※まださん付け+敬語の時期のお話です。


 次の日は休みだというのにまだ帰ってこない賢二郎に一人で苦笑いをこぼす。やりたくてやっている、この仕事のためにこれまで頑張ってきたとはいえ、この時間はちょっときついかもね。そんなふうに時計を見上げた。今日は割と早いかも、と聞いていたから九時くらいかなと思っていたのだけど。予想が外れた。十時前。一緒に住み始めてそこそこ経つのに、まだなかなか帰宅時間を当てられないなあ。
 大人しく帰りの連絡が来てから晩ご飯を作り出せば良かったなあ。おいしそうに出来上がったハンバーグを見下ろしつつ自分の読みの甘さを反省した。こんな時間になったことなんて今までなかったのになあ。というか、その前に、晩ご飯うちで食べるのかな? 病院で何か食べているのでは? そんなふうに首を傾げて少し考える。そういえば今までその可能性を考えたことがなかったなあ。とはいえ、作っちゃったし。食べてたら明日自分で食べよう。そうフライパンの蓋を一旦閉めた。
 一緒に住み始めて一番驚いたのが、賢二郎の多忙さだ。いつも思うけれど。お医者さんって思っていた数十倍忙しいんだな、とこれまで軽い怪我や風邪で病院に行っていたことをなんとなく申し訳なく思った。賢二郎にそう言ったときは「そういうときは行っていいですよ、怪我と病気に変わりはないんですから」と言ってくれたっけ。患者さんには優しいんだね、とからかったらちょっと拗ねられた。「いや、さんにも優しいつもりですけど」と。そうでした。これは失礼。そんなふうに返したらしばらくこれでもかってくらい甘やかされたことを思い出してしまった。
 ちょっと赤くなった自覚がある顔を手で冷やしつつ、料理に使ったボウルや菜箸を洗っておく。先に食べてしまおうか。でもここまで待ったんだし、せっかくなら一緒に食べたいけど。そう思ったけど前に食べずに待っていたら怒られたことを思い出した。怒られる前に食べておいたほうが良さそうだ。なんかわたし、賢二郎に怒られっぱなしなのでは? 鍵のチェーンロック忘れをよく怒られたり、最近は洗濯物の干す位置も怒られる。チェーンロックはすると不便なんだけどな、と思いつつ一応ちゃんとかけている。洗濯物に関してはわたしの下着は見えないところに干すことと、必ず男物だと分かるものを一つは一緒に干すように言われているので意識している。なんか、やっぱり過保護な気がする。下着泥棒が来られるような低いところじゃないんだけどな。そんなふうに笑ったら睨まれたっけ。
 とりあえず自分の分をよそって大人しく食べ始めたとき、スマホが鳴った。机に置いてあるそれを覗き込んでみると賢二郎から「今から帰ります」と来ている。ようやく終わったようだ。食べ始めちゃったな。そんなふうに思いつつ「気を付けてね」とだけ返信した。
 ふと、賢二郎のメッセージを見返す。今から帰ります。そういえば賢二郎って、わたしのことを名前で呼ぶようにはしてくれるようになったけど、敬語は崩れないなあ。名前もさん付けだし。もう付き合いはじめて結構経つから先輩後輩って関係はほとんどないのにな。名前を呼んでほしいと言ったときにも思ったけれど、やっぱり高校時代の上下関係はなかなか薄れないものだ。
 そんなことを考えながらハンバーグを食べ終わった頃、スマホが鳴った。ガチャリと鍵が開いた音がしたのを確認して、玄関に歩いて行く。絶対チェーンロックかけないほうが楽なのに。賢二郎もいちいちわたしに開けてもらわなきゃいけないの面倒じゃないのかなあ。そう思いつつチェーンロックを外して、ドアをゆっくり開ける。

