※付き合い始めて半年くらい経っている頃の話です。




 東京駅で待ち合わせた白布は、ほんの少しだけ痩せたように見えた。どうしたのか聞いてみると、なんでも先週まで諸々のレポートや課題に追われてろくな生活が送れていなかったのだという。昼食をゼリー飲料で済ませたり冷蔵庫にあるものを適当に食べるだけだったり。白布は忌々しそうに「医学を学ばせる学生に強いる生活じゃないです」と呟いた。苦笑いをこぼすわたしを見てから「もっとうまくやれるように努力はします」となぜか自省をしはじめる。呆れて苦笑いをしたように思われたのだろうか。慌てて「無理しないでね」と付け足しておいた。
 白布と付き合い始めて半年が経った。遠距離ということももちろん、わたしは仕事、白布は大学が忙しくてなかなか会う機会を作れずにいる。お互い時間があるときに連絡を入れるようにしているけれど、この頃は残業が増えているわたしの時間と学生である白布の時間がなかなか被らない。電話をする時間がぐっと減ってしまい、文章だけのやり取りが多くなってしまっている。
 そんな日々の中でようやく、今日は白布が時間を作ってくれて東京に来てくれている。明日の夕方には帰らなくてはいけないということと、多少レポートをやる時間が必要という制約はあるものの、久しぶりに二人で過ごせる休日だ。この日の約束が決まってからそわそわしてしまう自分が恥ずかしかったほど楽しみにしていた。ただ、いつお互いの予定が変わるか分からない。あまり楽しみにしすぎないように自分に言い聞かせてはいた。だから、何事もなく予定通りに会えてほっとしている。
 ひとまず白布の荷物を置くために一旦わたしの家に行くことになる。大きめの鞄を持っている白布に大体何が入っているのか聞いてみると、レポートのための資料やパソコンが入っているのだという。資料は紙で持っているそうだ。白布ならタブレットやパソコンにデータとして保存していそうなのに、なんだか意外。素直にそう口に出したら白布が「結局紙が一番便利でした」とげんなりした様子で言った。どうやらトラブルがあったらしい。白布、そういうところ堅実そうだもんね。思わず笑ってしまうとちょっと恥ずかしそうにされてしまった。
 乗り換えを一回挟んで家の最寄駅で降りる。家の方向へ歩いて行きながら、このあと行きたいところはあるか聞いてみる。白布は少し考えるように視線をわたしから外す。それからまたわたしのほうを見ると「あの、絶対引かないでほしいんですけど」と眉間にしわを寄せて前置きしてきた。

「え、そんな引かれるかもしれないところに行こうとしてるの……?」
「いや、そういうわけじゃないですけど、人によっては引くかもしれないと思ったので」
「ちょっと怖いけど……どこに行きたいの?」
さんの通勤ルートを歩いてみたいんですけど、いいですか」
「……へ?」

 思わず間抜けな声が出てしまった自覚がある。白布はそれに少し拗ねたような視線を向けつつ「だから引かないでくださいって言ったじゃないですか」と文句をつけてきた。引いてはいないけれど、ちょっと予想外で驚いただけ。慌ててそう言い訳をしておいた。

