桜の花びらが惜しみなく散っている。水色の空と真っ白な雲。そんなキャンバスに彩りを添えるような桜色。素直にきれいだな、と思った。
 びゅうっと吹いた風にせっかくきれいに干したタオルが一枚飛んだ。あ、最悪。そんなふうにかごを地面に置いておいかける。落ちたら洗い直しだ、できたら拾いたい。そんなふうに走って行った先、タオルはぱさっと人の頭に落ちた。突然タオルが振ってきたその人は「うわ」とびっくりした声をあげて、すぐにタオルに手を伸ばした。まだ濡れているタオルを不思議そうに見つめてから振り向いた。
 えーっと、あの子は確か、新入部員の、白布くん、だったかな。個人的にあの丸っこい頭が印象的だった。今年は新入部員が多かったからまだ名前を完璧に覚えられていない気がする。でも、たしかそうだったと思う。瀬見がセッターの後輩ができたと喜んでいた。それが白布くんのことだったはずだ。

「白布くん、ごめんね。飛んでっちゃって」
「あ、いえ。すみません」

 なんで白布くんが謝るの。そうちょっと笑ったらなんだか照れくさそうにした。新入生って初々しくてかわいいなあ。そんなふうに思いつつタオルを受け取る。人見知りなのか、白布くんはちょっと気まずいといったような顔をしている。立ち去ってあげたほうが良さそうだ。なんとなく察した。「タオル、ごめんね。ありがとう」と言って戻ろうとしたら、白布くんは「あの」と意外にも声をかけてきた。振り返ると「何か手伝うこととか」と言った。それから物干しの近くに置いたままのタオルや洗い物を見て「なんか、量が多そうなので」と顔をそらす。きっとこういうことをするの、得意じゃないだろうに。わたしが先輩だからなのか、一応女子だから気を遣ってくれたのか。どちらにせよ、優しい子だな、と思った。
 ここで素直にお願いしたらなんだか可哀想な気がした。練習も終わったことだし、早く休ませてあげたほうがいいだろう。そんなふうに「大丈夫だよ。疲れてるだろうから早く休まなきゃ。ありがとうね」と言っておく。白布くんはちょっとびっくりしたようにわたしを見てから「いや、別に大丈夫です」と、なんだか悔しそうな顔をして言うから、おや、と首を傾げてしまう。どうやら何かしら彼のプライドというか、何かに引っかかったらしいことを察する。
 そういえば、白布くんは一般入試組だったっけ。それなのにスポーツ推薦組さえ死にそうになっているトレーニングを最後までこなしているし、どんなにしんどそうでもそういうことを口にしていなかった。そっか、頑張り屋なんだ。あとついでに気を遣われると「まだやれる」って反発してしまうタイプなのかも。
 残っている洗い終わったタオルを干してもらうのを手伝ってもらった。体育館にいた一年生数人がそれに気付くと、手伝わなきゃまずいと思ったのか駆け寄ってきて、続々とわたしの仕事がなくなってしまう。あの、それ、別に手伝わなくて良いんだよ。なんだかわたしが慌ててしまった。
 白布くんが「終わりました」と報告してくれる。一年生たちにお礼を言うと続々と体育館に戻っていく。なんだか、楽をしてしまった。ちょっと恥ずかしくて思わず「ごめん、結局全部やってもらっちゃって」と苦笑いをこぼしたら、白布くんは不思議そうな顔をしていた。

「いえ、むしろいつもありがとうございます」

 なんとなく照れくさそうにそう言って小さく頭を下げた。ふわふわ揺れる白布くんの髪。柔らかそうな髪だな、なんてぼけっと見つめてしまう。白布くんはわたしのそんな視線に気付くわけもなく、もう一度小さく会釈をしてから体育館へ戻っていった。
 そろそろ切りたいなって思っている髪が風に揺れる。鬱陶しくてたまらないそれが気にならないほど、白布くんの背中を見つめていた。なんでだろう。なぜだか、とても気になる。下の名前はなんというのだろう。どんな人なのだろう。はじめて会話したばかりの白布くんが気になって、たまらなかった。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽






 いつの間にか寝ていた。ぼんやり目を開けたら賢二郎がわたしを見下ろしていて、ちょっと心配そうな顔をしていた。「悪い、起こしたくなかったんだけど」と言ってわたしの頭を撫でた。そのときさり気なくつけていたバレッタを取ってくれる。それをじっと見て「いつまでつけるんだよ」と笑った。懐かしいでしょ。はじめてくれたやつ。これまでいくつかバレッタをくれたけど、それが一番のお気に入りだ。今日はそれがつけたかったから、と言ったらちょっと照れくさそうにした。うっかり寝てしまったけど壊れなくて良かった。
 なんだか、とても、懐かしい夢を見ていた気がする。夢というか、昔の記憶だったような。とんと思い出せないけれど。でも、とても照れくさい記憶だった気がした。

「寝るならベッド。ソファだと体痛くなるぞ」
「ううん、起きる起きる。ご飯作るね」
「いい。寝てろ」

 起き上がろうとしたわたしの背中をそっと支えた。ちょっと申し訳なさそうな顔をして「抱えていこうとしたんだけど」と呟いた。そのあとの言葉が何かはすぐ分かる。もし何かあったら怖いから、でしょ。そう笑うと「笑い事じゃない」と呆れられた。
 知らない間に結構寝てしまっていた。ソファから立ち上がったら、ふらっと立ちくらみがした。別に倒れるほどのものじゃなかったけど、とんでもなく慌てた賢二郎が背中にすぐに手を当てて「何、どうした、気分悪いのか」と言う。昔からだけど過保護だってば。苦笑いをしていると賢二郎がわたしの背中を押してベッドまで誘導していく。ちょっとうたた寝してただけなのに。そう言っても聞かないのが白布賢二郎だ。諦めてベッドで寝たほうが賢いだろう。
 先日、白布家四男の結婚式があった。あのきらきらした高校生だった末っ子くんが、と時の流れをしみじみ感じてしまったっけ。白布家で残る未婚は三男のみ。賢二郎曰く「ふらついたやつだから心配」とのことだったけど、白布家以外の人間から見ると、三男が一番女の子にモテるタイプだし心配いらないと思うけどなあ。あと、賢二郎は知らないけどちゃんと長く付き合ってる彼女いるんだよ。内心そう笑っておいた。
 結婚した一年後、賢二郎が突然「家を買う」と言い出したものだからびっくりしたことを思い出す。研修医時代から住んでいたマンションがやはり狭いから、というのが一番の理由だった。後期研修も無事に終えた賢二郎はそのまま大学病院に勤務しているから、このままでいいんじゃないかな、とわたしは思っていたのだけど。あれよあれよという間に間取りや何やらを決め、地鎮祭を行い、着工。やると言い出したら止まらない。昔から何も変わらないなあ、としみじみ出来上がっていく家を見て思ったものだった。完成した家にはじめて入ったときも同じく。そして、未だに思っている。たぶんこれから先もずっと思い続けるんだろう。だって、賢二郎が変わることはきっとないから。

「ご飯どうするの? 買いに行くの?」
「なんか適当に作る」
「え~、賢二郎が? 作れるの?」
「……米は炊ける」
「さすがにそれ出来なかったら怒るよ」

 笑いつつベッドに腰を下ろす。「寝ろ」と言って聞かない賢二郎に布団をかけられたので、仕方なく横になった。外で食べてきたら、と言ったら賢二郎はむっとした顔をして「じゃあ行ってくる、って言うと思うか?」と言った。ごもっとも。賢二郎が言うわけないよね。分かってたけどさ。笑うわたしを呆れたように「なら言うな」とデコピンした。痛い。ひどい。そう言ったらおでこをつつかれた。

「明後日検査だろ? 何時だっけ?」
「え、なんで?」
「迎えに行く」
「いいよ、自分で行くから」
「……」
「だってその間に何かあったらどうするの、白布先生?」
「……お義姉さんに頼めないのか」
「わたしもそうしちゃおうかと思ったけど、残念。その日は家族でランチだって」
「…………」
「いいってば、大丈夫だよ」