「おかえり」
「ただいま」

 額に滲んだ汗を服で拭いつつ「遅くなりました」と言った。鞄を受け取ろうと手を伸ばしつつ「お疲れ様です」と笑ったら、賢二郎はなんだか照れくさそうに「ありがとうございます」と鞄を渡してくれた。いつまで照れるんだか。わたしまで照れそうになりつつ二人でリビングに歩いて行く。

「賢二郎、ご飯もう食べた?」
「いえ、食べてないです」
「病院で食べなかったの? コンビニあるでしょ?」
「うちで食べたいので、よっぽどのことがない限り食べてくるつもりはないです」

 賢二郎はそう言ったあとに、ハッ、とした様子でわたしを見る。それから「いや、あの、食べてきたほうがいいなら向こうで食べますから」と言った。変なの。なんで慌ててるの。そうちょっと不思議だったけど、少し考えて察した。晩ご飯を準備することを面倒だと思っていたらまずい、と思ったのだろう。そんなことを思わないけどな。結局自分の分とまとめて作るだけだし。まあ、外で食べてくるって言われたらわたしも外で済ましちゃうときもあるから、楽なことには楽ではある。まあ、それも滅多にないか。どちらかと言うとわたしも家でご飯は食べたいしなあ。やっぱり別に面倒というわけではない。

「別にそれは全然いいけど、何が食べたいか教えてくれると助かるかな」
「え、そうなんですか?」
「メニューを考えるのが一番わたしとしては大変なんだよね」

 賢二郎としてはリクエストしたほうが面倒に思うのではないか、と思っていたらしい。どうやら白布家のお母様がそういうタイプだったとのことだ。きっちり一週間のメニューを事前に決めて買い物をしていたのだという。そういうきっちりした人、尊敬するなあ。わたしは行き当たりばったりで買い物をしてしまうから少しずつ見習わないと。そんなふうに思いつつ、すっきりした。だから、今まで何が食べたいか聞いても「何でもいいです」って言ってたのか。どうでもいいって意味なのかと思ってたまにムカついてたから言って正解だった。
 まだタッパーに詰めていないハンバーグを温め直す。スープはまだ温かいけど、一応もう少し温め直そうかな。そんなふうに思っていると賢二郎がご飯をよそいにやってきた。座ってていいのに。そう言っても聞かないからもう何も言わないことにしている。お箸とコップ、お茶を自分で用意してからまたこっちに戻ってきた。「何かありますか」と聞かれたので、冷蔵庫にサラダがあることを伝える。冷蔵庫を開けてサラダと取り出すと、ドレッシングを持ってリビングへ戻っていった。
 温め直したハンバーグとスープを机に置く。「ありがとうございます」と言ってから手を合わせて食べ始めた。こんな時間まで食べずに働いて、お腹減るだろうに。うちで食べたいって。なんかかわいいな。そんなふうにベッドに座って背中をじっと見ていると、ふと賢二郎が振り返った。「なんですか」と不思議そうな顔をされてしまう。そりゃそうだよね。食べてるのにごめんね。そう笑って「何でもない」と返しておく。賢二郎は不思議そうにしつつも食事に戻った。
 本当、いつまで経っても不思議。賢二郎の丸っこい頭を眺めながら思う。咀嚼するたび少し揺れる髪がきらきらしている。変わらない背中とうなじ。それが今目の前にあるというのは、本当に、不思議。しかもわたしが作ったご飯を食べてるし。変なの。そんなふうに思いながらぼうっとさらさら揺れる髪ときらきらしている光の輪を見てしまう。

さんって」
「うわ、びっくりした。何?」
「ずっと思ってたんですけど、料理得意なんですか」
「いや、まあ、そういうわけでは……一人暮らしが長いから慣れたっていうのもある、し」
「なんですか? 歯切れが悪いですね」