「いいけど……別に面白くないよ? オフィス街だし観光に行くような場所もないし……」
「観光目的じゃないのでいいです」
「何目的なの?」

 白布がどこか憎らしそうにわたしを見た。その視線は、一体。よく分からなくて曖昧に笑ってしまう。白布はそんなわたしをじっと見てから、ふいっと顔を背けた。

「どんなふうに日々を送っているのか、少しくらい知りたいと思うじゃないですか」

 以上です、と早口で言って話題を切り上げてしまう。どんなふうに、日々を送っているのか。その白布の言葉はわたしの言葉でもあった。思えばそれは高校生のときから変わっていないのかもしれない。寮生活はどんなふうなのかな。教室ではどんなふうなのかな。実家に帰ったときは何をするのかな。そもそもどんな部屋なのかな。そんなことを知りたかった自分を思い出す。今も変わらない。白布も同じだったんだ。それが嬉しかった。
 何度かわたしの家に来ている白布は、もうわたしが道案内をしなくても家まで行けるようになっている。白布の少し後ろを歩きながらこっそり笑っておく。
 家に着いてから白布の荷物をひとまずテーブルの上に置いてもらう。必要なものだけ持った白布がわたしを見ると、「それで、どうなんですか」とまだ少し拗ねたような顔をして聞いてきた。たまにかわいい後輩の顔をするの、まだ変わらない。いつまで変わらずにいてくれるのだろうか。もうこの顔が見られない日がいつか来るかもしれないと思うとちょっとだけ寂しい。
 別に通勤ルートを歩くくらいなんてことはない。白布がどうして歩きたいと言ってくれたのかも分かったし、断る理由はどこにもなかった。「いいよ」と返したら、ほっとしたように「じゃあお願いします」と言ってくれてわたしもほっとした。
 雰囲気が出るかと思って、いつも会社に履いていくパンプスを履いてみた。かわいくもなければ特別良いものというわけではないけれど。そんなふうに笑ってみせると、白布はじっとわたしの足元を見つめていた。
 二人で家を出て、わたしが毎朝歩く道を行く。また先ほどの駅に戻り、違う方向の地下鉄に乗る。会社から家まではそれほど遠くない。すぐ着いちゃうよ、と白布に苦笑いを向ける。白布はこっちを見ていなかった。窓の外の流れる景色を見つめて、どこか、真面目な顔をしていた。
 たぶん、わたしも同じことを考えると思う。これはわたしの自惚れかもしれないけれど、きっと当たっている。わたしもそうだった。前に白布がよく使うであろう電車に乗って、白布の大学の最寄駅を通ったときに思った。〝白布もここ、よく歩いているんだろうなあ。そう思うとじっと見てしまう。白布がそこにいるわけでもないのに〟、この思いと同じだと、思う。白布の日常をわたしは知らない。わたしの日常を白布は知らない。文章や言葉ではたくさん聞くし言うけれど、実際にこうして自分が景色に映り込むことはない。お互いそれは同じで、お互いそれがどこか悔しかったのかもしれない。好き同士で付き合っているのに永遠に知り得ないことがある。その事実が、ちょっとだけ。
 いつも通勤中に音楽を聴いていると白布に教える。スマホにBluetoothで繋いでいるイヤホンを鞄から出して、片方を白布に渡してみる。人のイヤホンって嫌かなあ。そうちょっと心配に思っているわたしに白布が「あの、イヤホン俺がつけても嫌とかないですか」と確認してきた。あ、同じだった。一人でそう笑っていると、白布は不思議そうな顔をしていた。白布なら大丈夫、と答えたら照れくさそうにしつつイヤホンを右耳につけた。いつも聴いているプレイリストをかけてみる。わたしも左耳にイヤホンをつけて、二人で並んで同じ音楽を聴いた。いつも着いてほしくないとさえ思ってしまう駅。今日はいつも以上に、永遠に着いてほしくないと思ってしまった。
 白布はあまり音楽を聴く習慣がないそうだ。レポートや課題をするときはテレビさえもつけないという。スマホにはごくわずかな曲しか入っていないらしい。それなのに、わたしのスマホを指差して「そのプレイリスト、あとで何の曲が入っているのか送ってください」と言う。どうしてか聞いてみると「たまに聴きたいので」としか教えてくれなかった。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 わたしの通勤ルートを歩いてからは、会社の近くでランチを食べた。それからは特にあてもなく二人で適当に歩いた。わたしの生活圏から出ることはないまま、少しずつ日が傾いていく。わたしがよく行くスーパーとか、わたしがよく行くコンビニとか、わたしがよく行く本屋さんとか。そういうなんでもない日常の景色を見て回る。わたしにとってはなんてことない風景だけれど、白布にはどんなふうに見えているのだろう。
 ひとしきり回り終わって、白布のレポートのこともあるので家に戻ることにした。会社から帰るのとほぼ同じルートで戻っていく。電車を降りて改札を通ってから晩ご飯をどうするか聞こうとしたとき、白布の左手が差し出された。繋いでいいですか、と目で聞かれたのが分かる。ちょっと照れつつ右手を出したら、白布がその手をしっかり握ってくれた。会社の近くだとわたしが照れると思ってくれていたのかもしれない。そうだとしたら妙に気が利くそれに余計に照れてしまった。まあ、会社の近くじゃなくても照れてしまうのだけれど。
 白布には言わない。こうして二人で通勤ルートを歩いて、たぶん得をしたのはわたしだ。だってこれから毎朝、ここを白布と歩いたと思い出しながら通勤できる。会社に行くのは正直億劫だしできることなら行きたくない。そんなふうに重い気持ちで歩いていた道が、白布と歩いたことがあるというだけでがらりと変わる。毎朝この日を思い出せる。その点で得をしたのはわたしだと思うのだ。白布には教えないけれど。
 そのまま帰宅。白布はげんなりした顔をして「じゃあ、あの、すみません。少しだけレポートやります」と言ってそっと手を離した。はい、頑張ってください。そう笑うとちょっと悔しそうにされてしまった。
 うちにはソファがない。テーブルも低めなので地べたに座ってもらうしかなくて申し訳ない。座椅子みたいなものもないのでクッションを出しておいた。腰とお尻、痛めないでね。そう冗談ぽく言うと白布は「これで体壊してたらとっくに全身終わってます」と真顔で言う。どんな生活を送っているの。本当に心配だよ。また苦笑いをこぼしてしまった。
 白布が本格的に作業に入ってしまう前に、晩ご飯をどうするか聞いておく。作ろうか、と言いかけたけれどとりあえず押し黙っておいた。ちょっと、人にお出しできるほどのスキルが、わたしにはまだない。自分一人が食べる分にはどうにかなるけれど、人に、しかも白布に食べられると思うと全く自信がない。情けないのだけれど。そんなわたしを知ってか知らずか白布は「来る途中にお店あったじゃないですか。そこでどうですか」と言ってくれた。もちろん喜んで。助かります。内心そう安堵しつつ「うん、そうしよっか」と返しておいた。
 白布が渋い顔でレポートをはじめた。白布の背後にあるベッドに座って静かに様子を見守っていると、白布がこちらを振り向いた。「あの、俺のことは気にせずに好きなことしてください」と申し訳なさそうに言った。テレビを観たり音楽を聴いたりしないから気になったのだろう。普段は一人でいると映画やドラマを観たり本を読んだりするけれど、今はそういうことを特にしたいと思わなかった。

