わたしは、別に佐久早くんとどうこうなりたいなんて思っていない。そんなことを望むのはとてもおこがましいことだと思っているし、佐久早くんに嫌な思いをさせたのだからそんな権利もない。ただ、佐久早くんにとっては鬱陶しくて言ったであろう言葉に、わたしは背中を押された。そのことをいつか佐久早くんに何気なく感謝できる日が来ないだろうか、と薄っすら期待してしまっていたのだ。
卒業式のリハーサル。あくびをこぼす生徒が多数いる。わたしも例に漏れず隠れてあくびをこぼしてしまいつつ、ちらりと辺りを見渡してみる。視界の端っこに、あの派手なグループの子たちが見えた。先生の目など気にせず楽しそうにおしゃべりをしている。ああ、やっぱりわたしは、あの子たちとは生きる世界が違う。あのときのわたしはやはり無理をしていたのだ。だから今、こんなにも清々しい気持ちでいられるのだろう。
わたしの斜め前にいる佐久早くんをこっそり見つめる。寒いのか気だるいだけなのか少し丸まっている背中。白い頸にかすかにかかる真っ黒な髪のコントラストが水墨画のように柔らかな雰囲気を醸し出している。なんだか、不思議な雰囲気の人。はじめは怖そうな人だと思っていたけど、こっそり佐久早くんを見ているうちにどんどんいろんな一面を知った。とても不思議な雰囲気をまとっていて、とても、とても、丁寧で真面目な人。なんでもきっちりやらないと気が済まないのか、生きることにも丁寧に向き合っている。その姿がとても凛々しく、かっこいい。わたしがこれまで出会った人の中で唯一、どんな人なのか強烈に興味を持った相手だった。
人はきっとこれを、恋、と名付けるのかもしれない。言葉にするだけで全身が震えるくらい恐ろしくなる。まさかそんなこと、誰にも言えるわけがない。佐久早くんは特別な人だ。この世にたった一人しかいない、とても特別な人。だから、わたしが恋をするなんて、とてもじゃないけれど。
リハーサルに参加できなかった校長先生の代わりに隣のクラスの担任教師が壇上に上がった。一人一人の名前が呼ばれて卒業証書、ではなく何も書かれていないただの紙を受け取っていく。一人一人丁寧に呼ばれる名前が体育館に響いている。
さくさきよおみ。とても美しい響きをしたその名前が呼ばれるのを待ってしまう。自分の名前より、佐久早くんの名前が呼ばれるその瞬間が待ち遠しくてたまらなかった。
▽ ▲ ▽ ▲ ▽
体育館から退場して、そのまま教室へ戻っていく。教室棟に入ったすぐのところで待っていてくれた友達が手招きしてくれる。「思ったよりだるかったね〜」なんて声をかけてきたその子に「あくびしちゃった」と照れつつ返す。出席番号が最後のほうの友達を待ちつつ廊下の端に寄っていると、体育館から出てきた佐久早くんが見えた。その横顔にドキッとして思わず目を逸らしてしまう。そんなわたしの様子に、友達が少し間を置いてから「あの、ずっと気になってたんだけど」と内緒話をするようにこっそり口を開いた。
「ちゃんって、佐久早くんのこと好きなの?」
びくっと肩が震える。呼吸が乱れそうになるのを必死に堪えながら「え、なんで?」としらばっくれておく。友達は半信半疑といった様子で「なんとなく?」と首を傾げた。本人もどうしてそう思ったのか分からないらしい。本能的に何かを嗅ぎ取った、というやつなのかもしれない。あまりの嗅覚の鋭さに白旗を振りそうになったけど、どうにかこうにか堪えて「そんなんじゃないよ」と誤魔化しておく。
もう一人の友達と合流して、何事もなかったように三人で歩きはじめる。受験しんどかったね、高校は別になっちゃうけど絶対またみんなで遊ぼうね。そんな話をしながら一歩一歩教室へ向かっていく。その足取りと同じくらいの速度で動く心臓。まだばくばくしている。この気持ちを人に知られてしまったのではないか、と思ってとても怖かったから。
友達二人もわたしがいたずらで佐久早くんに告白したことがあると知っている。だからこそ、今わたしが抱いている佐久早くんへの気持ちは知られてはいけない。そう思った。
▽ ▲ ▽ ▲ ▽
三月。卒業式はつつがなく終了し、みんな先生たちやクラスメイトと談笑して笑っている。卒業アルバムのフリースペースに何か書いて、とクラスメイトにねだる子が多い中でわたしはいつもの友達二人と変わらずに話している。三人とも別々の高校へ入学する。こうして教室で三人集まるのはこれが最後だ。そう思うと寂しくて、ついついお喋りが止まらなくなってしまう。
写真を撮る子たちを避けるように、佐久早くんが教室から出ていった。今は自由時間なのでもう帰った子ももちろんいるし、外で別れを惜しんでいる子もたくさんいる。佐久早くんはきっと帰ってしまうのだろう。ああ、結局声をかけられなかった。元から気軽に話しかけられる関係ではないのだから当たり前なのだけど。
こっそり佐久早くんの背中を見送っていたときだった。友達の一人がじっとわたしの顔を見ていることに気が付く。慌てて視線を戻して「ん?」と軽く反応してみる。友達はじいっとわたしを観察してから、なぜだか眉間にしわを寄せた。それからわたしの右手を掴むと、ぐいぐい引っ張って教室を出ていこうとする。もう一人の友達も困惑する中、わたしもハテナが止まらない。