 それに、せっかく黙ってるのに。わたしがそう言ったら賢二郎は考え込んでしまった。大丈夫だって言ってるのに。ちょっとバスに乗るだけじゃん。たった十数分だよ。そう言っても賢二郎は黙り込んでいた。賢二郎のお兄さんは仕事、三男は県外、四男は新婚旅行中。両親はどちらも少し家が遠い。頼れるアテがない。そうちょっと難しい顔をしている。
 できれば安定期に入ってから報告しようね、と言って未だに報告していない。一応お互いの両親には報告したけど、何かあったとき気を遣わせるから兄弟たちには内緒ね、と言ってある。
 先生なんだからそんなに慌てないの、と何度言ったか分からない。それとこれとは別だとかなんとか毎回言い返されるのだけど毎回面白いから言ってしまう。エコー写真を見たときなんかはじめて見るみたいにじっと見ていたし。賢二郎が勤務する大学病院で診てもらっているのだけど、毎回そんな初々しい反応をする賢二郎のことを、研修医時代から知っている先生が笑っていた。「研修時代から見てるでしょ」と。まあ、自分の子どもとなると、全然違うらしい。それがちょっと嬉しかった。
 昔、わたしが妊娠したと勘違いしたこと、あったよね。そう目を瞑りながら言ったら明らかに嫌そうな声で「おい」と言われた。あのときのことは全て黒歴史にしているらしい。ちょっと触れるとすぐ怒る。相変わらず怒りんぼだ。思い出話をしただけなのにひどい。そう笑ったら「はいはい」と呆れたように呟いた。

「名前何にしようね」
「まだ性別分からないだろ」

 ベッドの端に座ったらしい。賢二郎は一つ咳払いをしてから「画数とか気にしたほうがいいのか?」と独り言を呟いた。あ、絶対あとで調べるな、この呟き方は。あと本も買ってきそう。笑いを堪えつつ目を開け賢二郎のことを見たら、しっかり目が合った。「寝ないのか」とちょっと身を屈めてわたしの顔色を窺う。そういうときはお医者さんの顔をする。体温管理とか食事管理とか、徹底しているから心配してくれているのはよく分かるんだけど。ちょっと緊張する。少しでも何かあると必ず検査を受けさせられるから。今日も健康でありますように、と自分の体なのに神頼みしているくらいだ。

「…………やっぱりだめだ。仕方ない、太一に連絡する」
「なんで川西? あ、家近いから? いいってば、大丈夫。川西が可哀想だから」
「じゃあ瀬見さん」
「だめ」
「……大平さん」
「だめだって」
「山形さん」
「人を選んでるわけじゃないってば」

 バツが悪そうな顔をしつつ、するりとわたしの頬を指で撫でる。たぶん無意識なのだろう。特に意味はないという触り方だった。どうしようか考えている。どうもしなくていいってば。そう腰をつついてやるけど、賢二郎は考え込んだままだ。
 ああ、そういえば。ソファでうたた寝する前にメッセージのやりとりをしたことを思い出した。賢二郎に「来週の土曜日って家にいる?」と聞いた。難しい顔をしていた賢二郎がぱっといつも通りの表情に戻って「ちょっと空けるけど、何?」と言った。いないんだ。なんだ。さっき寝室に行くとき賢二郎が持ってきてくれたスマホを手に取って返事を打つことにした。

「なんで?」
「賢二郎、すごくがっかりすると思う」
「何?」
「牛島と天童と五色、遊びに来て良いかって」
「…………」
「ほらね」

 牛島、全然会ってないもんね。五色は先月瀬見と二人で遊びに来たけど。天童もまあまあ久しぶりかな。今は日本に帰ってきているけど人気ショコラティエとして忙しい身だから、連絡はよく取っているけどなかなか会えてはいない。表情だけで「クソ……」と言いたいのを堪えているのがよく分かる。一応夕方くらいにはあがる予定だというので、まあ引き止められそうだったら引き止めておくね、と笑っておいた。

「あ」
「今度は何?」
「川西も来るって。あと瀬見」

 バレー部のグループトークでやりとりをしていたから、牛島が来るとなったら他の人も反応するだろうと思っていた。賢二郎、スマホ見てないの? そう聞いたら「そういえば鞄から出してない」と言った。そう離している間に他の人たちも来ると言って、結局いつものメンバーが揃った。

「ちょっと待て、来るのは良いけど、なんかもてなそうとかするなよ」
「もてなすでしょ、お客さんなんだから」
「クソ、休みたい……」
「先生~?」
「…………頼むからあんまり、本当に、無理するなよ」