「邪魔しないから白布のこと見てたいんだけど、いい?」
「……いいです、けど、面白くないと思いますよ」
「面白いから大丈夫」

 よく分からんという顔をした白布が「お好きにどうぞ」と首を傾げつつまたパソコンに向き直す。キーボード打つの速いなあ。わたしもそれなりに速いほうだと思うけど、やっぱり打つ文章量が違うからかな、白布のほうが正確で速い気がする。
 白布の後頭部と背中をじっと見ていると、自分でもよく分からないのだけど、なぜかきゅんとしてしまった。理由は分からない。でも、たぶん長く片思いをしていたから白布に対してはときめきのハードルが低くなっているのかもしれない。真剣にレポートをしている、ちょっとくたびれたように見える背中にときめくなんて。なんか変なの。一人でくすりと笑ってしまった。
 じっと見つめていると、じわじわと欲が出てくる。付き合い始めて半年ほど。わたしはまだ、自分から白布に何かをしたことがない。手を繋ぐのも、ハグをするのも、キスをするのも何もかも。全部白布からしてくれる。恥ずかしい気持ちが大半、不安な気持ちがちょこっと。そんな感じで何もできないままでいる。
 女の子らしい彼女ならば、かわいく彼氏に甘えることもできるだろう。けれど、残念ながらわたしは女の子らしいというわけではない。白布に対してはこれまで先輩としてそれなりにしっかりしている姿を見せるように気を付けていたところがあるから余計にだ。高校生のときから続いているその見栄っ張りはすぐにどうこうできるわけもない。白布がしっかりしているから余計に気を張ってしまうところもある。情けない姿を見せたらがっかりされそうで、ちょっと不安。そんなふうに思っている。それに、わたしが甘えたら、なんか、変じゃない? 誰ともなく同意を求めてみる。もちろん頷くのはわたしだけなのだけど、聞かずともそれは確定事項だと思うのだ。
 そんなわけで、未だに甘えたり自分から行動したりできずにいる。白布には申し訳なく思うところもあるけれど、やっぱりどうしても一歩が踏み出せなくて。ちょっと悩んでいることでもある。
 ほんの少しだけ、背中に触ったら変に思われるだろうか。そうぽつりと頭の中に浮かんだ瞬間に慌てて消す。そもそも白布はレポート中だ。邪魔をしないという約束でこうして観察しているのだから、手を出したらルール違反だし白布の邪魔になる。それは、分かっている、けれど。
 明日の夕方には白布は宮城へ帰ってしまう。またしばらく会えない日々が訪れてしまう。そう思うと、欲張ってしまう自分がいる。付き合い始めた途端に我儘な人間になっている。ちょっと自分に幻滅。一つため息をこぼしてしまった。