 賢二郎には言っていないのだけど、わたし用のカラーボックスの奥には料理本が何冊か入っている。わたしが宮城に帰ってきた頃、賢二郎の家にお邪魔することが増えた。そのとき、外へ食べに行くのもなんだし作ろうか、と言ってしまったのだ。そのときは東京で暮らしていたときによく作っていた簡単なもので誤魔化した。でも、それを食べた賢二郎の顔がかわいかったから、つい次にお邪魔したときも作ろうかと言ってしまったのだ。そのときも別の簡単料理で誤魔化した。そんなことを繰り返しているうち、賢二郎の家に行ったらわたしがご飯を作るというのがなんとなく恒例になってしまって苦労したっけ。一緒に暮らすとなってからは慌てて料理本を買ってこっそり練習したなあ。料理教室もその頃から通い始めて、今でも不定期で参加している。なんか、将来お医者さんになる人に下手なもの食べさせたくない、と思ったからだ。賢二郎には内緒にしているけど。
 でもまだまだなんだよなあ。すぐにハンバーグもスープを平らげた賢二郎の手元をちらりと見る。ご飯多めによそってる。やっぱり量が少なかったかあ。わたしの家は父親以外に男家族がいないし、どうやら父親が少食なようで晩ご飯もほどほどの量しか出てきたことがなかった。そんな家で出てくるご飯の量しか知らないからなのか、どうしても男兄弟に囲まれて育った賢二郎にとっては少ない量になってしまうのだ。多く作らなくちゃ、と思うと逆に多くなりすぎるし調整しようとすると味付けが訳分からなくなるし。それが今一番の悩みだ。作り置きをして足りなかったら出せるように工夫したり、余ったら次の日のお弁当に入れたりして頑張ってはいるけれど、なかなかぴったり適切な量で夕飯を出せずにいる。
 でも、文句一つ言わない。少ないって言ってくれれば良いのに。たぶんこれまで食べてきて少ないとか多いとか思ったことがあるだろうに、言われたことは一度もない。

「まあ、料理が得意ってことにしといて。嬉しいから」
「含みのある返しですね。得意かどうかは置いといて上手だとは思いますけど」
「……」
「なんで背中叩くんですか。痛いですよ」

 小さく笑いながら多めによそった白米を食べる。明日はもう少し多めにおかず作ります。ごめんね。そういう意味を込めて頭をくしゃくしゃ撫でておいた。

「食事中なんでやめてください」
「かわいくないこと言う~」

 かわいい後輩なのにな~、とからかってみる。賢二郎はわたしの手を払いながら「はいはい」と軽くあしらってきた。こういうところが天童や瀬見からするとかわいくなかったのだろう。今になって何となく分かった。もぐもぐと白米をしっかり噛んでいる頬を斜め後ろから眺めつつ、あ、と思い出した。敬語。やめてって言ったらやめてくれるかな。
 そんなわたしの視線がまたもや伝わったらしい。賢二郎が食べ終わった食器を重ねてから、くるりとこちらを振り向いた。「さっきからなんですか」と聞かれてしまった。このまま勢いで言ってみようかな、と思ったけどやっぱり躊躇する。曖昧に「ん~」と答えただけで終わってしまった。賢二郎は怪訝な顔をして「何かあるなら言ってください」と言う。賢二郎はそう言うと思ったよ。隠し事をされるのが何よりも嫌いだもんね。

「当ててみて」
「……どうしたんですか、今日。ちょっと面倒くさい彼女みたいになってますよ」
「面倒くさい彼女の気分だったから」

 顔が笑っているから嫌がられているわけではないらしい。ちょっとほっとした。賢二郎は「なんですかそれ」と笑いつつも「帰りが遅かったこととか関係してます?」と付き合ってくれる方向でいるようだ。結構見当違いなことを言っているけれど、状況からしてそこを突くのが当然かな。そのまま突き進んで行かれると永遠に答えに辿り着かないだろう。そう思って「ヒント、後輩」と言ってみた。

「後輩? 五色辺りから連絡とか来ました?」
「ううん」

 面白い、ちゃんと考えてくれるじゃん。そんなふうにくすくすしていると賢二郎が食器を置きに行く。背中に「洗わなくていいよ」と声をかけたのだけど、「後で洗うのでさんこそ洗わないでください」という言葉が返ってきた。できる家事はやる、と決めているらしくていつもこう返される。優しいことで。そんなふうにまた笑ってしまった。