 諦めたらしい。まあ、何かあってもみんないるから。そう笑ったら「笑い事じゃねえよ……」とため息をついた。
 ずいぶん長い時間を一緒に過ごしたけど、未だに分からないこともあるし、知らない一面を見つける瞬間もある。もちろんだいぶ数は減ってきたけれど。たまに見つけると嬉しくなっている自分がいる。この瞬間がなくなってしまう日が来てしまうんじゃないか、と思うのが今は一番寂しい。これだけ一緒にいるんだからもうそのうちにでも訪れてしまいそう、だけど、今日はまだそのときじゃなかったらしい。まだまだ分からないところも知らないところもある。不思議。そんなふうに横顔を見つめた。
 好きなところとよく知っているところ、変わらないところはどんどん積もっていく。減ることはない。たまに嫌いなところや直してほしいところが出てくるけれど、それは気付けば消えていることがある。好きなところは減らないのにね。こっちも不思議。賢二郎は不思議な人だ。出会ったときからずっと不思議と気になる人だったな、そういえば。
 じいっと見ているわたしの視線に気付いた。賢二郎ははた、とわたしの顔を見つめ返してから、そっと身を屈める。何するんだろ。ぽけっと動かず様子を窺っていると、ぐっとさらに身を屈めた賢二郎の唇が軽く触れた。離れていってからわたしの顔をまた見つめる。黙ったままのわたしに、少しだけ恥ずかしそうにして「してほしそうだったからしたんだけど」と言う。え、そんな顔だったかな。自覚はなかったけど。そう素直に言ったらそっぽを向かれてしまった。

「拗ねないでよ。嬉しかったよ」
「昔からはよく分からない。本当に。女心とかじゃなくてが難しいんだろ、絶対」
「とっても単純なつもりなんだけどね」

 ぶつくさと文句を言うので笑ってやった。分からないままでいいよ。永遠に。
 学生時代は冷たかった指先。今もたまに冷たいけど、大体優しいぬくもりがある。いつかにわたしが手を温めたことがあったね。あれ、無意識でやったから恥ずかしかったな。気持ちがバレちゃったんじゃないかってすごくドキドキしたことを覚えている。わたしはこんなにも覚えているけど、賢二郎は覚えているかな。そう思ったけど答えは聞かなくても分かる。きっと覚えているから。そう言い切れるくらいに、愛されている自覚はある。なんて幸せなことなのだろうか。

「ねえねえ」
「何?」
さん、って言ってみて」
「は?」

 久しぶりに呼ばれたくなってしまった。「呼んでみて」とつんつん腰を突く。賢二郎は怪訝そうな顔をして「なんで今更」と首を傾げた。意味も理由もないよ。ただ呼ばれたいだけ。そう言ったら小さくため息をついた。

さん」
「……」
「何か反応、してもらっていいですか」

 敬語のオプション付きだった。何年ぶりだろう。なんか、すごく、ドキドキした。白布に恋をしていた高校生のときに戻ったみたい。いつまで経ってもこれは恋のままだ。紛うことなき恋だなあ、これは。ちょっと恥ずかしくなった。

「白布」
「……なんか」
「うん?」
「それ、くすぐったいから、やめろ」

 ちょっと赤くなった顔。変わらずかわいい白布のままだ。なんだ、わたしと一緒だね。そんなふうに安心してしまった。からかうように「白布」ともう一度呼んで手を伸ばしてほっぺをつついてみる。知らない間に顔がにこにこしているのが自分でも分かった。それを横目でちらりと見た賢二郎は「そういうの、後輩いじめだと思います」と言ってわたしの手を握る。後輩だって。くすくす笑ったら「もういいだろ」と顔を隠してしまった。
 これからもずっと恋のままで。たまに愛になったり情になったり欲になったりしながらも、変わらず恋のまま。実ることも叶うこともないだろうと思っていた。見ているだけで幸せで、考えるだけで胸が苦しくなる、あの日の恋のまま。でも、あの日々と違うのはそれをいつだって実らせてくれて、叶えてくれる、賢二郎がいるということ。これ以上嬉しいことってあるのかな。そんなふうに笑ったら、賢二郎もちょっとだけ笑ってくれた。


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