「どうしたんですか」
「えっ?」
「ため息が聞こえたので」

 あ、聞こえない程度のつもりがしっかり聞かれてしまっていた。恥ずかしい。慌てて白布に「ううん、なんでもないよ」と言うのだけれど、残念なことにわたしには前科がつきすぎている。白布はその言葉を素直に受け取ってくれるわけはなかった。
 じっとわたしのことを見て黙ったままでいる。言うまで待つつもりのやつだ。わたしが一番苦手としている戦法だった。言わない限り白布の時間を永遠に無駄にするだけのやつ。申し訳なさがどんどん募っていって、最後にはわたしが折れるのだ。さすがは白鳥沢学園男子バレーボール部元正セッター。相手の弱点を見抜く力は健在らしい。
 レポート、終わらないとゆっくり話もできない、し。レポートはいくらでもしてくれていいのだけど、やっぱり二人で過ごす時間がほしいとも思ってしまう。だから、ここで時間を使うのは、もったいない。自分にそう言い聞かせて「あの、笑わないでね」と前置きをしておく。

「笑いません。どうぞ」
「その……じゃ、邪魔なら言ってくれればいいから」
「なんですか」
「……レポートしてる間、ちょっと、背中、触ってもいい?」

 しん、と部屋が静かになった。うわ、やっぱり言わなきゃよかった。そんなふうに後悔するほどに白布から反応が返ってこない。どきどきしながら白布の反応を待っている。白布はまっすぐにわたしを見つめたまままだ黙りこくっている。嫌なら嫌って言ってくれればいいんだけどな。そんなふうに曖昧に笑うしかできない。
 しばらくそんな時間が続いて、ようやく白布の口が動いた。多少迷った様子で「別に、いいですけど」とだけ。なんとなく素っ気ない返しだったのが気になったけれど一応了承はもらえた。くるりとこちらに背中を向けてまたレポートに取り掛かりはじめた白布の背中をじっと見つめて、恐る恐るベッドから下りた。
 邪魔なら言ってね、ともう一度言ってからそっと手を伸ばす。白布の背中に右手を添えると、じんわり体温が伝わってきた。付き合い始めてそこそこ経っているというのに変な話だけれど、なんだか目の前にいる人が本当に白布なんだなあと実感する。白布には永遠に秘密だけれど、何度も自分の夢の中で白布の体温を思い描いたことがある。それよりも当たり前にしっかりと熱を持っている。それがなんだか感動的で、一人でこっそり息を呑んだ。
 カタカタとキーボードを叩く音がちゃんと聞こえてくる。邪魔にはなっていないようだ。ほっとして白布の背中を少しだけ撫でるように触りつつ、体を寄せて頬を当ててみる。白布の体温と匂いを感じると照れくさい気持ちが半分と安心する気持ちが半分。そんなふうにくすぐったい思いになる。こんなふうにわたしから白布に触れることははじめてで恥ずかしいけど、白布は特に何も気にしていないみたいだ。あんまりぐりぐりとしてしまうと服にファンデーションをつけてしまうので程々にしておく。勇気を出して言ってみてよかった。一人でこっそり達成感を噛みしめながらにやけてしまった。

「あの」

 はっとして白布から離れる。さすがに調子に乗りすぎた自覚がある。邪魔してごめんなさい。慌ててそう謝るわたしに白布が「いえ」と若干苦笑いまじりに呟いた。

「邪魔じゃないんですけど、正直、何も手に付かなくなる、ので」

 やっぱりちょっと待っててください、と小さな声で言われた。その声は明らかに照れているものだ。高校時代はなかなか見られなかった白布の一面。恐らく白布はそういう一面を人に見られることが好きじゃない。こうして当たり前のように見られることは、特別である証しなのだろうと勝手に思えてしまう。
 大人しくベッドの上に戻る。先ほどまでみたいに白布の背中を見つめつつ「はい。ごめんなさい」と笑ってしまった。照れられちゃった。なんか嬉しい。そんなふうに。
 白布が黙ったまま、またカタカタとキーボードを叩き始める。どんなレポートを書いているんだろう。聞いたら教えてくれるかな。終わってから聞いてみようかな。それから、さっきみたいにしてもいいか聞いたら、どんな顔をするんだろう。白布と一緒にいると無限に楽しみが湧いてきて困ってしまう。そんな、贅沢な悩みに一人でまた笑ってしまった。


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