※主人公と白布がお付き合いをはじめてからの話。最終話の少し前。


 四月初旬。柔らかな風を肌で感じながら、駅のホームで一つ伸びをする。土曜日の今日、故郷である宮城に帰ってきている。高校時代の友人の結婚式に出席するためだ。式は無事に終わり、わたしは二次会を終えて家に帰る途中。オレンジ色に染まる空に広がる雲を見つめている。
 白布と付き合い始めてもう少しで二ヶ月が経つ。正直なところ二ヶ月ぽっちでは何も変わらない。白布は医学部の勉強で忙しいし、わたしもわたしで仕事が忙しい。まだ白布には言っていないけれど、今年の夏頃に宮城の支社に異動になる予定がある。本社が取り入れた新しいシステムを他支社でも使うためのプロジェクトチームのメンバーに選ばれたのだ。しばらくは残業続きだし、異動してからもそれは変わらないだろう。まあ、そんなわけで、二人の時間など取れるわけがない。未だに先輩と後輩、という感じでメッセージのやり取りをしている。
 今日も一応遠回しに白布の予定を聞いてみた。空いていれば会いたいな、と思って。宮城に帰ると言うと無理にでも時間を作るかもしれないからそこは伏せてある。何も知らない白布からの返信は思った通り、一日大学にこもっています、というものだった。何をしているのか具体的に教えてくれたけれど、医学にこれっぽっちも精通していない人間なのでよく分からなかった。分かったことは、やっぱり忙しくて時間がない、ということだけ。白布には「そっか、頑張ってね」とだけ送り返して、結局こっちに来ていることは言っていない。
 やってきた電車に乗り込む。中途半端な時間のためか空いている。一番端っこの席に腰を下ろして、一つ息を吐いた。いい式だったな、なんておばちゃんみたいなことを言ってしまう。それくらいに笑顔の絶えない素敵な結婚式だった。友人の夫になる人とははじめて会ったけれど、しっかりしていて誠実そうな人だったな。いつも頼りになる友人だったから人を見る目は確かなはず。きっといい家庭を築くのだろう。そうわたしも楽しみになるような二人の笑顔は、自然とわたしに元気をくれた。
 スマホで撮った写真を見返していると、電車が動きはじめた。この駅は電車がかなり揺れるところだ。ぐわんぐわんと頭を持って行かれつつ、地元に帰ってきたのだという懐かしい感覚を覚えた。
 ふと思い出す。バレンタインにチョコを送ったから白布の家の住所を知っているけれど、ちょうどこの電車で近くを通るな、と。別に行こうというわけじゃないけれど、なんとなくそう頭が勝手に思い出したのだ。白布が通う大学の最寄り駅に停車するし、白布もどこかに出かけるときはこの電車に乗るのだろうか。バスに乗っているのかもしれないけれど。白布の普段の生活をわたしは知らない。勝手に想像するだけで小さく笑ってしまった。やっぱり、会いたかったな。なかなか会えないし、予定も合わないし。せっかく宮城に帰ってきたのだから、一目顔を見たい、とか。ずいぶん欲張りなやつになってしまった。高校時代は見ているだけでいいなんて言っていたのに。
 電車が停まった。写真に夢中でちゃんと駅名を聞いていなかった。慌てて顔を上げると、白布の大学の最寄り駅である仙台駅だった。学生らしき人たちもまばらにホームを歩いている。白布もここ、よく歩いているんだろうなあ。そう思うとじっと見てしまう。白布がそこにいるわけでもないのに。
 ドアが閉まり、電車が動きはじめる。流れていく風景を見つめていると、街の風景が眩しく見えた。今、白布はこの街にある大学のどこかの教室なんだか研究室なんだかにいて、一生懸命何かに取り組んでいるんだろうな。高校生のときみたいに、なんだか難しい顔をして教科書を見ているのかな。
 わたしも仕事頑張ろう。一人でそんなふうに思って、またちょっとだけ笑ってしまった。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 日曜日の夕方。東京に戻るためにまた駅のホームにいる。仙台駅はそれなりに人が多くて、なんだか現実に引き戻されたような気持ちになる。でも、なんだかいつもよりつらくない。頑張れる気がした。
 新幹線の時間まであと四十分ほど。コーヒーを飲みながらスマホを見て時間を潰していると、通知が届いた。白布からのメッセージだ。開いてみると「今時間ありますか」とだけ。それに「大丈夫だよ。どうしたの」と送り返すと、ものの数秒で着信が入った。慌てて電話に出ると「お疲れ様です」と少しだけ疲れたような声で白布が言った。

