「ちょっと、本当にどこ行くの?!」

 ずんずんと森の奥を進んで行く賢二郎は先ほどから「うるさい」以外の言葉を話してくれない。 結構深い森の中に入ってきたけれど、一体何をしに行こうとしているのだろうか。 全く持って読めない賢二郎の行動に困惑しつつも、ただただその背中を追いかけていくしかない。
 さっきまであんなにむかむかしていたのに。 気付けば賢二郎に流されてしまっている。 いつもなら逆の立場のことが多いからどうにもむず痒くて慣れない。 賢二郎も同じなのだろう。 さっきから一度も私の方を見ない。 その様子になんだか胸がざわつくのはなぜなのだろう。
 賢二郎が足を止めたのは小さな川の真ん前だった。 草が生い茂る場所で立ち止まると「ついた」とだけ素っ気なく言う。 ついた、って言われても。 こんな何もないところに連れてきて、一体何のつもりなのだろうか。 賢二郎はその場にさも当然のように腰を下ろした。 戸惑いつつその隣に腰を下ろすと、賢二郎は一つあくびをもらす。 今日も部活が忙しかったのだろう。 夏休みの最終日までバレー漬けだなんて、私には真似できない。 賢二郎は最近昔より余計にバレーに熱中しているように見えるけど、何かあったのだろうか。 何も知らない。 何かあったことしか、私には予想がつかない。 そんな賢二郎の横顔を盗み見ていると、不意に目が合った。 びっくりして勢いよく視線を逸らしてしまうと賢二郎はまた舌打ちをこぼす。

「なんだよ」
「な、なんでも」
「見てただろ」
「見てない!」
「見てた」
「見てない!」
「どう見ても見てただろ」
「見てないってば!」

 賢二郎は少し黙ってから息を吐いたのち「意味分からん」と呟いた。 またしても出来上がる沈黙の空間。 賢二郎は指一本動かさないまま、ぼけっと川を眺めている。 本当、一体なんだというのだろうか。 最近の賢二郎はよく分からない。 思っていることを何も言わない……のか、はたまた何も思っていないのか。 それすらも私にはよく分からない。 突然こんな行動に出たかと思えば何もしないし。 一体何をしたいのか、今の私にはさっぱり分からない。
 二人で黙ったまま静かな水音を聴いて、どれくらいの時間が経っただろうか。 辺りはもう真っ暗だ。 月明かりがなければ怖くて賢二郎を引っ張ってでも帰っていただろうけど、今日に限って月がきれいに光っている。

「なあ」

 びくっと肩が震えてしまった。 ようやく声を出した賢二郎は相変わらず川を眺めたままだ。 「なに」と素っ気ない声が出ていったけれど、特に賢二郎に指摘されることはなかった。

「いつ東京行くんだよ」
「……い、いつ、って、なんで」
「は?」

 じろり。 賢二郎が眉間にしわを寄せて思い切り睨みつけてくる。 は、もなにも。 今まで触れなかったくせになんで突然そんなこと聞いてくるのさ。 私を睨みつけたまま黙っているので、恐る恐る口を開くしかない。

「三月中旬くらい……だけど……」
「……ふーん」
「だ、だからなに?」
「お前、着拒解除したか?」
「まだだけど」
「今しろ」

 賢二郎は立ち上がると川に近付く。 水辺に生えている草を覗き込んだり、手で叩いて揺らしてみたりしている姿は子どものようだ。 それにほんの少しだけ笑いがこぼれたけれど、賢二郎にはバレなかったみたいだ。 仕方なく携帯を操作して着信拒否設定にした賢二郎の番号をすべて解除してやる。 タイミングよく賢二郎が「終わったら手伝え」と声をかけてきた。 手伝え、って、何を? 意味が分からないまま賢二郎の隣まで行って「何してるの?」と訊いてみる。 賢二郎は「いいから適当に草とか揺すっとけ」としか言わない。 虫とかいそうで嫌なんだけど。 内心そう思ったけれど、賢二郎が一体何のためにこんなことをしているのか興味がある。 黙って私も同じように草を揺すってみる。

「東京なんて別に遠くないだろ」
「え?」
「寂しいとか喚くやつらは、お前に会いに行く気なんかないからそうやって言うだけだろ」
「失礼な! そんなことないし!」
「会いたくなったら東京行けばいいだけだろ」
「そ、それはそうだけど……」
「俺はそうするから別に寂しくない」

 賢二郎ががさっと草を叩いた。 その瞬間に、ぱっと何かが空中に飛び上がって、淡い光を放った。 それを見るなり賢二郎はその辺りの草をどんどん叩いていく。 それに比例してどんどん淡い光が空中に飛び上がっては、ふわふわとただようように辺りを埋め尽くしていく。 蛍だ。 月明かりを吸い取ったかのような優しい光は、一瞬で強烈な光となって私の瞳に焼き付くように映る。