よく分からないまま教室から出されてしまう。廊下で手を離してくれた友達に「なに?」と首を傾げる。そんなわたしにその子が「やらない後悔よりやって後悔!」と聞いたことがあるセリフを口にした。指を差した先は、佐久早くんが消えていった昇降口がある方向。もう一人の友達が「急にどうした」とけらけら笑う隣で、わたしは、なんだか目の奥がチカチカしていた。
たぶん一生後悔すると思う。何も言わずにこのまま卒業してしまったら。好きとかなんだとかじゃなくて、ありがとうというたった一言が言えなかったことを、わたしは一生忘れられない。
一つ息を吐いてから「い、いってきます」と自信なく宣言すると、友達が「いけいけ!」と笑顔で送り出してくれた。もう一人の子もよく状況が分かっていないはずなのに「がんばれ」と送り出してくれる。なんだかちょっと勇気が出た。恥ずかしい気持ちになりながら、普段は走ったら怒られる廊下を小走りして昇降口へ向かう。
角を曲がってすぐにある昇降口で佐久早くんを見つけた。心臓が痛いほどどきどきしている。決して、これは決して告白なんかじゃない。わたしにはそれをする権利がない。そう自分に言い聞かせて、一つ深呼吸。それから閉まりそうなる喉を無理やり開いて、そのきれいな響きの名前を呼んだ。
気怠そうに佐久早くんが顔を上げる。静かな瞳がわたしを捕らえると、なんだか不思議そうな顔をされてしまった。「何」とひんやりした声が向けられる。少しあの日のことを思い出す。また自分勝手な気持ちで佐久早くんを振り回してしまっている気がして、また喉が閉まりそうになった。
「……用がないならもう帰りたいんだけど」
「あ、いや、ご、ごめんなさい」
ああ、どうして人には感情があって、心臓があって、一つでも狂うと目を逸らしたくなってしまうのだろう。逃げたいという気持ちと言葉を交わせて嬉しいという気持ちがごちゃまぜだ。
佐久早くんは無駄を嫌う人だと思う。だからわたしがこうして言い渋っている時間が嫌で仕方ないのだろう。分かっている。分かっているのだ、そんなことは。たった一年ちょっととはいえ、ずっと佐久早くんを見ていたのだから。そんなことはとうの昔に知っている。それでもわたしは、うまく言葉を出せずにいた。
大きく息を吸う。佐久早くんの瞳をじっと見つめ返すと、やっぱり心臓はうるさいし手汗をかいてくるし、うまく話せる気なんてまったくしない。でも、逃げたいと思う自分はもういなくなっていた。
「佐久早くんからすれば、なんのことかさっぱり分からないかもしれないけど……」
「だから何」
「あのとき、はっきり言ってくれて、ありがとう」
佐久早くんがとんでもなく不可解そうな顔をした。数秒考えてから「何のこと?」と眉間にしわを寄せる。やっぱり佐久早くんからすればなんてことはない、至極当然な感想だったのだろう。それがなんだかおかしかった。
卒業したらもう会うこともなくなる。だから言っておきたかっただけ。そう素直に伝えた。佐久早くんはそれにも不可解そうな顔をした。「なんで?」とストレートに言われて体が固まる。なんで、と言われても。中学を卒業したらもう会わなくなる。そんなの誰がどう考えても当然のことだ。友達でもなければ何でもないわたしと佐久早くんが、卒業後も会うわけがないのに。佐久早くんの問いかけに困惑して固まっていると、佐久早くんが小さく首を傾げた。
「、井闥山だろ」
「えっ、そ、そうだけど……なんでそれ……」
「俺も井闥山だから高校でも会うだろ」
「…………え?」
「今生の別れみたいな顔で話しかけてきたから何かと思った」
ほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ、佐久早くんが笑ったように見えた。いろいろなことに呆然として固まっていると、佐久早くんが「高校の話してるの聞こえてきたから知ってた」と教えてくれた。
立ち尽くしているわたしに佐久早くんが「じゃあ。また高校で」と軽く言って靴を履き替えて行ってしまった。その背中を見つめながら、完全に思考が停止してしまう。
高校、同じだったんだ。知らなかった。佐久早くんに極力近付かないようにしていたせいだろうか。まったくそんな情報は入ってこなかったし、もちろん知ろうとさえ思わなかった。まさか追いかけるつもりなんてなかったし、そんなことをしたら今度こそ佐久早くんに気味悪がられるだろうと思ったから。
きゅっと自分の手を握って、小さな声で思わず呟いてしまう。やった。そんな子どもみたいな言葉と一緒に、少しだけ涙が出そうになる。それくらい、わたしにとっては、嬉しいことだった。
そうか、これはやっぱり名付けるとすれば、恋、なのだろう。わたしは佐久早くんに恋をしている。誤魔化しようのない事実なのだ。そうじゃないと何度も首を横に振ってきた。そんなんじゃない。それではいけない。いつもいつもそうやって気持ちをどうにか終わらせようとしていた。でも、わたしはこれを終わらせたくないんだ。どうにか実らせたくて、芽吹かせたくて、どうしようもなく諦め難かったのだ。
次に佐久早くんに会ったときは、なんと声をかけよう。佐久早くんは応えてくれるだろうか。そんなふうに明日を夢見たのははじめてで、心が躍った。
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