「後輩っていうのは俺にとってですか、さんにとってですか」
さんにとっての後輩のこと」

 わたしの言い方でピンと来たらしい。「俺ですか」と真顔で呟くからおかしくて。わたしの隣に腰を下ろして「何かしましたっけ」と首を傾げた。前髪が薄ら滲んだ汗で濡れている。エアコンの温度、ちょっと高めにしてたっけ。ベッドの近くに置いてあるリモコンを手に取って一度温度を低くする。それに気付いた賢二郎が「ありがとうございます」と言った。暑いって言ってくれれば良いのに。わたしが冷え性なことを知っているから言わなかったのだろう。優しいのは嬉しいけど程々にしてくれると嬉しいのにな。

「ヒントください」
「う~ん……じゃあヒント、〝さんにとってですか〟」
「は?」

 訳が分からん、って顔。その顔高校時代はあんまり見られない貴重なものだったのに、一緒に住み始めたら結構な頻度で見られるからびっくりしたんだよね。意外ところころいろんな表情をするものだから毎日発見が多い。未だにそんな感じだからしみじみ不思議な人だな、と思うことがあるんだよなあ。

「ちょっと意味が分からないです」
「だろうね」
「これだけ教えてほしいんですけど、怒っているわけではないですよね?」
「怒ってない怒ってない。変な誤解とかじゃないよ」

 過去の苦い思い出を彷彿とさせてしまったらしい。顎に手を当てて真剣に考え出しそうになったから慌ててしまった。もう正直に言っちゃったほうがいいかな。悩ませるのも可哀想だし。そんなふうに思っていると「あ」と賢二郎がひらめいたらしくて目を丸くした。

「さん付けですか」
「惜しい! すごい、そこまで導けただけですごいよ!」
「さん付けが惜しい……もしかして敬語のこと言ってます?」
「正解! すごい!」

 思わず拍手。あんなヒントから導けるなんてさすが、と言ったら薄く笑われた。「入試の問題より難しかったです」と言った顔がこれまたおかしくて余計に笑ってしまった。

「敬語がなんですか。やめろってことですか」
「やめろっていうか、そろそろ取れないかなと思って」
「……」
「無理ならいいよ。取れるまで待ってる」
「無理というか、どう喋ればいいのか分からなくなるんですけど」
「川西とか五色に話すみたいにすればいいだけだよ」
「…………」
「黙っちゃうの?」

 本格的に難題らしい。名前呼びはさん付けとはいえ結構あっさりだったのになあ。根強く染みついた敬語というのはなかなか外れないものだとは分かっているつもりだけれど。無茶なこと言ってごめんなさい。そういう意味を込めて考え込む賢二郎の丸まった背中を撫でる。別に敬語のままでも、さん付けのままでも困らない。いつかそうしてくれたらいいなって思っているだけだ。今すぐじゃないと嫌だ、なんて我が儘を言うつもりはない。困らせちゃってごめんね、と最後に付け足して言うと、賢二郎がバッとこちらに顔を向けた。

「無理ではないです」
「もうすでに敬語だけど?」
「……無理、じゃ、ない」
「ぎこちな~い」

 負けず嫌い根性に火を付けてしまったらしい。賢二郎は若干眉間にしわを寄せつつ何を喋ろうか考えているらしかった。

「敬語の賢二郎くんも好きなので大丈夫ですよ」
「なんか微妙にムカつくんですけど」
「ん?ムカつくん〝ですけど〟?」
「…………ちょっと時間をください」

 珍しく素直な降参宣言だった。丸まった背中を弱く叩く。そのままでも本当に好きだから大丈夫ですよ。無理しないでね。そう言うのに賢二郎は「無理じゃないです」と悔しそうに言うだけだった。
 いつまでも待てるよ。待っている間も楽しいしね。このときはそんなふうに余裕綽々だった。


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