「去年見られなかったってびーびー言ってただろ」
「……びーびーは言ってない」
「東京行ったら見られないから目に焼き付けとけよ」

 賢二郎は草を叩くのをやめてその場に腰を下ろす。 また一つあくびをこぼしてから一つ息をついた。
 これ、見せるためにこんなところまで連れてきてくれたんだ。 眠たいだろうに、無理しちゃってさ。 ちょっと笑ってやると今度はバレてしまったらしい。 賢二郎は「なに笑ってんだよ」と私の足を小突く。 誤魔化すために「あんまりにもきれいだから」と笑いながら返すと、「そうかよ」と言って賢二郎もなぜだか笑った。

「お前、放っとくと危ないから」
「な、なによその言い方!」
「適当に様子見に行ってやるから」
「……べ、別にいいし、そんなの」
「それまで元気にしてろよ」

 賢二郎はポケットに入れていた携帯を取り出して「そろそろ帰るぞ」と立ち上がる。 私も携帯で時間を見るともう結構時間が経ってしまっていた。 でも、なんだか離れがたくて。 歩き出そうとする賢二郎の手首をつかんでしまった。 賢二郎は少し驚いたような顔をしたけれど、黙って足を止めてくれた。

「連絡したらちゃんと返事してよ」
「……たぶん」
「そこは約束してよ!」
「バレー忙しかったら忘れるかも」
「あーはいはい、バレーね」
「バレーといえば、お前観に来いよ。 東京の大会」
「……なんで? 賢二郎東京の大会出るの?」
「お前本当何にも知らないのかよ」
「バレー興味ないもん」
「なんでもいいけど、そのときは連絡する」

 なぜだか照れくさそうに言う賢二郎は前髪を手で払う。 そうしてまたあくびをしたのち、私の顔をじっと見た。 その顔が、どうにも、私が知っている賢二郎の顔ではなかった。 私が知っている賢二郎は、いつだってあまり感情が顔に出なくて、涼し気で。 出るといえば怒ってるときとか不機嫌なとき。 感情表現が苦手なんだなあ、と子どものころから思っていた。 言葉数が少ないわけじゃないけど、一つ一つの情報量が少ないから何を考えているのかその真意は探りづらい。 私は子どものころからいっしょにいるし、と高を括って勝手に想像して賢二郎の考えを先読みしているつもりだった。
 でも、たぶんそれはちがったのだ。 私はいつだって賢二郎の考えを先読みしていたわけじゃない。 私の中にある幻を賢二郎に押し付けていただけだったのだ。 言葉にしなくちゃ分からない。 言葉にされなくちゃ分からない。 子どものころからの幼馴染なんて、特別なアドバンテージにはならないのだ。 所詮、私も賢二郎も、どこにでもいるふつうの人間で、中学生で、子どもなんだ。

「賢二郎」
「なんだよ」
「それでも、私、寂しいよ」

 ぎゅっと賢二郎の手首を握る力が強まる。 正直に自分の気持ちを離すのはいつぶりだろう。 それなのに、不思議と気恥ずかしさはなかった。

「賢二郎が連絡をくれても、返信をくれても、会いに来てくれても、それでも、寂しいよ」

 私の予想。 私の中の幻は私の言葉にきっと、鼻で笑いながら「なに気持ち悪いこと言ってんだよ」って馬鹿にしてくるんだ。 賢二郎はこっぱずかしいことは絶対言わないし、私が真面目な話をしてもちゃんと聞いてくれないんだ。 きっとこの手のことだって「痛いんだけど」とかなんとか言って振り払うに違いない。 きっとこの勝手に溢れる涙のことだって「不細工になってんぞ」って言って馬鹿にするに違いないんだ。 それが、私の中にいる、幻。

「そんなこと言うなよ」

 賢二郎の手首をつかんだままの手を、ゆっくり剥がされる。 その手を賢二郎が両手で包み込むと大きく息を吐いた。

「寂しくないって言えよ」

 顔をあげて賢二郎の瞳を覗き込む。 さすがに泣いてはいなかった。 でも、なんだか、表情が、初めて見る色をしていて。 それが何色なのかとか、なんという名前なのかとか、そんなことは分からないのに、どうしようもなく胸が熱くなった。

がそんなんだと、俺まで引っ張られるだろ」

 賢二郎が瞳を私に向ける。 なんだかバツが悪そうな顔をしたけれど、一つ息を吐くとまたさっきまでの表情に戻った。

「賢二郎、寂しいの?」
「……寂しくねえよ」
「本当に?」
「本当に」
「本当?」
「……叩くぞ」
「照れてる?」
「悪いかよ」

 その返答に思わず少し笑ってしまう。 賢二郎は手を離して軽く私の頭を小突くと「帰るぞ」と言った。 「あ、うん」と足を進めようとした私の手を、賢二郎が当たり前のように握る。 ちょっと驚いてしまったけど、賢二郎がそのままふつうに歩き始めたので、私も手を握り返して歩き始める。
 歩きながらぽつぽつといろんな話をした。 最近聞いていなかった賢二郎の部活での話とか、受験の話とか。 最近話していなかった私の受験の話とか、引っ越しの話とか。 言葉にしなければ分からなかったことがぽろぽろとこぼれ落ちていく。 それをお互い拾い集めていくと、お互いの中に在った幻がどんどん破れていく。 そうして最後には小さな切れ端になってしまい、風に吹かれてどこかへ消えていってしまった。


top / FIN.