「あ、さ、佐久早、くん……」
思わず口に出してしまった。佐久早くんはじっとわたしを見たあと、ふいっと視線を逸らしてしまう。当たり前だ。佐久早くんからすればわたしは関わりたくない人間の枠組みに違いない。せっかく一番後ろの席を引き当てたのに、隣がわたしではあまり良い気はしていないだろう。気まずい思いで俯いてしまう。
がたっと佐久早くんが椅子に座った音。それだけでびくっと肩が震えてしまう。次の席替えまでおとなしく、できるだけ気配を消して過ごそう。心の中でそう誓う。ぎゅっとスカートを掴んで目を瞑る。気配を消す。存在を消す。そう念じていると「おい」と静かな声が耳に入ってきた。
「。聞いてる?」
目を開けて、ぎこちない動きで右側に顔を向ける。こっちを見ている佐久早くんと目が合った。頬杖をついてじっとわたしを見ている。いま、声をかけてきたのは、佐久早くんだろうか。
「無視してる?」
「えっ、あ、いえ! 聞こえてます!」
「スマホ。鞄から落ちそうになってるけど」
佐久早くんが指を差した先を見る。鞄の外ポケットに入れたはずのスマホが、キーホルダーだけポケットに入った状態でぶら下がっていた。思わず「あっ」と声が出る。慌てて手を伸ばしてスマホを掴み、外ポケットに入れ直す。さっき見たあとにノールックで鞄に戻してしまったからだ。手元を見ていなかったせいで入れ損ねたのだろう。
そうっと佐久早くんのほうに顔を向ける。「あ、ありがとう」とぎこちなく呟くと、佐久早くんは顔を前に向けて「別に」とだけ言い、それきりこちらを見ることはなかった。
わたしの名前、覚えてくれていたんだ。まあ、忘れられないくらい嫌な思いをさせた相手だから名前くらい覚えているのかもしれない。佐久早くんの中のわたしは面倒ごとに巻き込んできた変なやつでしかない。スマホのことを教えてくれたのは佐久早くんが優しいからだ。勘違いして話しかけたり関わろうとしたりしてはいけない。そうもう一度思い直す。
顔は向けないように、視線だけで佐久早くんのほうを見る。頬杖をついている左手。爪先がきれいに整えられていて、ごつごつとした男の人っぽい大きな手だ。それを見るだけでどきどきしてしまう自分が、ひどく恥ずかしい。恥ずかしいのに、触ってみたいなんてもっと恥ずかしいことを考えてしまう。わたしは本当にだめなやつだなあ。そう、縮こまってしまった。
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