※喧嘩後に一緒に住み始めてからのお話です。


 残業から帰宅。靴を脱いで鍵を靴箱を上に置きつつ、賢二郎が今日は帰ってこないんだったと思い出した。ちょっとへこむ。真っ暗な部屋の電気を付けてふらふらといつもの定位置へ向かう。鞄を床に置いてずるりと座り込むと、小さなため息が出た。疲れた。今日はとことん疲れた。朝からずっとてんてこ舞いだったし正直自分の仕事が何一つ進まなかった。明日は土曜日だけど休日出勤しようかな。そう思うくらいに山積みになっている仕事に目眩がしてしまう。
 出勤するにしてもお昼からにしよう。そう思いながらお風呂に入るために力を振り絞って立ち上がる。自分の部屋着が入れてあるカラーボックスの三段目に手をかけつつ、あ、と思った。一番上の段。賢二郎の部屋着が入っているところから、少しだけ服がはみ出ている。しまったときに挟んでしまってそのままになっているのだろう。三段目に向けていた手を一段目に向けて、そっと開ける。挟まっていた箇所をきれいに整えてから閉めようとして、また手が止まった。
 賢二郎は昨日から隣の県に行っている。他の病院を見学すると言っていた。そういう研修もあるんだなあと思いつつ送り出したのだけど、一緒に住み始めてからこんなに長く会えなかったことはなかったな、とこっそり思う。まだたった一日だけど。今日で他の病院での研修は終わって、明日は宿泊先のホテルをチェックアウトしてからそのままお昼に出勤すると言っていた。大変だね。ここにはいない賢二郎に苦笑いをこぼす。ちゃんと眠れているといいけど。ちょっとだけ心配だ。床で寝落ちしててもホテルじゃ誰も起こしてくれない。帰ってきたら寝違えていないか確認しよう。
 賢二郎の部屋着には、賢二郎の中だけにあるランクが存在している。それにわたしが気が付いたのは一緒に住み始めてからだ。直接聞いたわけじゃないし言われたわけじゃない。でも、一緒に暮らしていたらなんとなくそのランクに気が付いた。
 まず、下級ランク。これはもう捨てられる直前の古いものだ。部屋の掃除をするときに主に活躍している。もうこの一ヶ月の間に捨てられて入れ替えがされるであろうもの。確かに袖のところがほつれていたり伸びていたりしていて、ちょっと古いというのが一目で分かる。ただ、この状態でも下級ランクとして残しているので元々はお気に入りだったものが多いのだろうと思っている。今ある下級ランクのものはどうやら高校のときに寮で着ていたものらしい。川西が見せてくれた寮での写真で着ていたのを覚えている。捨てちゃうのかな、なんてちょっと寂しく思うけど仕方ない。服は循環するものだ。
 次が中級ランク。これは日常ふつうに着ているものだ。帰ってきたら大体中級ランクのものを取り出して着ている。取り立てて特徴はなくよく見る部屋着だ。これは着古したら下級ランクの仲間入りすることもあるし、別にそこまで気に入っているものじゃなかった場合は新しい物を買ったらそのまま捨てられることもある。
 次が上級ランク。少し恥ずかしいのだけど、どうやらわたしに貸してくれるものはここから選ばれている。一緒に住み始めてからは部屋着を借りることはほとんどないけど、ふとした瞬間になぜか貸してくれることがたまにある。そういうときに渡されるのがこのランクの部屋着だ。なんとなくの感覚なのだけど、何か良いことがあって機嫌が良い日に着ていることが多い。あとコンビニに行くときは必ずこのランクの部屋着に着替えている。外にも着ていけるという認識なのだろうと思っている。
 で、最後。特級ランクのものが存在する。これはたとえばなかなかない連休の日や部屋で丸一日過ごすときに必ず着ている、賢二郎の中で最上級のお気に入りらしいものだ。たった一着しかない。わたしからすれば何の変哲もないスウェットなのだけど、肌触りが好きなのか着やすいのか、何が気に入っているのかは分からないけどとにかくずっと着替えないという日には必ず着ている。ちなみにわたしも借りたことがない。特級だというのにかなり着古されていて、結構いろんなところが伸びている。袖とか首元とか。ズボンのゴムも伸びている。そんな感じなのではじめは下級ランクのものだと思っていたけど、明らかに他の下級ランクのものとは扱いが違う。これが一番のお気に入りなのだと気が付いてからは、これを着ているときの賢二郎がかわいくて仕方なくなっている。
 さっき引き出しからはみ出ていたのがこの特級ランクのもの。一昨日は休みだったから着ていた覚えがある。まだ洗ってから一度しか着ていないはずなので脱いでそのまましまったのだろうと予想ができた。
 引き出しを閉めようとした手を、そうっと部屋着に伸ばす。賢二郎のお気に入りのそれをこっそり広げてみる。休日に家で映画を観るときとか一緒に過ごすときには絶対着てるよなあ。何度も洗濯して干したな。そんなふうに思い出しながら、出来心でちょっとだけ顔を寄せた。一昨日着ていたからなのか賢二郎の匂いが残っている気がして、本当に、一瞬で寂しくなってしまった。会えるのは明日の夜なのになあ。そう情けなく笑ってしまう。お昼頃に連絡が来て以来連絡はない。忙しいのだから仕方ない。頑張っているのだから応援するのは当たり前なのだけど。一人になるとやっぱりこうなるな、と苦笑いが溢れてしまった。
 賢二郎が帰ってくるのは明日の夜だし、ちょっとくらい借りてもバレないか。シャンプーもボディーソープも同じものを使ってるんだし、匂いで気付かれることはまずないだろう。そう思って賢二郎のお気に入りを拝借することにした。