「お疲れ。なんか疲れてるね?」
『まあ……いろいろあって。どうにかなったので大丈夫です』

 早々にその話を切り上げると、近い日付で空いている日を教えてくれた。ただ、残念ながらピンポイントでわたしが休日出勤の日と重なっている。そう申し訳なく思いながら話すと、白布が「駅で顔を見るだけでも無理ですか」と言った。それに少しびっくりしてしまう。駅で顔を見るだけ、って。それだけのために東京に来ようとしているのだろうか。さすがにそれは申し訳ない。そう言うと白布は「それくらい、別に何でもないですけど」と少し不服そうに呟いた。
 そんなにしてまで、会いたいと思ってくれているのだろうか。そう思うと、ちょっと、いやとても嬉しくて。一人で笑っていると白布が「あれ」と少し意外そうに言う。

『もしかして今外にいます?』
「あ……は、はい、います……」
『なんで歯切れが悪くなるんですか。出かけているならかけ直しましょうか』

 不思議そうな白布の声に、しまった、と思う。白布は顔を見るだけでも会いたいと思ってくれているのに、わたしはすぐに諦めて会いたいと言わなかった。それがなんだかとても恥ずかしい。会いたい気持ちは本当だし、今だって白布がいいと言ってくれるなら会いに行きたい、けど。どうしても無理をさせるのではないか、と不安になる。わたしも明日は出勤であまりのんびりはできない。来てくれてもすぐに新幹線に乗ってしまうから、なんだか言い出せなくて。

『まさかとは思いますけど、また休日出勤してませんよね?』
「あ、大丈夫。してないです」
『じゃあなんで敬語なんですか。怪しいですよ』

 白布は小さくため息を吐いて、仕事が忙しいのは分かるけどもう少し自分を大事にしてください、と言ってくれる。さすが将来お医者さんになる人だね。そんなふうに茶化したら「本気で言ってますからね」と呆れられてしまった。
 わたしも、会いたいって、言っていいのかな。白布は勉強で忙しいし、いつも大変そうにしている。そんな白布を、ただほんの数十分顔を見るためだけに、会いたいなんて、我が儘を言っていいのだろうか。わたし、一応先輩だし、後輩にそんなことを言って情けなくないかな。そんなふうに迷っていると白布が「何ですか。何か隠してませんか」と怪訝そうに言った。

「あ、あの、白布さ」
『はい?』
「今って、家にいるの?」
『そうですけど。何でですか?』
「……白布の家から仙台駅までってどれくらいかかる?」
『二十分くらいですね。電車の時間によってはもう少しかかりますけど』
「あー、そっか」

 きっと最短時間だろうし、電車の待ち時間やそもそも出かける準備を入れたらもっとかかるだろう。新幹線の時間まであと四十分しかないし、やっぱりあまり会う時間はないか。それなのに無理に呼び出すのも申し訳ないからやっぱり黙っておこう。なんて話題を逸らそうかな。急に変なことを聞いたからちょっと弱ってしまう。そんなことを考えていると、白布がやけに静かなことに気が付いた。

『…………さん、今どこにいます?』

 思わず「えっ」と声が出てしまった。白布はそれにさらに「かなり後ろがざわついていますけど」と、とても機嫌の悪そうな声で言った。わたしが言葉に迷っている間に、白布の「まさかと思いますけど」という言葉が聞こえてきて、余計に戸惑ってしまう。

『……何時ですか。新幹線』
「あ、え、えっと……あと、四十分くらいしか、なくて……」
『文句は直接言います。とりあえず切ります』

 その言葉の後にすぐ電話が切れた。さすがに明日も大学があるんだからこんな時間に、たった数分のためだけに来てもらうのはやっぱり! そう思ってもう一度白布に電話をかけたけれど出てくれない。たぶん意図的に無視しているのだろうと分かった。それにがっくり項垂れる。わたしってなんでこうなるんだろう。申し訳ない、と思うなら仙台駅までの所要時間を聞かなければいいのに。白布は勘が鋭いから気付くかも、なんて分かっていたのに。
 でも、本音を言うと、気付いてほしかったのだ。わたしはずるい人間だ。会いたい、と自分で言わずして白布が会いに来てくれるように仕向けてしまったのだ。情けない。本当に、ずるいことをしてしまった。そりゃ白布も怒るよ。
 情けなく思いながらも、そわそわしてしまって。コーヒーを一気に飲んでからお店を出た。それから一番出口に近いところまで行って、待ってしまう。申し訳ないなんて思いながらも、待ってしまうなんて。情けない先輩だ。白布になんて文句を言われるのか怖いな。なんて、本当に情けないことに、笑ってしまった。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




