないふりして周りをちゃんと見てるところも、ぜんぶ好き。 どれもこれも蛍は知らないことだ。
 蛍の背中に向かってそれを無言で念じていると、リビングのほうからおばさんの声が聞こえた。 「ちゃんご飯食べてくー?」という問いかけに「うん!」と答えたら蛍は「帰りなよ……」と至極迷惑そうに呟く。

「えーいいじゃん。 今日明光くんもいるんでしょ?」
「だから嫌なんだけど……」
「えー、なんで?」
「面倒なのが二人もいたら落ち着いて食べられない」
「ひどくない?」

 けらけら笑う。 蛍は諦めたような顔をして「好きにすれば」と呟いてからまたノートに視線を戻した。 明光くんとうまくいってるみたいで安心した。 いろいろ忠から聞いていたけど、目の当たりにすると実感する。 蛍はちょっとずつ変わっていってるんだなあ。 学校がちがうだけで蛍のことが少しずつ分からなくなっていく。 それがうれしいような、さみしいような。
 静かな音。 蛍がシャーペンで文字を書いている音だ。 目を瞑ってそれを聴いていると、ほんの少し眠気を覚えてしまう。 心地よい。 蛍の部屋って、すごく居心地がいいんだ。 それはこの部屋が好きだからなのか、蛍のことが好きだからなのかは分からないけど。

「寝ても起こさないからね」
「うーん……」

 小さなため息が聞こえた。 おばさんのご飯食べそびれちゃうな。 ぼんやりそう思うけれど目が開かない。 眠たいんだもん、目が開かないのは仕方ないことだ。 蛍も起こしてやるよくらい言ってくれてもいいのに。 まあ、蛍がそんな優しいことを言ったら眠気なんか吹っ飛んじゃうだろうけどなあ。



















 うわ、本当に寝たよこいつ。 背後から聞こえる規則正しい寝息にため息。 帰ってきてから僕、ため息しかついてないんだけど。 そう思いつつそうっと振り返る。 僕のベッドで眠りこけているの口元は少し緩んでいた。 何の夢を見ているのだろうか。 僕の知ったことではないけれど、気になってしまった。
 高校が別になってからというもの、はたびたび僕の部屋に来るようになった。 大体僕より先にここにいて、まるで自分のもののようにベッドに寝ころんだまま「おかえりー」と言うのだ。 シーツはぐしゃぐしゃになるし、枕の位置はずれるし、掛布団もカバーが少しずれるし、何より、なんか、枕にシャンプーのにおいが残る。 だからどうしたと言われればそれまでの些細なことなのだけれど、僕にとっては大問題に違いはない。
 静かに立ち上がってそうっとベッドに近寄る。 すうすうと寝息を立てたまま起きる様子のないの顔。 じいっと見ていると、突然ふにゃりと笑ったからびっくりしてしまった。
 が知らないことが山のようにある。 僕の枕に絡みつくように広がる髪が好きだとか。 影を落とすくらい長い睫毛が好きだとか。 少し小さい耳が好きだとか。 顎の下にあるたぶん本人も気付いていないほくろが好きだとか。 形がきれいな爪が、血色のいい唇が、僕を呼ぶ声が。 どれもこれも、は知らなくていいことなのだけど。
 まぬけな顔。 思わず少し笑ってしまう。 よだれ、垂らさないでよね。 そう思いつつ起こしはしない。 起こさなくったってはちゃんと自分で起きられる。 そんなの、長い時間いっしょにいるんだから分かる。 分かることもたくさんあるけれど、なぜだか分からないこともその分増えた。 山口のことを僕に聞いてくるのはどうしてなのか。 なんで来る頻度がこんなにも増えたのか。 そんな理由、考えてしまうと都合のいい期待しか出てこないから考えるだけ無駄だ。 やめたやめた。 頭の中に浮かんだいろんなものを振り払う。 この能天気に理由なんかない。 気ままに生きてるだけでしょ、どうせ。 振り回されるこっちの身になってみなよ。
 規則正しい寝息。 すうすうと聞こえる呼吸は心地よいと喋り出しそうなくらいだ。 少しだけ開いた口ときゅっとシーツを握る手。 こういうのを無防備というのだろう。 そうっと手を伸ばす。 ぷに、との頬に指を少しだけ当てると、「ん〜」と少しだけが声をもらした。 驚いて指を離すけど起きたわけではなかったみたいだ。 ほっとしつつ、そうっと、の横髪を少しだけすくう。 さらりとすぐに滑り落ちていった。 昔は短かった髪をはもうずっと伸ばしている。 切ろうかな、と何度も悩んでいるのを「似合わないからやめときなよ」と言っている理由も知らないだろう。 好きだなんて言うつもりはない。 言うもんか、と意地になっているのではないか。 そう言われるとなんて返したらいいか分からない。 とにかくに教えてやるつもりはさらさらないのだ。
 もぞ、とが寝返りを打つ。 不意にぶつかったの手が、無意識なのか何かの夢を見ているのか、僕の手首をぎゅっとつかむ。 そうしてへらりと寝たまま笑うと、「蛍」とふにゃふにゃした声で言った。



















「……おなかすいたー」
「起きてすぐそれかよ」

 蛍はぷっと笑って「そんなんだから二キロも増えるんだよ」と言う。 待った、なんでわたしの体重を知ってるの?! がばっと起きてそう聞いたら蛍はぷすーっと笑いながら「勘で言ったんだけど当てちゃってごめんね〜?」と言った。 勘かよ! 完全に蛍の罠にはまった。 怒っているのに蛍は楽しそうに「はいはいごめんね〜?」と笑う。 その顔も、好きだよ。 心の中で呟く。 呟くけど、声には出さない。 蛍は知らなくていい。 蛍に教えてやるつもりはさらさらないのだ。 教えたところでどうこうなるなんて思えないから教えてやらないのだ。
 山のように積もり積もった蛍が知らなくていいこと。 溢れ出そうになるときもあるけれど、きっとこれからも内側にたまっていくのだろう。 そう思うとちょっと苦しいような、くすぐったいような。 不思議な気持ちになった。


君が知らなくていい100のこと
Thanks 2nd Anniversary!