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 午後十一時半。外から部屋を見上げたら電気がついていてちょっと驚く。明日が休みとはいえいつもならもう寝ている時間なのに。起きているなら、まあ、嬉しいけど。そう思いつつ向こうで買ったお菓子の袋を持ち直しながら少し早歩きした。
 夜まで研修の予定だったのだが、担当の医師が緊急で出て行かなければいけなくなってしまい、急遽予定が変更された。二日間の予定だった研修が一日半に短縮、残りの分はまた別の日程のときに組み込まれることとなった。そのため時間にかなり余裕ができて、出勤時間は変わらないから好きに過ごして良いと言われてしまって。別に何もないのにホテルに泊まるのも、ホテルから明日出勤するのもなんとなく嫌だったから帰るという選択をした。そこそこの移動距離だったのでこんな時間になってしまったけれど。九時頃にさんに帰ることを連絡したけど返信も既読もなし。ちょっと前に帰宅したと連絡があったのに。寝ているのかもしれないし、それ以上追加で連絡はせずに帰ってきた。
 部屋の鍵を出しつつ、あ、と思う。そうだ、一人になるときはさんにいつもチェーンロックもかけるように言っているから開けてもらわないと入れない。結局連絡しないとだめか、と思いつつも鍵を差し込んで回す。ガチャリと当たり前に鍵が開く。電話するか、とスマホを出しつつドアノブを何気なく回したら、キィ、とドアが普通に開いた。目が点になる。開いたんですけど、さん。ちょっと眉間にしわが寄ったのが分かる。俺が帰ってこられない夜は必ずチェーンロックもしてくださいって言っているのに。忘れてる。一緒に住み始めたころは気を付けてくれていたのに、ここ最近はよく忘れているから困っている。さんは急に俺が帰ってきたときに不便だと言っていたけどそういうのはどうでもいい。防犯第一。何かあったらどうする。俺が知らないところでもしものことがあったら、と俺が考えていることをさんは分かってくれない。本当は残業があった日、遅い時間に一人で駅からここまで歩いてくるのも心配なくらいだというのに。駅に着いたら連絡してほしいと言っても絶対連絡してこない。このくらいの距離大丈夫だよ、と笑う。さんが大丈夫でも俺が大丈夫じゃないんですけど。何度言ったか分からない。
 厳重注意だ。何度目か分からないさんのうっかり、今日ばかりはしっかり注意してやる。あれもこれも、何もかも。ずっと思っていたこと全部しっかり約束させてやる。そう意気込みながらしっかりチェーンロックまでかけて施錠完了。鍵を靴箱に置きながら「さん」と少しだけ声を張って名前を呼びながら部屋に向かう。
 電気がついている部屋を覗き込んで、名前をもう一度呼ぼうとした口が開いたまま固まる。お風呂上がりと思われるさんは机に突っ伏してぐっすり眠っていた。珍しい。寝落ちなんて滅多にしないのに。思わず足音を立てないようにゆっくり近付いてしまう。顔を覗き込むけど机の上に置かれた腕が邪魔をして顔が見えない。規則正しい寝息。今日はよっぽど大変だったのだろうか。鞄も床に置きっぱなしだし、かろうじて髪は乾かしたらしい。髪を梳かしたくしが机に置きっぱなしになっている。いつも寝落ちしている俺を起こしたり何やり世話を焼いてくれることが多いからあまり見ない光景だった。
 いや、というかなんでそれ、着てるんですか。勝手に一人で照れる。学生時代からなんとなく着心地が気に入っていて捨てられずにいる部屋着。どこかしこもそれなりにくたびれているのだけど、リラックスしたいときは必ずこれを着ている。一昨日もこれを着て休日を過ごした。そんな部屋着を、さんがなぜか着ている。自分から俺の部屋着を着るなんてこと、今までなかったのに。
 はっとする。まずい、またさんのかわいさに屈して注意を怠るところだった。何より今はチェーンロック忘れ、あと残業終わりの帰宅について。今日必ず「何があってもチェーンロックをかける」「残業が終わって駅についたら連絡する」、この二点を確実に約束してもらわなければ気が済まない。そう、俺は怒っている。心配だから言っているのに大丈夫だと笑うさんに、怒って、いるの、だけど。
 すうすうと規則正しい穏やかな寝息。かすかに上下する体。手が邪魔をして見えない顔。いや、最後の。見えないのになんでかわいいって思ってるんだよ。自分にツッコミを入れつつ悔しくなる。悔しくなったらこっちの負けだ。怒るつもりだった気持ちがとんでもないスピードで消えていく。くそ、いつもこうなるじゃねえか、馬鹿か俺は。一人でそう項垂れていると、ぴたり、と寝息が止んだ。もしかして、と顔を覗き込んだ姿勢のままでいると、もぞ、と手が動いた。伸びている俺の部屋着の袖を握ったままその手が余計に顔に近付くと、小さく「ふふ」と笑った声が聞こえて、こっちが恥ずかしくなった。今、絶対匂いを嗅いだ。それ一回着てそのまましまったやつだから恥ずかしいんですけど。というか、俺がいることに気付いていない。自分の手で俺が見えていないのだろう。俺がさんの顔を見られないのと同じく。いるんですけど。そう思うけどあえて声はかけない。そればかりかできるだけ気付かれないように息を潜めてしまっている。
 しばらく袖に顔をくっつけていたさんはどうやら寝ぼけていたらしい。少ししてから「あっ」と言ってがばっと起き上がった。そのまま時計に顔を向けると「うわっ」と声を上げてからため息をつく。それから、何気なくこっちに顔が向いた。