「大体、ごほっ、れん、らく、しますよね、本当、普通なら!」

 汗だくで白布が、わたしの目の前で床にしゃがみ込んでいる。息も絶え絶えにわたしに文句を付けると、苦しそうに咳き込んだ。驚くことに、家から仙台駅まで全力疾走してきたとのことだった。歩いたら三十分強かかる距離を十五分ほどで走って来たのだ。いくら元運動部とはいえしんどい以外の何物でもないはず。白布は大学ではバレー部に入っていない。もしかしたら定期的に運動をしているかもしれないけれど、そうだとしても楽に走れるものではなかっただろう。その証拠に、わたしを見つけて発した第一声は「勘弁してください」だった。慌てて近くの自販機で水を買って渡すと、死にそうになりながら受け取ってくれた。来てくれるにしても電車に乗って普通に来てくれれば、と言ったら睨まれた。電車の時間が合わなかったのと、そんなことを冷静に考えている暇がなかった。誰かのせいで、と言われてしまうと何も言えなくて。

「ご、ごめん……忙しそうだったから、時間を割いてもらうのが申し訳なくて……」
「ちなみに、まさかとは思いますけど、昨日からこっちにいました?」
「……いました」

 白布が髪をかき上げながら舌打ちをこぼす。申し訳ないなら情けないやらで固まってしまう。そんなわたしを恨めしそうに見つめて「予定を聞いてきたのはこういうことでしたか」と大きなため息を吐いた。それからようやく落ち着いたのか立ち上がり、もう一つため息をこぼした。額の汗を拭くの袖で拭いながら、鼻をすすった。

「たとえ数十秒だったとしても、俺はさんに会いたいと思ってます。好きなので」
「……は、はい」
「でも、さんに会いたいと言われてもどうしても無理なときもあります。逆に、俺が会いたくてもさんがどうしても無理なときもあると思います」
「……うん」
「そういうとき以外は無理をしてでも会いたいと、俺は思います。さんはどうですか」

 もう呼吸が整っている。それに少しだけ驚いてしまう。いや、今はそれじゃないか。わたしはやっぱり情けない先輩だな、なんて反省した。立ち上がった白布がまだ汗が額に滲んでいるけれど、もうずいぶん涼しげな顔に戻っていた。
 無理をしてでも会いたいと、わたしも思う。でも、自分が無理をするのはいいけれど、白布に無理をさせるのは嫌かな。そうぽつりと呟いた。白布はそれに一瞬固まった。数秒そのまま動かなくなるものだから心配になるほど。けれど、一つ瞬きをした後にわざとらしく大きなため息をついた。

「俺のことは本当にどうでもいいんで、気にせず会えるときは会えるって言ってください」
「そ、そんなこと言われても……でも、」
「その代わり、俺もさんに無理をしてもらうことになっても遠慮なく言います」

 騒がしい駅の入り口で白布がそう静かな声で言った。ぽつりと「俺のことが好きならそうしてください」と言われる。ほんの少しだけ恥ずかしそうな顔をしている。けれど、それくらいはっきり言わなければわたしに伝わらないと思ってくれたのだろう。その通りなのだ。そう言い切ってくれたほうが、わたしは、素直に頷ける。情けない先輩だということは元々白布にはお見通しなのだ。

「……ともかく、会えてよかったです」
「うん、ごめんね」
さんが何も言わずに帰ったのを後で知ったら、手が付けられないくらい怒ってましたよ」
「き、気を付けます、怖いので……」
「是非気を付けてください」

 新幹線の乗り場の近くまで行く、と白布が言ってくれたので二人で歩いて行く。付き合うことになってから二人で会う機会があまりないままだから、隣を歩くだけでちょっと緊張するしなんだか違和感がある。バレー部の後輩、だったのになあ。そんなふうにしみじみ思うのだ。
 白布が思い出したように「五月にバレー部の飲み会やるみたいですよ」と教えてくれた。まだ詳細な日程が決まっていないからグループトークにはまだ何も流していないのだとか。どうして白布が知っているの、と聞いてみたら最近大学の近くで山形に偶然会ったのだとか。そのときに大雑把な予定を聞かれたと教えてくれた。