「……ただいま」
「…………えっ、あ、おかえり?」
「ちょっと予定が変わったので急遽帰ってきたんです、けど」

 完全に思考が停止しているらしいさんの顔をじっと見る。ちょっと前髪がハネてる。机に突っ伏して寝たから跡がついてしまったのだろう。荷物を置いて手を伸ばす。ちょいちょいと手ぐしで直したらハネはすぐに直ってしまった。

「先に言うんですけどチェーンロックかかってませんでしたよ。もう次はないですからね」
「あっ、そういえば……忘れてた、ごめん」
「で」
「うん?」
「それ、着心地どうですか」

 「へ」とちょっとまぬけな顔をしたさんの前髪から指を離して、そのまま頬を伝って首筋を通り、最終的に胸元で指を止める。つん、と軽く指で突いたらさんはしばらく固まっていたけど、一つ瞬きをしてからみるみる顔を赤くさせた。もうこの時点で、というかとっくに怒ろうと思っていた気持ちは消え去っていた。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 つん、と指先で胸元を突かれて、ぶわっと全身が熱くなった。逃げるように壁際に避難して賢二郎から距離を取る。違う、本当に違うの、勝手に借りたのは借りたんだけど! そう言いながら言い訳を考える。どうしよう、寂しかったから着てみたとか、匂いが残っててなんか離しがたくて着たとか、恥ずかしくて言えない。子どもみたいだし。
 帰ってくるなら連絡してくれればいいのに、と思っていたら賢二郎が言いづらそうに「連絡はしてますからね」と先回りして言った。寝落ちしていて気付かなかったみたいだ。恥ずかしい。いつも寝落ちしている賢二郎を起こす側だし、注意もよくするのに。わたしも寝落ちしてるじゃん。いや、もうここまできたら寝落ちはどうでもいいのだけど。
 じっと見られているのがよく分かる。やってしまった。本当に恥ずかしい。視線をそうっと賢二郎からそらして、そそくさと移動してフレームアウトを図った、けど、もちろんできるわけもなく。「ちょっと」と声をかけられてしまう。

「俺、風呂入ります」
「あ、はい、どうぞ……」

 その間に着替えよう。恥ずかしい。見られたくなかったな。そう小さく息を吐いていると、賢二郎が立ち上がった。上着を脱いでいつも通りクローゼットにしまってから、カラーボックスの一段目から上級ランクの部屋着を取り出す。わたしの横を通ってお風呂へ向かうとき、足を止めたかと思えば顔を覗き込んでくる。じっと見つめてから、つん、と鼻先を指で突かれた。

「着替えないでくださいね」

 指が鼻先から離れてから、賢二郎にしては珍しく乱暴な手つきでくしゃくしゃと頭を一撫で。それからさっさとお風呂場に消えていく。何か、変なスイッチを入れてしまった、気がする。


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