さんの予定も軽く聞かれたので、一応ゴールデンウィークは休みとだけ答えました」
「ゴールデンウィーク……休めるといいけどね……」
「ちゃんと休んでください。前々から思ってましたけど、さんは働き過ぎです」

 ため息を吐かれてしまった。それに苦笑いをこぼすと、白布は少しバツが悪そうな顔をする。仕事のことに口を挟んだ、みたいに思っているのだろう。わたしは気にしないのだけれど、白布は意外とそういうことを気にしている姿を見る。
 そんなふうに白布が思うのはわたしが悪いので仕方がない。前にお風呂に入っているときに白布が電話をかけてくれたことがある。お風呂にもスマホを持って行っていたので、電話に出て十分くらい話していた。けれど、その日は本当に激務で疲れ切っていたせいか、わたしは白布と話をしながらうたた寝をしてしまったのだ。電話に出たときに白布はお風呂に入っている、と伝えてあった。そんなわたしが眠ったらしいことに気付いた白布はとんでもなく慌てたのだそうだ。そのまま湯船に倒れたら命に関わるし、長く入ればのぼせてしまうし、入りっぱなしではいずれ体が冷えて風邪を引く。何度も何度も呼びかけてくれたそうなのだけれどわたしは起きなくて。結局、白布は電話を切ることができないまま三十分わたしの名前を呼んでくれていたらしい。はっと目が覚めたわたしは、目眩がするほどのぼせていた。あれは本当に申し訳なかった。最近はお風呂で寝落ちしないように気を付けるようになったんだよね。恥ずかしい限りだ。
 新幹線乗り場の近くで立ち止まる。まだあと十五分ある。二人で端に寄って、一つ息を吐く。あと十五分かあ。また明日から仕事に追われる日々。ちょっと憂鬱な気持ちになってしまう。

「ゴールデンウィーク、何か予定入れてるんですか」
「ううん。仕事がどうなるか不安だから何も入れてないよ」
「……四月はいろいろあって、しばらくあまり時間に余裕がなさそうなんですけど」
「うん?」
「連休は何もないように頑張るので、さんも頑張ってください」

 白布が顔を前に向けて、ちょっとだけ照れくさそうにした。それに笑ってしまいつつ「はい、頑張ります」と返す。頑張ってください、って言われちゃった。そんなふうにしばらくにこにこしてしまっているのが自分で分かるほど、なんだか体の内側がふわふわとくすぐったかった。
 ちらりとわたしの顔を見た白布が「なんか、むかつくんですけど」と拗ねたような声で呟く。笑っているのがやっぱりバレてしまった。でも、だって、頑張ってください、なんてかわいいことを言うから仕方ない。かわいい後輩が微笑ましくて笑ってしまうのは当たり前のことだ。口にしたら怒られるだろうから言わないけれど。
 新幹線乗り場に向かう人が増えてきた。あと十分。そろそろホームに列ができてきた頃だろう。わたしも普段ならもうホームにいる時間だ。新幹線のチケットをきゅっと握る。仕事があるのだから帰らなくてはいけない。そんなことは分かっている。でも、やっぱり、帰りたくないなあ、と思ってしまう。子どもみたいな駄々こねだ。帰らなきゃいけないに決まってるでしょ。そう一人で苦笑いをこぼしてしまった。
 白布の手がわたしが握っているチケットを抜き取っていく。それを見て「もうすぐじゃないですか」とちょっと困ったような顔をした。

さん」
「うん?」
「会いに行きます。数時間だけでも、数分だけでも」

 わたしの手にチケットが戻ってくる。それと一緒に白布の指先がわたしの指に触れると、チケットごと手をぎゅっと握られた。親指の腹でわたしの手を撫でると、白布が小さく笑った。後輩としてじゃなく、恋人として、まっすぐにこちらを見てくれている。それが分かってなんだかくすぐったかったけど、素直に嬉しかった。また会える。いつでも会える。「うん、わたしもまた会いに来るね」と返したらそっと手が離れる。手元に残ったのは帰りのチケットだけ。でも、寂しくない。明日も仕事頑張ろう。白布が心配しない程度に。「じゃあ、またね」とすんなり言葉が出て行く。白布もそれに「はい。また」と返してくれる。それが、何より嬉しかった。


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